あのたび -学ぶ意欲とカタカナ五十音表-
東ティモールに来て約1週間。首都ディリから他の町を回ろうとするが、バスがなく歩いて進むということが続いていた。
前日泊まった村はおそらくイリオマル(Iliomar)という名称だった。朝、ポリスが水を汲んできてくれた。石鹸と手桶で頭と顔と首を洗う。
コピスス(練乳入りコーヒー)とロティを食べる。1.8$。昼はご飯が炊いてあり、魚とゆで卵のスープをかけて食う。田舎の村では食材が乏しい。結局夜はボクの2$でインスタント麺5袋と卵2個を買い、ごはんを入れてお粥のようにして食べる。粗食だ。
軍隊にいたときも毎日こんな感じだったという。1年前の独立までずっと戦ってたんですもんね。その日は雨で移動は控えた。
翌日また起きてコピススとロティを食べる。昨日より量は増えてるのに1$のみ。
イリオマルを出発し、ビケケ(Viqueque)を目指す。が交通手段はない。途中までポリスのバイクに乗せてもらいそこからは歩きだ。山を越えるが遠くに海が見える程度。川があったがまたやはり橋が落ちている。内戦の影響だろう。だらかバスが通っていないのだ。
夜、暗くなる頃、広い田んぼを越えるとワトカラバルという村に到着。店らしきところで食事を尋ねるが、ただの民家だった。だがコピとナシアヤムをいただき、寝るベッドと井戸を貸してくれた。ありがとう。翌日朝5時にビケケ行のバスがあるという。
翌朝少し歩いた所にトラック・バスがありビケケへ4時間2$。パンを買いたかったがその前に腹が減ったまま出発してしまった。海外で長距離バスに乗るときはわりと不安で食料を買い込むのだ。何時間でつくかわからないし事故やパンクの可能性もあるので。
昼過ぎ無事ビケケへ到着。南部では割と大きな街で活気がある。腹が減ったままだが、安全上の確認のためかなぜかポリスに出頭させられる。日本のパスポートを見せると信用されて泊まって良いという。助かります。
荷物を置いて市場へいくとおにぎりらしきものがある。1個5¢は安いがめちゃくちゃ辛い。おばちゃんに笑われる。
途中国連日本の方たちが橋の修復作業をしている所に出会う。こんなにも遠い国の内陸の奥の街にまで来て日本人が他国の復興に貢献しているという事実を誇りに思う。だからポリスも日本人のボクに優しかったのだろう。
最近の政府は無駄に金をばらまいているなどという意見もあるが、実際に現場を見ると文句は言えない。
他の荒廃した村とは異なりビケケの街は復興真っ最中という感じで活気がある。ギターを弾いてる子供がいたり、コートで一緒にバスケットボールで遊んだり、教会からは元気な歌声が聞こえてきたりした。
子どもたちに囲まれ、日本語を教えてくれということになった。一番簡単そうなカタカナの五十音表を書いてあげた。
あと『N』は1文字で『ン』だ。
これを見ながら彼らは自分の名前や知っている日本人・会社名をカタカナで紙に書き、大喜びだ。
NAKATA=ナカタ、YAMAHA=ヤマハ。などと
五十音表はひっぱりだこになり、同じモノを2枚書くはめにもなった。
しかし問題がある。この表だけでは埋まらない部分があるのだ。小さい『ャュョ』や『ッ』などである。重要なのが両国の国名である。苦し紛れにJのジャ行を追加することで、
JAPAN=ジャパンとできるが、TIMOR=チモルとなってしまう。正確には『ティモール』と教えてあげたいのだが、それを説明するのはかなり難しそうだと判断してやめた。
日本式の50音順ではなく以下のようなアルファベット順にした方が彼らにとってわかりやすかったのかな? CQVXあたりは難しいけど。
カタカナは教育に飢えている子供たちをおおいに満足させた。彼らは自分の腕や建物の白壁に覚えたての自分の名前をカタカナで書きまくった。乱舞という言葉に近い状態だ。すごい熱意だった。
日本の子供があることを教えられたとして、これほどまでに歓喜するだろうか。日本は情報が多すぎるのだ。覚えなければいけないコトと捨てるべきモノを分けなければいけない。
この国では学校が機能していない。ボクの見る限り教会で神父がお祈りの歌を教えている程度だ。学ぶことに飢えているのだろう。聡明なリーダー格の少年はすぐにカタカナ50文字など覚えてしまうだろう、スポンジのように。
それに比べてボクはどうだ? 1年の旅行でやっぱり英語は身につかないし人の名前すら覚えられない。高校3年生のピークを境に記憶力・判断力・集中力・持続力の全てが衰える一方だ。
この国に必要なのは電気水道道路といったインフラだけど、この子供たちのためにも学校を早く再開してほしい。とその時感じた。
(つづく)