大学論②~学位の価値とその質保証を問う〜【前編】
はじめに
大学業界において、その関係者が長らく、質保証、質保証と繰り返し叫んでいる。では、「何の」質(=Quality)が保証(=Assurance)されている必要があるのかと問えば、それは「学位(Degree)」である。大学には学位授与権があり、それがその他の教育機関、例えば高等学校、専門学校、塾、研修機関とは異なる点であり、大学が特権的な地位を確保出来ている理由である。
学位とは、学士(△△学)Bachelor of ~~、修士(△△学)、博士(△△学)を総称した呼び方である。学士であれば「〇〇大学△△学部」の学部長名で授与され、修士、博士であれば「〇〇大学大学院△△研究科」の研究科長名で授与される。その意味では、保証をしている主体は、当該大学・大学院の学部長・研究科長ということになる(だから、大学は一般企業のように典型的なピラミッド型の組織とは異なり、学部長・研究科長に大きな権限が与えられている)。
ただ、学位の名称は、どの大学を卒業しようが、「学士(△△学)」となり、「学士(〇〇大学・△△学)」とはならない。その意味では、①「各大学・各学部の学位の質は保証出来ているのか」という問いだけではなく、②「日本として学位の質を保証出来ているのか」という問いも非常に重要な意味を持つ。(もちろん、③「日本を含む世界の大学が授与する学位の質は保証出来ているのか」という問いも重要だが、今回は割愛する。)
以上②の問いは、分かりやすく具体例を用いて言い直すと、『東京大学の経済学部長が授与する「学士(経済学)」と亜細亜大学の経済学部長が授与する「学士(経済学)」は同価値なのか』、『同価値でないにしても、そこには一定の質が保証出来ているのか』という問いに置き換えることが出来る。(ここで亜細亜大学を挙げたのは、単に、東京大学より入学者の偏差値が低く、経済学部があり、かつ知名度が高いという理由からであり、それ以上の他意はない。)
なぜ私がこの問いを立てるかと言うと、日本人は「資格」を取ることに、一定の意味を見出しているように思うが、こと「学位」に関しては、高い学納金を払って大学に入学しておきながら(子どもを入学させておきながら)、ほとんど意味を見出していないように感じるからだ。例えば、MBAを持っている、情報工学士を持っているということには無頓着であるが、「東京大学に入学した」(つまり、学歴)などには、過剰に反応をする人が多いように感じる。
また、私の働いている学校法人の事務職員の求人ページには、「(選考にあたっては)出身大学や学部・学科は一切関係ありません。」とある。この記載は、日系企業でよく見る「学歴差別をしていないアピール」であるが、学部・学科もそこに含めることで、「学位に価値を見出していない」という宣言とも取れる。
これは「健全な学位との向き合い方なのだろうか」そして、「この記載が許容される程度には、日本の大学が授与する学位には価値がないのだろうか」という当然の疑問が浮かぶ。これが本論の問題意識でありスタートラインである。前編では、日本の大学関係者が、学位の質を保証するために、どういった取り組みを行っているのかを整理し、その限界を確認する。そのうえで、後編では、ずばり学位の価値が認められていない理由とその解決の方向性を検討する。
文部科学省と認証評価機関の質保証における役割
大学関係者であれば分かりきったことであるが、最初に、日本の大学の学位の質を保証するためのスキームを整理しよう(質保証の議論をご理解されている方は後編に飛んでいただいても良い)。
質保証という概念の出自は、「工場での製品の製造」にある。例えば、ネジを生産する工場において、「製造したネジのうち、製品として通用するネジは何%か、そして、その割合を高めるにはどうしたら良いか」という問いが、質保証の根幹にある。教育関係者の中には、金太郎飴的人材の輩出を嫌う者も一定数いるが、質保証の議論は、本質的に「①理念型としての金太郎飴的人材はどういった人材か(ネジの仕様・定義)、そして、②いかにして金太郎飴的人材を高い精度で、世に輩出するか(ネジの良品率)」という問いへの回答としてある(もし多様性の担保を教育のゴールに置くのであれば、質保証の議論など無意味だ)。
そして、最初に確認したとおり、工場長は、(学長ではなく)学部長や研究科長である。また、日本という単位で見たとき、学位の質を保証している(≒ネジ協会)のが、「文部科学省」と「認証評価機関」ということになる。それぞれ見ていこう。
まず、大学および学部等を新設する場合、文部科学省に申請をし、文部科学大臣から認可を受ける必要がある。申請にあたっては、「大学設置基準」等の法令を満たすとともに、文部科学省が置く審議会の委員の審査(設置趣旨・教学内容・教員・財務などの審査)を経なければならない。また、その前段階として、文部科学省の官僚による事務相談も通過する必要がある(これが1番難関である)。その意味で、質保証はまず文部科学省(およびその管轄下にある法律群)がその関門としての役割を果たしていると言える。
また、学部設置後は、完成年度を迎えるまで(学部で言えば4年間)、文部科学省による「履行状況調査」いわゆるAC(After Care)を大学は受審する。昔は、ACを乗り切れば、晴れて自由の身であった。しかし、2004年に認証評価制度が導入され、「自己点検」と7年に1回の「認証評価の受審」が義務付けられることとなった(ただし、認証されなかったからといって、学位が授与できなくなるわけではないし、罰則が規定されているわけでもない)。そして、これに対応するため各大学は「内部質保証委員会」や「自己点検委員会」などを置き、質保証の取り組みを継続している(ということになっている)。
ここでいう認証評価機関とは、日本においては現在のところ「大学基準協会」、「大学改革支援・学位授与機構」、「日本高等教育評価機構」、「大学教育質保証・評価センター」の4機関があり、文部科学省から認証評価機関としての認証を受けている(その意味においては、質保証の最終ケツ持ちは文部科学大臣ということになる)。認証評価機関は、各大学から事務職員の出向を受け入れ、認証評価の事務手続を進めるとともに、日本の大学関係者から、評価委員を委嘱して評価を実施している場合がほとんどのため、厳しい意見は構造上、出にくくなっている。例えば、前回論じた単位制度はその典型で、どの大学も遵守できていないルールに対しては、誰もそれを正面から「ダメだ」と指摘できずにいる。
こういった問題もあり、「認証評価機関自体が大学を認証するに値する機関であるか」を評価する機関が必要ではないかという議論があることも付記しておく。
(モデル・)コア・カリキュラムという考え方
学位の質保証について考える上で、忘れてはならないこととして、(モデル・)コア・カリキュラムというものがある。単にコア・カリキュラムと呼ばれたり、モデル・カリキュラムと呼ばれたりもする。この概念は、2008年の中央教育審議会の答申「学士過程教育の構築に向けて」において明示された(当時の答申ではコア・カリキュラムと呼ばれている)。
各大学の各学部が自由にカリキュラムを設定すると、学位の質が保証されず、また学位の国際通用性も担保されないため、例えば、経済学であれば、ミクロ経済学、マクロ経済学は必ずカリキュラムに含めましょうといった授業科目の例をまとめたものとなる。「モデル」に力点が置かれる場合は、あくまで「こんな授業科目を置いた方が良いのではないか」という提言に留まり、「コア」に力点が置かれる場合は、「最低限、必須で教授すべき内容」を意味すると整理すれば分かりやすいかと思う。
なお、(モデル・)コア・カリキュラムと呼ばれるものは、あくまで「推奨」であり、法的縛りではない。しかし、国家資格の受験資格を付与する看護学部や医療系学部等については、養成所指定規則を遵守する必要があり、その規則の中で授業科目に関する制約があるため、法的拘束力を持つという違いがある。
2017年に「教職課程コアカリキュラムの在り方に関する検討会」が「教職課程コアカリキュラム」という答申をまとめているため、教員養成系学部の動きが活発であるが、各学問分野ごとに、力の入れ方は様々であり、ネットで「〇〇学 コア・カリキュラム」と検索していただくだけでも、その濃淡はある程度推測できる。
各分野ごとの傾向を一言で言えば、「医学、教職課程、医療」など職業と直結した学問については、コア・カリキュラムに関する議論は活発であるが、そうでない学問は活発でないとまとめることができる。以上から、「学位の質保証」や「学位の国際通用性の担保」という観点よりも「職業資格の質保証」という観点が重視されてきたことが容易に見て取れる。ここでも、「学位」よりも「資格」を重視する傾向が見て取れるのである。
少々長くなってしまったため、前編はここまでとする。認証評価制度、内部質保証の取り組み、コア・カリキュラムの設定など、学位の価値を保証する制度とその制度を運用する関係者の努力は、決して無視して良いものではない。しかし、だからと言って、日本社会の中で、学位が価値あるものとして認識されていないという事実もまた決して無視することはできない。後編では、ずばり日本において学位の価値が認められていない理由を問うとともに、解決の方向性を提示したい。