『構造と力』千の否のあと大学の可能性を問う
浅田彰『構造と力』。文庫化されて以降、どの本屋にも必ず平積みされており、否でも応でも目につく。久しぶりに、あの文体、浅田彰節に触れたいという思いがなくはない。というか、十二分にある。その一方で、「30半ばで手に取るようなものではない」、「論旨は覚えているではないか」「愚にもつかず、腹にたまらない思想ではないか」という心の声にも耳を貸さないわけにはいかない。結局、大垣書店で知人を待つ間の暇つぶしに前者の誘惑に負け、手に取ってしまった。本書は(そしておそらく浅田彰は)、気づけば手に取ってしまうカリスマ的雰囲気を確かに纏っている。
私が最初に本書を手に取ったのは12年ほど前である。総合人間学部の知人と文学部の知人が、本書の読書会をしようと私を誘ったのがきっかけである。「浅田彰」とGoogleで検索をしたところ、彼と私が同窓(当時、私は京都大学の経済学部に在籍していた)であることを知り、興味を持ち、その読書会に参加したように覚えている。当時の私は、水上勉が住んでいたという百万遍の思文閣マンション、その地下にあるアナーキーなスペース(「めん処譽紫」の奥)に入り浸っており、読書会もそこで行われた。
その読書会に参加していたのは、全員が京大生と同志社生であり、所謂、受験戦争の勝ち組と呼んで差し支えないメンツであった。そんな受験勉強という不毛な努力を終えた我々は、共通して「幸福な人生を手に入れるために、今を犠牲(=手段)にして、努力をする」という手段的思考にうんざりしており、一言で言えば「ニヒル」な気分に浸かっていた。(在学中に、公認会計士の資格をとった経済学部の知人を私は心底軽蔑していた。)ただし、単にニヒルだったわけではない。手段的思考ではない、生きるための指針=エチカを探し求めていた。そんな我々にとって、本書の次の一文には、著者と自分たち自身を同一化するに十分な力を持っていた。
10年前の大学生は確かに今の大学生より自由だったし、遊んでいた、遊び倒していた。ただ、それは、それ程、カリキュラムに縛られていなかったというだけのことであり、「醒めた賢明な処世術」としてモラトリアムを満喫していたに過ぎない。では、浅田彰は、「醒めた賢明な処世術」ではない生き方として、どんなエチカを我々に提示していたのだろうか。それは文庫本の帯にも採用されている次の一文が端的で分かりやすい。
「シラケつつノリ、ノリつつシラケること」浅田彰が称揚するこのスタイルは、2010年代の大学生にも一定の共感を持って迎えられた。ただ、1983年に一世を風靡した本書のスタイルが、その30年後に意味を持つというのは、いささか異常な事態である。その異常性を説明する仮説は、2つ想定される。1つは、単にこの読書会メンバーが特異なメンバーだったのであり、本書の影響力はその特異なクラスタにおいて限定的に意味を持っただけだという仮説。もう1つは、1980年代と2010年代とで本質的なところで社会情勢と思想状況に変化はないという仮説である。浅田彰のスタンスとは相容れないSEALDsが一定の共感を持って受け容れられていたことを考えると、前者の仮説が濃厚ではある。が、後者の仮説も捨てきれない。
私は、1983年の『構造と力』を、村上龍のデビュー作であり、1976年に世に出た『限りなく透明に近いブルー』、また村上春樹のデビュー作であり、1979年に発表された『風の歌を聴け』に連なる作品と理解をしている。共通するのは「近代が持つ否定性」からの距離である。小林多喜二『蟹工船』、島崎藤村『破戒』、中上健次『枯木灘』など、近代文学は、差別や不平等などを「敵」と措定し、それを弾劾=否定することで、共感を得、読者層を獲得してきた。近代とは、端的に、封建的遺制の否定をその動力源とするからだ。ただ、1970年代後半から、貧乏や差別、不平等が解消されたことで、その「否定性」にノレなくなった。結果、政治や思想はダサいものだというレッテルが貼られるようになる。もちろんそれには学生運動の失敗が尾を引いているだろう。
特に、1990年代以降、資本主義システムに代わり得る社会システムへの想像力が喪失したことは、ことのほか大きいように思う。浅田が言うように、資本主義は、その否定性すらも取り込み、消化吸収し、システムの一部に組み入れてしまう。資本主義システムを否定することのバカらしさ、そこからくるシラケの空気、それは1980年代も、2010年代も、何なら今でも変わらない。その状況に対して、資本主義を、欲望を肯定したのが村上龍であり、近代の否定性を懐かしんだのが村上春樹であり、否定性ではない在り方でそれでもなお批評的であろうとしたのが浅田彰だった、私はこのように整理をしている。否定性が力を失ったポストモダンな社会に生きているという意味では、40年前も今も変わらない、そう考えると、2010年代に本書に惹かれたことも、文庫化された本書が1ヵ月もたたずして再販されたことにも、納得がいく。
ここまでくると、『構造と力』の「序に代えて」の副題を「《知への漸進的横滑り》を開始するための準備運動の試みー千の否のあと大学の可能性を問う」とした意味も見えてくる。京都大学人文科学研究所助手、20代後半の若造は、千の否(=近代)のあと、つまり、「ポスト近代、ポストモダン」な社会において大学は、知は如何にあるべきかを、問うていたのだ。もちろん、その後の大学の歴史は、「思想的には」ほとんど見るに値しない。①マス段階からユニバーサル段階に移行する中で、ますます「有用性」に従属するようになり、その批評性は失われていった。②養成する人材像、3つのポリシーを掲げることが義務化され、学知の「狭隘な一貫性」にますます閉じこもるようになった。③キャピタルアカデミズムの名のもとに、大学の知は、資本に還元されることで、その意味を持つようになり、資本主義を批判する視点は急速に失われていった。こんなところだろうか。
浅田は「序に代えて」の「おわりに」を次のように締めくくる。
我々は楽観主義者たれているだろうか。「シラケつつノリ、ノリつつシラケること」ができているだろうか。真に批評的な態度を堅持できているだろうか。大学にその余地を残せているだろうか。はて。