大学論①~単位制度の実質化は可能か、そして必要か~【前編】

 私は学校法人の事務職員として、人事、専門職大学の設置、潰れた高等学校の再建、入試広報の業務などに従事してきた。かれこれ7年も、事務職員として働いていると、日本の大学について、思うところが芽生えてくるし、鬱積もしてくる。そこで、日本の大学について思うところを書くことにした。第一弾は、日本の大学の宿痾である「単位制度の実質化」について、日本型雇用慣行と絡めて論じたい。

 最初に、「単位制度の実質化」とは何か、それがなぜ問題なのかについて整理する。日本は、初中等教育は優れているが、高等教育、つまり大学教育がなっていない、ダメだと一般に言われている。このような現状を打開するために、特に平成に入ってから、文部科学省主導により、様々な制度改革、政策誘導が進められた。シラバスの導入、FD・SD研修の実施、3つのポリシーの策定、認証評価制度の導入など枚挙にいとまがない。

 これらは、基本的には、(旧)ドイツ型の研究重視の大学(フンボルト理念!)からアメリカ型の教育重視の大学への転換として理解することが出来る。しかし、「日本の大学生は勉強をしない」という現状は特段変わっていない。その要因の大きな一つは、「単位制度が実質化されていないこと」にあると私は考えている(その主張の代表的論者は社会学者の吉見俊哉)。

 大学が守らねばならないルールである大学設置基準、その第21条第2項に次のような規定があり、これが単位制度の一丁目一番地である。

前項の単位数を定めるに当たつては、一単位の授業科目を四十五時間の学修を必要とする内容をもつて構成することを標準とし、授業の方法に応じ、当該授業による教育効果、授業時間外に必要な学修等を考慮して、次の基準により単位数を計算するものとする。

 それ以降の項に、講義・演習の場合は、うち授業時間は15時間~30時間などと規定が続く。2単位の講義であれば、90時間(45時間×2)の学修が必要であり、そのうち、30時間程度は講義にあて、残りの60時間程度は、時間外学修にあてなければならないとなっているのである。

 日本の大学は2単位の授業科目が多く、半期に15コマ程度授業で埋まっていることもざらである。もしそのすべてが2単位の講義であったと仮定した場合、時間外学修に、900時間(=15科目×2単位×30時間)程度あてる必要がある。4月~7月までの120日間で割ると、1日あたり、7.5時間、時間外学修をする計算になる。

 しかし、バイトもし、部活・サークル活動にも勤しんでいる大学生が1日7.5時間も時間外学修できるわけがない。というより、仮にバイトとサークルをしていなかったとしても、授業を3コマ(15科目÷5日)受講したうえで、さらに7.5時間勉強できる大学生がこの世に何人いるだろうか?

 だから、教員は、学生が時間外学修をそこまでしなくとも単位がとれるように授業を設計し、単位認定を行う。大学業界においては、大学教育の質保証が声高に叫ばれているが、この問題に大学として正面から取り組めているところはないと言っても過言ではない(もちろん、個別の教員による実質化の取り組みは多数存在するし、それを無視することは出来ないが)。

 これが日本の大学教育の質が低いと言われる理由であり、大学生が勉強をしない(物理的に出来ない)理由である。これは、交換留学においても、重大な問題となる。なぜなら、日本の大学の1単位を海外の大学の1単位とみなすには、「軽すぎ」て、単位を互換するに相応しくないと判断されかねないためである。

 例えば、アメリカの大学であれば、半期に4~5科目しか履修せず、代わりに、1科目の単位数が多く、講義の都度、時間外学修をしないと単位を取れないと一般に言われる。日本においては、CAP制(履修可能な授業科目数の制限)の導入や、15回の授業の半強制実施など、外堀を埋める努力はなされてきたが、本丸(時間外学修の徹底)には手を付けられていない。大学設置基準が遵守されていないのだから、本来、認証評価機関は認証してはならないが、評価者も日本の大学関係者であるがゆえに、誰もそれを指摘しないのが現状である。

 では、なぜ、日本の大学は単位制度を実質化出来ないのか。大学の内的事情としては、大別すると次の3点が挙げられる。

  1. TA(Teaching Assistant)制度(大学院生などによる授業補助)が充実していないため、担当教員一人が時間外学修の評価を全て行わねばならないが、それは現実的に不可能である。

  2. 教員の学問の体系性へのこだわり、すなわち、全てを一通り学ばせるべきだという観念が強く、結果的に、科目数が増加し、1科目の単位数(ボリューム)を厚く出来ない。

  3. 教員が自身の研究テーマを教えたいという理由から、2同様、科目数が増加し、1科目のボリュームを厚く出来ない。

 詳細な説明は割愛するが、ぱっと見、どれも、大したことのない事情に見える。おそらく、実際大したことないのだろう。ではなぜ、単位制度は実質化しないのか。それは、次に述べる「就活」という外的要因が大きく絡んでいるからだと私は考えている。

 皆さんご存じの通り、今の大学生は、3回生の前期から後期にかけてインターンシップを行い、3回生の終盤から4回生にかけて就職活動を行っている。それはすなわち、3、4回生時に勉学にあまり時間を割けず、それゆえ1、2回生のうちに単位を取っておく必要があることを意味する。そして、その結果、1科目に多大な時間外学修を課すことができなくなる。

 就職活動が出来ないほどに、勉強しなければならないようであれば、大学に対して、学生や保護者からクレームが届くのは必須であり、それが原因で、就職できなければ、受験生から敬遠され、大学は入学者を確保できなくなることは言うまでもない。日本の大学生の多くは、学納金に依存している私立大学に通っており、入学者を確保出来なくなれば、倒産するほかない。それゆえ、学生を追い込むような教育課程を組むことが出来ない。

 終身雇用制度とセットの新卒採用という日本独特の雇用慣行、そして、大学在籍中に就職を決めなければ負け組であるというレッテルが、日本の大学を徹底的に貶めているのである。なお、大学在籍中に就職活動をするのは、世界的にレアな国であり、4年間、大学での勉強に集中出来る国に比べて大学教育の質が低いのは当たり前と言えるだろう。だから、日系企業からの大学への批判は、根本的に狂っていると言わざるを得ない(もちろん、大学側にも責任の一端はあるが)。

 前編はここまでとする。後編では、就社(≒日本的雇用慣行)と就職(≒ジョブ型雇用)の違いに着目しつつ、大学は、大学教育を通じて、これから労働者になる学生に、何を身に着けさせるべきかについて考察し、サブタイトル「単位制度の実質化は可能か、そして必要か」という問いに、私なりの回答を提示したい。

いいなと思ったら応援しよう!