大学論①~単位制度の実質化は可能か、そして必要か~【後編】

 本記事は、次の記事の後編である。前編では、単位制度の実質化とは何を意味するのか、そして、実質化出来ていない事情を整理した。本記事では、就社(≒日本的雇用慣行)と就職(≒ジョブ型雇用)の違いに着目しつつ、大学は、大学教育を通じて、これから労働者になる学生に、何を身に着けさせるべきかについて考察しつつ、サブタイトル「単位制度の実質化は可能か、そして必要か」という問いに、私なりの回答を提示したい。

 日系企業は、戦後、終身雇用、賃金の年功序列、新卒採用に代表される日本的雇用慣行を確立してきた。日経企業に「就社」した若者は、ジョブローテーションにより様々な部署を経験する中で、課長・部長と昇進していくことが期待される。そして、大きな問題を起こさない限り、一定の年齢に達するまで毎年基本給は上昇し、定年まで勤めあげる。

 新卒採用で採用された学卒者は、給料が安い分、即戦力として期待されていたわけではなく、社内で育てるという前提で、ポテンシャルはあるが、まっさらな状態であることが好まれた。そして、そうであるがゆえに、日系企業は特段何も大学教育の中身に期待してこなかった。

 しかし、平成の大不況により、企業体力が衰え、終身雇用制度を維持できなくなり、社内で教育する余裕もなくなり、「大学への期待」はかつてないほどに高まっているのが現状である(高まっている理由には、大学進学率が上昇したことにより、学卒者の質が下がっていることも忘れてはならない)。では、日系企業は大学生および大学に何を期待しているのだろうか。

 よく聞く言葉として、経済産業省が2006年に提起した「社会人基礎力」というものがある。『「前に踏み出す力」、「考え抜く力」、「チームで働く力」の3つの能力(12の能力要素)から構成されており、「職場や地域社会で多様な人々と仕事をしていくために必要な基礎的な力」』と定義される(なお、「社会人」という、英訳出来ない奇妙な概念について言いたいことは多々あるがここでは割愛する)。

 注目したいことは、3つの力の中に、「専門的知識」が含まれておらず、その3つの力が全て「ポテンシャル」のようなものであり、これまで日経企業が学卒者に求めてきたものとほとんど変わりがないことである。

 前編で、新卒採用は日本独特の雇用慣行であることに触れた。海外において、新卒採用という市場がないということは、大卒者が、(日本で言うところの)中途採用者と同じ土俵で、勝負することを意味する。日本においても、中途採用においては、前職での経験が評価の対象となることが多い。「こいつは前職で経理経験が長く簿記の資格を持っているから、うちでも経理課で使えるだろう」といったように。

 ということは、つまり、海外においては、新卒者も、「専門的知識や技能」が求められることを意味し、日本のように就「社」するのではなく、就「職=job」するのである(このことを指し、日本的雇用慣行の対比としてジョブ型雇用と呼ばれる)。だから、海外では、何を学んだか、何の専門的知識を有しているかを表す学位(「学士(経営学)や修士(看護学)など)が価値を持ち、価値を持つがゆえに、その質が保証されている必要があり、簡単には単位が取れない制度になっているのである。

 例えば、ジョブ型雇用社会においては、管理職は、叩き上げで昇進させるものではなく、「専門職=job」である。ゆえに、マネジメントやマーケティングについて理解しているMBA(Master of Business Administration)取得者が就くべきポジションである。

 私は大学職員(=事務職員)であるが、当然、上司もカテゴリーとしては事務職員である。ジョブローテーションにより、学生支援の部署や教務の部署、入試広報の部署を経験していたからと言って、必ずしもマネジメントが出来るわけではないし、ましてやマーケティング的発想が出来るわけではない。多くの大学は、そのような人間が、課長・部長・事務局長として経営を担っているわけだが、おそらくそれは、学校法人という狭い業界に限った話ではないだろう。

 もちろん、日本にも、看護学部や工学部のようにジョブ型雇用と親和性の高い学部・学科が存在することは忘れてはならない。特に、医療系の学部は、卒業時に国家資格を取得するため、それだけでも質が保証されている。

 しかし、総じて言うと、日本的雇用慣行が続く限り、大学での「専門的な」学びは無視し続けられるであろうし、学位が持つ価値は低く、どの偏差値帯の大学を卒業したかが、意味を持ち続けるだろう。そして、日系企業には、終身雇用を続ける体力はないが、今の新卒採用という制度だけは、決して捨てないであろう。なぜなら、馬車馬のように働くことの出来る若い労働者を安い給料で雇うことが出来るからだ。

 そろそろまとめに入ろう。「単位制度の実質化は可能か、そして必要か」という問いに対しては、前編で述べたとおり、在学中に、就職活動が始まる今の構造が変わらない限り、不可能である。また、そもそも大学での専門的な教育・研究は、一部の学部を除き、日本的雇用慣行を前提とする日経企業から求められてすらいないと言えるだろう。だから、日本の大学改革は、失敗し続けているのである。しかし、単位制度の実質化は一切求められていないのかと言うと、「そうでもない」と言うのが、私の意見である。なぜか。

 日本社会が新卒者に求めるものは、社会人基礎力に代表されるポテンシャルであることは最初に確認した。そして、それを構成する3つの力のうちの一つは「考え抜く力」(以下、「思考力」と呼ぶ。)である。変化の激しい時代に自分の頭で考え、問題を解決できる思考力が学卒者にも求められているのである。思考力というものは、当たり前だが自然と身につくものではなく、教育によりはじめて開発されるものである。そして、単位制度が実質化すると、思考力は養成されると私は確信している。

 前編で確認したとおり、単位制度は、時間外学修を授業の倍の時間することを前提としている(講義15時間:時間外学修30時間)。それは、すなわち、時間外学修として本を読んだり、調べたりする中で、自分の頭で考える訓練を積んでいることを意味する。思考力は、授業を聞き、メモを取り、それを覚え、テストで答えるだけではさして身につかないし、ましてや、知識を持たない大学生が授業中にグループで話し合ったところで身につくものでもない。たくさんの本を読み、他人の意見を比較検討し、自分の意見を構築するという繰り返しにより、養われるものである。

 だから、私は、単位制度の実質化は、日本社会にとっても必要なことであるし、そのための構造改革(卒業後に就職活動をするというルール決め)はなされるべきであると考える(もちろん、ジョブ型雇用に移行することで、新卒採用もなくなり、大学教育の中身に光が当たるのであればそれは願ったりであるが)。この記事を最後までお読みいただいたあなたはどのように考えますか?

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