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夜香木

普段は水差しは夕食後には部屋に持ってくる。
今日はすっかり忘れていた。22時。
手元にある水差しに残った水はグラスに半分もない。

この家の夜は早い。
遠いダイニングルームまで、そっと取りに出る。
広くて長い廊下は誰もおらず、ひっそりとしている。
ところによりぼんやりと灯りがついている。
ところにより暗闇が広がっている。

8年前に印度で買って愛用している手縫いの室内履き。
最近になって歩くたびにキシキシと音を立てるようになった。
縫製はしっかりしていたので残念だ。

廊下から階段まで出ると、冷気を感じた。
屋上の扉が開けっ放しなのがわかる。
ダイニングルームは階下の果てにある。
キシキシ、キシキシと足音を鳴らしながら階段を下りる。
真っ暗なダイニングでスマホのライトをつける。
水差しを取り、また階段を上る。

踊り場で、部屋へ戻るか、屋上まで行くか、軽く躊躇する。
冷気に誘われるがまま、屋上まで上る。
屋上への扉が閉じている時は鉄の閂を開けなければならない。
無粋な音を響かせてしまう。
今夜はこの室内履きの音だけだ。
キシキシ、キシキシ。

屋上に出ると、一面とてもよい香りに包まれていた。
そうだった。
「またこんなに蕾をつけたから、暫く楽しめるわね」
一昨日、この夜香花の話をしていたのだった。

夜香木。ナイトジャスミン。
昼のジャスミンはここの国花でもある。
チャンベーリー。
夜のジャスミンは何というのか。
Raat (夜) ki (の) Raani (女王)。
これ以上の名前はないようにも思う。
それでも、どちらかというと和名の美しさに惹かれる。
どの名前がよいか、優劣をつけるのも莫迦莫迦しいことではある。

ひとしきり香しい冷気を楽しみ、階段を降りる。
離れていた意識がまた、室内履きに戻る。
キシキシ、キシキシ。
部屋の扉をそっと閉める。

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browneyes
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