神の発明
高次対称性を持つスピリット
同名の中沢新一(著)の本で述べられています
いわゆる、唯一神型の高神とアニミズム型の来訪神が
どのように生まれ、そして現在の私達の精神に
どのように関係しているかを、簡単にまとめます。
(※詳しく知りたい方は、
「カイエ・ソバージュⅣ 神の発明」を読んでみてください。)
さて、
まず一番初めの「神」なる概念の感覚をなるたけ
分かりやすく説明するなら、生まれたての、もしくは、
お腹の中に居る時の私達(赤ちゃん)の精神状態を
想像してもらった方がいいと思います。
その時期、ほとんどの人は後々になって私達が
「実在」とか「現実」とか呼んでいる「唯物論」的
感覚は持っていません。
では赤ちゃんは、何をもって世界を見ているかというと
無意識とか変成意識といった、流動的知性の状態で
外を見ています。
いきなり流動的知性という難しい感じですが
要は、目の前の事や物をある特定の「何か」に
限定はできない状態の世界観です。
だから、お腹の中の子供に「コップ」という概念を伝えても
コップその物を意識的に差別化できていないので
それはある意味「橋」とも置き換え可能な状態という事です。
そういった「コップ」と「橋」といったものの置き換えは、
本来なら「意識」をもった人にとって、全く不可解な思考です。
しかしそれは、意識によって存在が固定され、
内容の「交換」や「圧縮」を自由に起こすことが
出来なくなったからこそ不可解に思えるだけで、
まだ完全に無意識の状態では、全く問題なく交換可能です。
そんな、自由に変換可能な状態を過ごしているのが
「赤ちゃん」の状態で、それを専門的な言葉で言えば
「対称性」(意味の交換や圧縮が可能な状態)
の状態と言います。
そしてその「対称性」を、さらに高めて
もう本当に実際に何モノにも変えられるレベルを
「高次対称性」という言葉で表現します。
その状態はまるで宇宙の原初状態です。
原初の宇宙は、そこにエネルギー場のみ存在している
ような状態だったそうです。
そしてその後、聖書にある「光あれ」の一言のように、
一筋の光が発生する事で、エネルギー場のバランスが崩れ、
流動を開始し、そこから長い年月をかけて
現在の宇宙になったと考えられています。
つまり、初めはただエネルギーの場であった原初の宇宙は、
螺旋運動の果てに、金星や火星、そして地球や人類にも
なったのですが、
「高次対称性」の場合、そこからさらに
「金星」が「あなた」にも
「火星」が「コップ」にも
自由になれる状態をいっており、これをもっと身近(?)
な言葉で表現すると無意識とか変成意識とかになります。
さて、そんな「高次対称性」ですが、これを神という概念から
考えるなら、もう少し身近に思える言葉として「スピリット」
と言う表現が一番適切になるでしょう。
(神はこの後生まれるのです)
スピリット、それは何物にもなる魂の状態。
又は、
どのような存在にも、神にも人にも成れる総合的な「無意識」の状態。
それがここで言う「スピリット」です。
(そしてイワユル「神」ではない という事が大切です。)
この状態では全てが交換可能なため、例えば、
「生と死」も「メビウスの輪」が裏と表を
行き来できるのように交換が可能な状態を示しています。
そのようなお腹の中にいる赤ちゃんの完全無意識な精神状態から、
ある時、一筋の光である「意識」が生まれます。
そんな「意識」の力は身の回りのものや、
世界を認識するごとに、自由に交換可能だった対称性を
失っていき、同時に「コップはコップである」という
非対称性をもった交換不可能な形に安定させます。
それは、元々の「スピリット」に対し、その力場を
座屈させるような圧縮力を生み出すこととなり、
最終的に「スピリット」を座屈させ、変形させます。
すると、その状況に合わせて精神は、高次対称性を持つ
スピリットから代わりに、二つの存在を生み出したのです。
その一つが「非対称性」を持つ高神で、
もう一つが「低次対称性」を持つ来訪神です。
つまり、人の意識が生まれた事で大きく分けて
2種類の神が生まれたのです。
非対称性の高神
「非対称性」の高神は、一神教における「神」のように
・「他に変えの利かない」
・「絶対的な存在」
そして
・「言葉で表現できない存在」
となり、中沢新一は「トーラス型」
(ドーナッツのように真ん中が空洞)と呼んでいます。
真ん中が空洞のトーラスは、その表面に映し出された
全ての叡智を使っても、中心を表現する手段には届かない
という事を示しており、
その為、この高神の存在を表すには
「光」とか「全て」とか
そういった表現しかできないのです。
それと同時に「私が存在できるのは何故?」
という絶対的に代えの利かない問いを支える宗教観になります。
さて、このトーラス型の高神は「非対称性」と名前が付くように、
「コップはコップ」という事しか許さない概念です。
つまり厳格な理論的思考と相性のいい精神性で。
具体的に言えば「非対称性」の神の持つ論理では
「父はコップで珈琲を飲んでいた」
という事が、例えば「事実」という言葉と共に
絶対の真実となる感覚を生みます。
もしこれが「対称性」の状態でしたら
「父はコップで珈琲を飲んでいた」ああ、だから「珈琲は父なんだ」
という非対称性からすると摩訶不思議な変換が可能だったのですが、
それを非対称性では否定します。
この非対称性の感覚により、人類は他人とのコミュニケーションを
取り間違うことなくできるようになり、曖昧さを排除してきた
と言えますが、しかし1900年代になると、さすがに論理的
思考の強さが西洋を覆いすぎた為、精神疾患が増え、同時に
フロイトが無意識を発見するに至ったのです。
つまり、確かに高神の論理性は人類に科学的な発展を生みましたが、
必ず原因と結果があり証明が要求されるような高神だけの世界では
人の精神は息苦しさを感じる事が分かります。
そこで、もう一つの「低次対称性」を持つ「来訪神」の出番です。
低次対称性の来訪神
「来訪神」は高神を縦軸とすると横軸のような関係の神で
分かりやすく言えば多神教的な存在を示しています。
来訪神の特徴を簡単に特徴を言えば
・「名前がある」
・「民謡や民話、お祭りなどに現れる」
・「死の影などを持っており、なんとなく恐ろしい」
というもので、例えば
・エジプト神話の神
・古事記に出てくる神
・指輪物語に出てくるすべてのキャラクター等々
に、その対称性のレベルに差はありますが
どれも「低次対称性」の神を表しています。
そんな「低次対称性」の神は、多少強引に解釈すれば
「想像力」という言葉から生まれてくる数々の存在であり、
同時に人間にとって、その神々は「私」という
「意識(自我)」を”緩める”作用を持つ存在です。
そんな来訪神の存在は、意識の高神がもたらした
「人の生と死を明確に分ける」人間の世界を
「森の暗闇の先には鬼婆がいる」といった
民話や文化などで「生活の隣には死がある」という
感覚を人にもたらし、切れてしまった生と死の
メビウスの輪をつなげる作用を生み出します。
言い換えると
来訪神は「生は死と繋がっている」という事を、
体感とともに、人間の世界観を広げてくれる
「低次のカオス」です。
対比として、
もし今の社会の中で「高次のカオス」にどっぷり漬かった人がいた場合、
その方は統合失調症などの病名が付くでしょう。
論理思考が社会的基盤として動いている現在は、
そんなカオス的思考を恐れ、社会の外へ置きたがるからです。
ですが、逆に「高神の論理性」だけの社会では
決まりきった事しか起こらないため、驚きや、怒り
といった情動に関係する物事は起こりにくくなり、
それはなかなかに殺伐とした世界です。
しかしそこに「低次のカオス状態」が一緒にあるならば、
「高神の論理性」との二人三脚によって秀でた芸術や
ブレイクスルーとなる技術が生まれるのです。
この関係を簡単に言えば
・低次のカオス性を理論的に「翻訳」する事で生まれるのが、科学。
・高神の論理性のエッセンスをカオス性の中で使用すれば、神話。
が生まれるという事です。
ですので実は普段、私達は自らの精神性の安定のためにも
社会性の中(高神の論理性)で生きながら
お祭りなど、ある特定の行事では「低次のカオス状態」を
生きる事で、普通の日々を可能にしているのです。
スピリットから生まれた2種類の神に囲われて
私達の生活はなっていると言えるのです。
最後に、
そのような高神と来訪神を念頭に世界を見てみると、
結果的に世界で最も広まった宗教である
キリスト教のカトリックは「三位一体」という言葉で
一神教の中に「聖霊」というスピリットを含ませており、
実は「god」という一神教的な「高神」をおきつつ、
同時に「マリア」や「聖霊」といった「低次対称性」
の存在も置いているハイブリッドな面白い宗教である
事が見えてきます。
これには、流石!人の精神を分かってる~
と言いたくなる気がします。
以上。
高次対称性をもつ「スピリット」が
人類の「意識」の発達によって座屈し
非対称性の「高神」と低次対称性の「来訪神」
に分かれた現在までの精神的歴史の概要となります。
最後まで読んでいただきありがとうございます。