唯一神の名が呼べないわけ
今回は唯一神型の宗教において
神の名前を人が呼ぶことができない事について
簡単にまとめます
まず大前提として人(唯一神の世界感では)は
言語体系でモノをとらえます。
何かを考えることに人は言語を使用します。
仮に考える何かに対し直接言語を使用しなくとも
概念的にそれを思考する場(トポス)を必要とするので
その場を作るためにも言語を使用しています。
ですので人は言語から逃れて思考できません。
さらに言えば、
無意識という概念が発見されるまでは
この考え方は「見える世界」に対してのみ
「思考で理解する」のが人間であるとされてきました。
しかし、
1900年代の無意識の発見から
1950年代までの間に
無意識についての数々の哲学的アプローチが成され
最終的にレヴィ・ストロースの構造主義にて
無意識という人が認知できない部分においても
人は言語体系で世界をとらえていると考えられる
ようになりました。
すると言語体系でもって「神」という概念を
何かしらの言葉で表現しようとするのですが、
ここに矛盾が生じます。
唯一神の宗教において神は(エーリッヒ・フロムの言葉を借りれば)
「相対を許さない絶対という存在」なので
(これが厄介であると同時に唯一神宗教として必要不可欠な点なのです)
”相対を許さない”というのは
”比較するものを許さない”という意味でもあります。
つまり、
右という言葉に対して左があるような
比較ができるものは神ではないのです。
同様に「名前」を付ける事は
その名前を持つもの”以外”は神ではない
という比較ができるので、
それもNGです。
つまり言語体系で世界を見ている人間からすれば、
言語は”あれ”と”それ”を分けるための
ナイフのような役目をしているので、
そもそも神のような”絶対”を表現することは
元々無理なのです。
しかし、そこをもしどうしても言うならば
苦い、甘い、しょっぱい、辛い、冷たい、熱い
など味や体感に現れる形容詞を全て集めて
一つの言葉で表すような言葉。
それを仏教などの言葉から探せば
「全てである」
となるのかもしれませんし
「光のような」
と言った大変抽象度の高い表現になります。
同時に、
ではなぜ「絶対」である神の世界に
私達が存在できるのか?
という問いもなりたつのですが、
それに対しては、
例えば佐藤優さんは聖書の記述から
「月の満ち欠けのように
元々全て(満月)であった神が
その一部を空けた(月の満ち欠け)ために
そこで私達が存在できている」
という解釈を話していました。
これはキリスト教以外にもみられる解釈なので
ある程度他の宗教哲学の中で通説なのでは
無いかと思います。
そのような理由で
「絶対である神」の名前は
言語体系の人間には呼ぶことができないのです。
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