恩田 聖敬 (後編) 〜日本ALS協会会長、まんまる笑店代表取締役社長〜
公式サイト:https://ondasatoshi.com/
Youtubeチャンネル:https://www.youtube.com/channel/UCy2BhaZA8kP_qXGKhKgA5pQ
恩田さんが作詞した曲:(41) 『Anohino Love Song』【副賞受賞作】ALS患者が作詞家に⁉️コンテスト、歌詞字幕付、作曲:小島勇司さん、作詞:恩田聖敬 - YouTube
【肩書】
株式会社まんまる笑店代表取締役社長
一般社団法人日本ALS協会会長
一般社団法人日本ALS協会岐阜県支部長兼事務局長
JPA(一般社団法人日本難病・疾病団体協議会)理事岐阜大学非常勤講師
日本神経疾患音楽療法研究会世話人
岐阜県難病患者在宅療養応援員
岐阜県に真の心のバリアフリーを実現する会発起人(fb)
岐阜県難病連絡協議会代議員
岐阜ボッチャ協会顧問
タイムカプセル株式会社執行役員
公益財団法人藤澤記念財団評議員
株式会社岐阜フットボールクラブ社友
電動車椅子サッカークラブ「太田川ORCHID」名誉顧問
障害者・高齢者福祉イノベーションリビングラボ(横浜市)アドバイザー
株式会社センファルクリエイト顧問
スナウト・テイラー(障害当事者であり、障害者運動と動物の権利運動をしているアメリカ人作家・画家)が、「障害が世界に対する異なる観点を与えてくれるので、障害には価値があると考える障害者も多い」「障害は多くの場合、障害者の生の中に溶け込んでいて、障害が存在する故、自分たちが充ちたりた人生を生きることができなくなる訳ではない」と語っています。
恩田さんは、「障害」についてどのようなお考えを持たれていますか?
ALSになったことで世の中の見え方が一変したのは事実です。ALSにならなければ障害者のような社会的地位に恵まれてない方々の生活実態を全く知らずに生きていたと思います。とんでもない視野狭窄です。確かに障害者は稀有な経験をしています。けれども健常者と呼ばれる方も生きている以上は何かしらの苦しみや喜びを経験しています。
よって、「障害」を抱えたから生きづらくなるとは思いません。
「健常者」と「障害者」という括りについてどう思われますか?
健常者は、書いて字の如く「心身が常に健やかな者」のことを指します。
24時間365日、常に健やかなんて人間いるのでしょうか?いたとしたら、もはや生き仏の領域です(笑)
障害者は、「心身に害が障る者」となります。
人間誰しも「害」の一つや二つ持っているのではないでしょうか。
例えば、酒癖の悪い人も立派な障害者です(笑)
漢字から考えれば、人類皆障害者となります。そこまでは極端な考えだとしても、健常者と障害者という括りでお互いを見るのではなく、1人の人間として見れば、もっと尊重し合えるのではないでしょうか?
障害者は社会に守られるだけの存在ではありません。時として、障害者と呼ばれる人が、守る側に立つこともあります。健常者の世界から、ALSによって障害者の世界に移行した私ですが、家族を守るのは自分の責務だということは変わらずに思っています。
このことは私だけではないはずです。支えられた分だけ支えたいと思うのが人の性です。それは障害者だって同じなのです。一人前として、接してもらえたら幸せです。
私個人としてはそのように考えているのですが、障害者の中にも権利の主張ばかりする人もいます。
バリアフリーや介助をされるのが当然の配慮だと思い込み、命令するような人もいるようです。それは、自分たちが守られるべき存在であると主張しているのと同じであり、最初から自分たちを区別してしまっていることになります。
互いを分けることでなく、どのようにしたら誰もが暮らしやすくなるかを考えることが望ましいと思います。
障害者を社会の弱者にしているのは、障害者自身である場合もあるのかもしれませんね。
私は、差別用語や蔑視発言には十分に気を付けるようにしておりますが、至らないことばかりです。
差別的意図などなかったにも関わらず、相手に不快な思いをさせてしまったこともあるかと思います。
障害者差別が法的に禁じられた現代においても、差別や合理的配慮に関するさまざまな議論が交わされ続けています。
私の周囲では、「障害」「障がい」の表記方法や何気ない言動が否定的な内容・対応になっていないかといったことが議論の課題となっています。
恩田さんは、そのような議論にゴールがあると思われますか?また、どのようにしたら建設的な議論をすることができるでしょうか?
私個人は表記には全くこだわらず「障害者」と書いてます。大切なのは障害者の人権や日常生活がきちんと守られていることであって、その議論こそ本質だと思います。障害当事者の私としては表記や扱いを特別に考える前に、普通に同じ人間として接してほしいです。同じ社会で生きることで、不必要な表記や括りは自然と消えると思います。
出生前診断により先天性疾患や染色体異常等の発見をすることの根底には優生思想が根付いているように思えるのですが、このような動向についてはどのようなお考えを持たれていますか?
私も親なので気持ちは分からなくもないです。ただ私の知り合いの産科医の川鰭先生が「意味のない命はない」と仰っています。例え15分の人生だったとしてもその子は紛れもなく存在しました。
ALSという病気がなぜこの世に存在するのか?その質問と似ている気がします。人間はこの問いを考えるのを安易に避けるべきではありません。
法律や条例において「障害者差別解消」が義務付けられるようになった現代社会においても障害者を軽視・蔑視する発言・行動が散見しています。
これは、健常者側の利己的な考えにより障害論を語る上で大切にすべきな「主体性の置き方」を誤っているのでしょうか?
あるいは、どうしても一定数は差別主義者のような人間が存在するものなのでしょうか?
そのようなかたは、「単に障害者の世界をわからない、想像出来ない」だけだと思います。そういう方に限って、いざ当事者になるとやたら権利を主張しがちだと思います(笑)人間は想像力を持っています。それをうまく使えばみんなが住みやすい社会になると思います。
昨今、障害福祉について考える際に「合理的配慮」の在り方について議論になることが多いようです。公共の場において、介助をしたりバリアフリー化を図るにあたり、安全確保をした上でどこまで合理的配慮を実現できるかということが課題となっています。また、介助は、いつでも誰でもどこでもできるということではなく、その時の状況や環境によっては実現困難な場合もあるかと思います。
よって、合理的配慮に基づいた介助を行うためには、あらゆる条件・環境を整えておく必要があります。
恩田さんは、「合理的配慮」についてどのようなお考えをお持ちですか?
そもそも人間は助け合う生き物ですからね。
配慮について考える前に相手や相手の抱えていることについて知ることが大切です。一歩踏み込むことで同じ人間だと分かります。
「介護の在り方」についてお聞きしたいのですが、私の知る限りでは、介護認定調査を行う際に「家族構成」や「家族の居住地」等について聴取されています。家族による介護が望めるのか、また、望める場合はどの程度の介助力があるのかを判断されていることもあるようです。現在の行政の考え(あくまでも私の知る限り)では、「家族や協力者がいるとしたら、その協力や負担があることを前提として介護を成り立たせる」という考えがあるように思えます。
恩田さんは、家族=理解者であり、介護者ではないとのお考えを述べていましたが、このような家族介護を前提とした介護体系には、何かご意見をお持ちですか?
そもそも国の通達には家族の介護力を考慮するなどどこにも書いてません。寧ろ介護離職を考慮するように書いてます。日本には地方自治の原則があります。とかく障害者の世界は国が定めた通りに運用されてない自治体もありるという実状があります。自治体ごとに勝手に特殊ルールが許されているのです。我々はことあるごとに行政と国はこう言っていると戦いを強いられます。行政官にきちんとした知識が必要です。誤解なきよう付け加えますと、極めて真摯な行政官もいます。
訪問介護の基本報酬が引き下げになるという案が出ているようです。ただでさえ介護職員の人手不足が深刻化している中で報酬引き下げをしたら、事業所運営や人材確保がさらに難しくなるでしょう。恩田さんは、この事態についてどう思われますか?
国が未来を見据えているとは思えないです。今後も要介護者は増加の一途を辿っていきます。その中で介護職という貴重な雇用を維持しなくてはならなくなると思います。介護職はAIには代替えできません。人間にしか出来ない介護職をもっと大事にすべきです。
ALS=「残酷な病」と称されることが多く、ALSの患者さんの中には生きることに絶望して安楽死を望むかたもいらっしゃると聞きます。
実際に医師による嘱託殺人が行われた例もあります。
恩田さんは、ブログの中で「生とは自分の意思でコントロールできるものではなく、意思よりも上位概念に位置するものである」とおっしゃっていましたね。意思によって「生」を終わらせることがあってはならないという見解とのことですが、現実には意思により命を絶ちたいと思われてしまうかたも少なくないようです。
仮に、そのようなお考えのかたと話す機会があるとしたら、どのようなお話をされますか?
人間には、いつか必ず「死」が訪れます。永遠の命を望み、最先端の医療技術を駆使したとしても避けられません。これは、「人間が生きる権利を主張し続けることが不可能」ということを意味します。
意思では「生」をコントロールできないのですから、「死」の権利について議論すること自体がナンセンスであるように感じます。これは、知的生命体の驕りではないでしょうか。
不治の病を抱えたことにより生きることへ絶望することの背景には、はかり知れない痛みや苦しみがあるかと思われますが、そうした背景と向き合わずに「安楽死」や「自殺ほう助」と結び付けてしまうのは、なにか大切なことが欠落している気がします。
このような行為は、患者の希望に基づいた終末期ケアを重視する「尊厳死」とは全く異なるものです。
延命治療や社会福祉は、「生」をコントロールしているのではなく、知性を発揮することによって人間同士が助け合うために手を尽くす自然な行為をしているのです。
唯一「生」をコントロールできるのが自殺と殺人になります。
嘱託殺人を行った医師によると、「患者を生き地獄から救いたい」という気持ちから致死行為に至ったとのことです。病人・障害者の人生を一方的かつ短絡的に生き地獄と決め付けるのは、根本に優生思想が流れているからではないでしょうか。
なので、ALS患者の嘱託殺人は、そうした思想に憑りつかれた医師による殺人と思えてしまいます。人の意思によって「生を終わらせる」「死の迎え方」を選ぶということに関しては、多様な考えがあるでしょう。
それでも、私は「死にたい=生きたい」の裏返しでもあると思います。
なので、安楽死を望むかたとお話するとしたら、下手にこちらから意見を述べずに傾聴に徹します。
病気や障害を抱えていても前向きに楽しく生活している人もいれば、健康な体に恵まれていながらも精神的に疲弊してしまうかたもいらっしゃるでしょう。健常者や障害者という括りに関係なく、生きづらさを感じている人はたくさんいるかと存じます。
身体的な健康状態と精神的な安定性は直結するものかと思っていましたが、その限りでもないようです。
恩田さんは、人間を「可能性と苦悩の共存体」と表現していましたね。
人間が、それぞれの苦悩に打ち勝つことで自身の可能性を高め、幸福な人生を歩んでいくために大切にすべきことはどのようなことだと思われますか?
難しい質問ですね。私が教えてほしいです(笑)
私なら日常生活に転がっているささやかな幸せを探すかなぁ。
健常者に求めることは、なにかございますか?
もっと気軽に接してください。我々は同じ人間ですから、必ず分かり合えます。
恩田さんの人生観について教えてください。
ALSという病気は、私から多くのものを奪い去りました。
妻とのプライベートな語らい、家族だけでの時間、食べる幸せ、サッカーチームFC岐阜の社長の座・・・
それでも私には、障害者という意識はありません。たしかに、私はALS患者ではありますが、仕事だけでなく父親としての役割を果たすこともできます。
私はALSなどにに負けずに生きる姿を子ども達に見せて、「パパは強くて格好いい!!」と誇りに思ってもらえる存在でありたいです。
まんまる笑店社長・ALS患者にしてALS協会会長・難病を患う障害者・・・あらゆることを背負っていますが、私は恩田聖敬でしかないのです。
参考文献・参照資料:
●恩田聖敬、佐藤仙務「絶望への処方箋」、左右社、2017年
●阿部芳久「障害当事者とその家族の視点からみたパーソン論の問題点」、東北福祉大学教育・教職センター特別支援教育研究年報 第15号、2023年
●星加良司「障害とは何か」ディスアビリティの社会理論に向けて、生活書院、2007年
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