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NPO法人スマイルリング 理事長 堀田豊稔(前編)
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暴走族リーダーから暴力団に・・・少年院から刑務所へ・・・
人生の大半がコンプライアンスに引っかかるようなことばかりだった堀田氏が、児童養護施設出身者や少年院出院者への支援をするようになったのはなぜか!?
取材・文:舘野雄貴
真っ直ぐに見えていた歪んだ道
人から、「いつから悪くなったか?どうしてそうなった?」などと聞かれることがあるのですが、別に悪くなろうと思って悪く染まった訳ではないですし、悪さをしている自覚もありませんでした。
真っ直ぐに歩んでいたつもりが、正しい道から逸脱していたなんていうのは、おそらく僕だけじゃなく、少年院や刑務所に入っている人たちも似たような感覚をもっているのではないでしょうか。
どこから道を外れて歪んでいったかなんて、自分でも分からなかったのです。
「その違いが、なぜ生まれるのか?」ということを考えたこともありましたが、分かっていたら、社会とのズレが生じることもなかったでしょう。なので、違いどころか、何が正しいかすら分からずに、ただただ彷徨い続けていました。
強さを勘違いしていた日々
小学生だったある日、同級生同士の喧嘩に遭遇しました。初めは仲裁に入ったつもりでしたが、中々喧嘩をやめない2人にたまりかねて、2人をやっつけてしまったんです。その時、それを見ていた他の同級生たちが、自分へ尊敬の眼差しを向けてきました。これに気を良くした僕は、「強いということは、人をひれ伏させることができるのだ」と思い込みました。
強さと悪さの違いも分からなかった僕は、小学校6年生からタバコをくゆらせ始め、非行の道へと逸れていきました。
それからという日々は、悪く染まっていく一方でした。
17歳のときには、道東で最大規模の暴走族の総長の座についていました。元々は暴走族になるつもりなどなかったのですが、幼い頃から、相手を力で捻じ伏せることでしか自分の立ち位置を築くことができなかったのです。
この時期、暴力団の一員となり、身体に入れ墨を掘りました。
当時の感覚としては憧れていた尊敬する兄貴分がいて、組長は頼り甲斐がある存在でした。
可愛がってくれた姐さんは母的な関わり合いをしてくれたんです。本当の家族との縁が薄い自分にとっては、所属していた組織は家族のような居場所でした。
家庭や学校で褒められた経験が無い自分も、その世界では悪い事をすればするだけ「お前、気合い入ってるな」と褒められたこともあり、どんどん悪く染まっていきました。
そうして、19歳のときに違法薬物使用所持の罪で逮捕され、少年院に送致されてしまいました。
そんな手のつけようがない僕を見て、親や周りの人たちは、手を差し伸べるどころか、見放していたのではないでしょうか。
自分で望んだ訳ではなくても
なぜそこまでになってしまったのか・・・今振り返れば、決して自分で望んだ道ではありませんでした。
少年院に入った子たちとも似たような話をすることが多いのですが、誰しも不良になろうと思って不良になったのでもなければ、悪くなろうとして悪さを働くものでもないのです。
希望が見えない将来への不安や、やり場のない怒りや悲しみ、それらをうまく吐き出すことができず、暴力的な振る舞いや、破滅的行為でしか自己表現できなくなってしまうことが多いと思います。
それが法に触れたり、秩序を乱すことになっているので、世間はそうした者を不良とかアウトローなどと呼ぶのでしょう。そうしているうちに、後ろ指を指されたり、蔑まされながら生きていくしかなくなってしまうのです。
悪さをしたのだから、そうした扱いを受けるのは当然の報いだという声もあるかと思います。あるいは、自分で望んだのではなくても、自分で選んだのだから仕方ないとも言われるかもしれません。
もちろんその通りかもしれませんが、その限りでもないのです。
僕を含めたどんな悪党でも、「真っ直ぐに歩みたい」「人に認められたい」という気持ちはあるものです。しかし、一度闇に堕ちた者が這い上がってくるのは、そう容易いことではありません。
手本となるようなロールモデルがいないどころか、周りを見渡しても似たり寄ったりのワルだらけ・・・
頼れる人もいない、安心して帰る場所もない・・・そんな地に足のついていない状態で彷徨い続けたところで、どこに向かえば良いのでしょうか?
人生をやり直す術も生きる意義を探すアテもなく、名ばかりの更生という道を歩いたところで、何が変わるというのでしょう。
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少年院で授けてもらった財産
そのような考えをもちながら少年院に入ったものですから「とりあえず早く出られれば良いや・・・」という程度にしか考えていませんでした。自分の罪と向き合うとか、反省するなんてことは、まったく無いといっても過言ではなかったと思います。
善悪の分別すら分かっていなかったですし、分かろうともしていなかったのですから、何をもって更生とするのかさえも理解できていませんでした。
少年院に入院してからしばらく経ったある日、少年院の担当教官から「将来はどんな仕事がしたいんだ?」と聞かれました。
具体的な目標など描いていなかったのですが、以前舗装の仕事をしたことがあったので「道路の舗装屋になりたい」と答えました。
舗装屋になるためには、ローラー(アスファルトを舗装するときに使用する重機)の免許が必要なのですが、当時入っていた少年院では取得できませんでした。しかし、教官が免許を取れるように根回ししてくれて、入院期間中に資格を取得させてもらえました。
この免許は、現在も舗装工事の仕事をする際に使用しており、少年院で与えてもらった財産の一つとなっています。
出院したものの・・・
少年院出院後は、悪友や悪しき環境を絶つために地元・釧路から離れ、帯広に移り、その後は関東方面をウロウロしながら生活してました。
入院中に矯正教育プログラムを受けたのだから少しは更生したのかと思いきや・・・人間そう簡単には変わることなんてできません。地元を離れたことによって、かえってやりたい放題になってしまったのです。
その頃、付き合いのあった人から勧められるまま薬物に手を出しました。
「1回くらいやっても、やめられるだろう・・・」そんな安直な考えで手を出しましたが、大間違いでした。「薬物が1番」というくらいの依存症になってしまったのです。
そのうち薬物の売買にも関わるようになり、薬物中心の生活に溺れて狂った日々を過ごしました。
地元に帰省したとき、親に会う機会もあったのですが、父親は会うたびに説教めいたことしか言ってきませんでした。それに逆上した僕は、さらに反抗して家族としての繋がりさえも無くしていったのです。
親が僕のことを心配し、正しい道を歩んでほしいと思ってくれていたのも心のどこかでは分かっていたはずなのに、どうしても素直になることができませんでした。
そんなクスリ漬けになっていた27歳のとき、東京の路上で職務質問をされた流れで逮捕され、「違法薬物取締法違反」の罪状で実刑2年の判決がくだりました。
自分で招いたことだから懲役にいくことは覚悟していましたが、これを皮切りに予期せぬ事態が次々に起きたのです。
服役中に父が死んでしまい、母が脳梗塞で寝たきり状態になってしまったのです。
さんざん親に反抗ばかりしてきたにも関わらず、いざそのような状況になるとショックでどん底に落ちた気持ちになりました。
獄中で、「俺のせいでオヤジとオフクロの人生を狂わせてしまった・・・。いや、両親だけじゃない。俺の影響で道を誤った人たちもたくさんいる。俺は害悪でクズでしかない。死んだ方が良いに決まってる。」そう思い、完全に自暴自棄になってしまいました。
道を外しながらも、いつかはオヤジと酒でも飲みながら仲良く語り合う日が来るのではないかと思っていましたが、それを叶えることはできませんでした。
そう、「いつか」なんていう日は来ないのです・・・
「このまま病に臥した母まで死んでしまったら、俺はどうやって生きていったら良いんだ?」そんな思いが浮かぶと、今度は不安と焦りで心が埋め尽くされました。
好き勝手やってきておきながら、更に勝手なことを言っているのは分かっていました・・・でも、刑務所なんかに居たら、やり直す機会までも逃してしまうと思ったのです。
そんな焦燥と葛藤の日々を過ごしていると、仲間が母親の無事を知らせてくれたのです。
「まだ間に合うかもしれない!!もうこんな日々には終止符を打つんだ!!」
オフクロが生きているうちに一刻も早く出所し、今度こそ安心させるために真面目に生きていこうと誓いました。
普通の日々を追い求めて
30歳を目前に出所し、母に会いに行きました。寝たきり状態になっていましたが、僕のことを認識してくれました。
その後、結婚して授かった子どもを会わせることもでき、孫の顔を見せるということも果たせました。
「オフクロを安心させ、家族のためにも安定した生活を・・・」と思いましたが、それまでいわゆる「普通の生活」をしたことがなかったので、何から始めたら良いのかさえ分かりませんでした。
なので、とりあえず日雇いの土木の仕事をすることにしました。
朝早くから仕事に出て、子どもの寝静まる遅い時間まで働きましたが、日当1万円足らずの給料しか貰えず、なんとか生活を送るのがギリギリの経済状態でしたが、他にできることがなかったのでガムシャラに働き続けました。
そうして毎日同じような日々を過ごす中で、「これで良いのか?いや、このままで良いんだ!」と自問自答を繰り返していました。過去の経験上、悪いことをすれば簡単にお金を稼げることは分かっていたので、「また悪い事をしてしまおうか」という悪魔の囁きも頭をよぎったこともありました。
悪い方へ傾きそうになる自分と闘いながら、「単調だけど安定した日々を積み重ねていけば、家族を食わせていくことはできる・・・」と、自分に言い聞かせました。
しかし、「自分の人生はこれで終わっていくのか」というどこか満ち足りない気持ちもありました。
憧れの人物との出会い
仕事ばかりで疲れ果てていたある日、知人から「今、元プロボクサーの川嵜タツキさんと一緒にいるんだけど知ってる?」と、連絡が入りました。
川嵜さんのことは、以前テレビのドキュメンタリー番組で見たことがあったので知っていました。
元ヤ〇ザという経歴をもち、薬物依存を克服してプロボクサーになった人物です。
「自分と似たような経歴をもつ川嵜さんに何とか会いたい」と思い、その知人に「会わせてほしい!!」と伝えました。
そして、少ない給料から捻出したお金をかき集めて、すぐに東京まで会いに行きました。
実際に会ってみた川嵜さんは、底なしに明るくて優しい方でした。そんな彼の人柄に一気に引き込まれていき、北海道-東京間でちょくちょく電話をするようになりました。
電話する度に「強いことっていうのは優しいことでもあるんだ。強い人で優しくない人なんていない。」と語ってくれたのを今でも憶えています。
この言葉を聞いたときは真意が分からずに、「川嵜さんは、更生して気が長くなったのかな?」と間違った解釈をしていました。
しかし、良く話を聞いてみると、「強い人には自信があるから、自分を大きく見せる必要なんかない。」ということでした。
川嵜さんは、生きてきた境涯の中で「真の強さは優しさと表裏一体である」ということを導き出されたとのです。
そうか、俺は弱かったんだ。弱いから優しくなれなかったんだ・・・反社会的勢力に属したり、クスリをやっていたのも、自分自身が弱かったからなのだと痛感しました。また、その弱さを隠すために虚勢を張り、親や周りの人たちにイヤな態度をとっていたことを思い返すと、恥ずかしく思いました。
心から尊敬する人物の温かい言葉だったからこそ、僕の淀んでいた心に届いたのです。
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そして、再会した時に「川嵜さんのことをアニキと呼ばせてください」と伝えました。
この言葉に対してアニキは、「嬉しいね~。実は、俺にもアニキがいるんだよね。」と言って、あるかたを紹介してくれたのです。
それが、「平成のKOキング」と称された元日本チャンピオンの「坂本博之」さんでした。児童養護施設で暮らしていた経験のある坂本さんは、現役中から引退した現在も、日本各地の児童養護施設の子ども達を支援するためのボクシングセッション活動を行っていました。
2人のアニキたちとの絆
坂本さんと初めて会ったのは、北海道函館市にある児童養護施設でした。
タツキのアニキと出会ってから程なくして、「坂本のアニキが、函館でボクシングセッションをするからおいでよ!」と誘われたのです。
僕の住む帯広市から函館市は約430kmあるのですが、アニキがアニキと呼ぶ人に会うためならと思い、約7時間半も車を走らせて駆けつけました。
施設に到着し、セッションを見学していると、坂本さんは「一瞬懸命で良いから!その一瞬一瞬の連続が、一生懸命になるときが来るから!」といった熱いメッセージをかけながら、子ども達とミット打ちをしていました。
子ども達は、嬉しかったことや悲しかったことなどを小さな拳に託してパンチを打ち込んでいました。
そして、坂本さんは遠路はるばるやって来た僕に、「我が道はどこかで行き止まりだけど、輪(リング)には行き止まりはないよね。1人で生きてきたつもりかもしれないけど、本当は1人で生きてこられたはずなんてない。だから、みんなで手を取り合って輪をつくるんだ。そうすれば、どんなことだって乗り越えていける!!」と言って、励ましてくれたのです。
このアニキたちと一緒にいると、自分の薄汚れた心がどんどん漂白されていくのが、はっきりと自覚できました。
アニキたちの有言実行ぶりに感銘を受けた僕は、「この2人といたら、自分も絶対に変われる!」と思い、坂本さんの活動に参加するようになっていきました。
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言葉だけでなく行動を
それからは、憧れの存在に認められたいという一心で行動を起こし始めました。
2人のアニキの生き方をマネするように、自分でも施設への支援をするようになっていきました。その頃のお小遣いは1日500円でしたが、その僅かな小遣いから残したお金で駄菓子を買い、それを施設に届けてはアニキたちに電話をかけました。児童養護施設・十勝学園に初めてお菓子を届けたのは雨の日でした。泥だらけの作業服を着た人相の悪い僕みたいなのが来たのですから、いきなり訪問された施設側としたらビックリというか恐怖だったでしょうね。
そのような微々たる支援でしたが、アニキたちが心から喜んでくれるのが嬉しくて、支援活動の幅を広げていきました。
そうしたささやかで地道な活動を継続していくうちに、「アニキたちに認めてほしいというだけでなく、アニキたちのようになりたい」と思うようになりました。
そのときは気付いていませんでしたが、人が変わる時というのは、言葉だけでなく行動も伴うものなのだと実感しています。
NPO法人スマイルリング
それ以降は、アニキたちの活動について回るだけでなく、独自でも児童養護施設の子ども達への支援活動を開始しました。
「自分が変わりたい」という思いから活動を開始したので、当初はNPO法人をつくるつもりなどなく、単独で活動していました。
そうして活動していたある日、ボクシングセッションで訪れた児童養護施設のある子から「僕には、夢なんて持てないよ・・・」と言われました。
私たち大人は、子どもたちに「夢に向かって」みたいな話をしたがります。でも、「夢なんて持てない。だって、僕たちは失敗できないんだよ。」と言われたのです。
それに対して、僕は、「失敗したっていいじゃん!努力は無駄にならないって、坂もっちゃんも言ってるじゃん!」と、返したものの、家に帰ってからもずっとそのやり取りが頭から離れませんでした。
「夢を持てというのは素敵な言葉だけど、失敗できない環境の彼らに対して、一方的な言葉を放つのは無責任だったな」と思い直しました。そこで、「何回失敗しても、実家のように帰ってこられる場所があれば、彼らも安心して夢を持てるようになるのでは・・・」と思うようになったのです。
その考えを周りの人たちに話していったら、「NPOをつくればいいのでは?」という話になったのが、「NPO法人スマイルリング」の始まりです。坂本さんが話していた「人と人が輪になってリングをつくる」が団体名の由来となっています。
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設立後、児童養護施設出身者の居場所提供を目的としたシェアハウス「スマイリングホーム」をつくりました。
また、自身の体験を活かして少年院で講話活動をしたり、少年院出身者や非行少年たちとの相談事業もするようにもなりました。児童養護施設と少年院にいる子たち(あるいは出身者の人たち)の双方と関わっているうちに、互いに切り離せないところがあることに気付かされたからです。
出会った子たちの中には、児童養護施設出身者で少年院に入院することになった子もいましたし、その逆のパターンもありました。そうした子同士は、不遇な境遇や抱えている悩みなどに共通した部分が多かったのです。
よって、スマイルリングでの支援対象を区分けしてしまうのは間違っていると考え、分け隔てなく支援する方向性にしました。
しかし、当時の理事たちはこの考えに反対しました。「施設の子と犯罪者を一緒にするな!」という意見を持っていたからです。
僕は、これに対して、「昨日まで養護施設にいた子が事件を起こしたら、もう助けないということでしょうか?」と反論しましたが、どうしても分かり合うことはできませんでした。
明らかに一方的な形で虐待やイジメを受けた場合は、被害者として扱われます。
しかし、何かしらの事件や問題を起こして少年院に入った子たちは、加害者という立場で扱われるので、まったく正反対の扱いを受ける訳です。
施設出身者はケアや慈善の対象に成り得るが、少年院出身者は危うい存在だから対象にならないとい
うことに、何とも言い難い違和感がありました。
施設に保護されずに家庭で養育されたが、虐待を受けていたというケースもあるでしょう。
経済的に裕福な家庭で育ったけれど、親の期待に潰されてドロップアウトしてしまうことだって良く聞く話です。
世の中では善人として扱われていても、実際は犯罪者と紙一重の人だってたくさんいるのではないでしょうか。
児童養護施設に保護された子たち、少年院に入院した子たち、人知れず苦しみの中にいる子たち・・・歩む道筋は違っても、みんな「大人の被害者」なのです。
多種多様なケースがありますし、こちらから対象を区切って分けてしまうのはおかしいと思いました。
よって、「対象を分けるべきではない」という考えは変えませんでした。
後編へ続く