「捜索者」、「アウトロー」そして「この茫漠たる荒野で」
ジョン・フォードの「捜索者」(56)の主人公ジョン・ウエインは、インディアンに拐われた姪ナタリー・ウッドを探して荒野を行く。救出するためではない。殺すためである。実際、西部開拓時代にはインディアンが白人の家庭を襲い、子供を誘拐することがよくあった。これは白人たちとの戦いや、インディアンの数を減らすための徹底した政策により、そのままでは部族を維持できないために、男の子は戦士として育て、女の子には子供を産ませて部族の構成員の数を維持することが目的だった。もちろん、拐われる子供にしてみればたまったものではないが、インディアンの側にも止むに止まれぬ事情があり、しかもその原因を作ったのは白人の側だったのだ。
「捜索者」の主人公は、そもそも子供たちが拐われる原因となったとも言える人種的偏見に凝り固まっている。インディアンと共に暮らし、おそらく性交渉も持ったであろう姪を、もはや仲間の白人とは考えられず、単なる敵以上に厄介な穢れた存在として考えているのだ。しかし、最後の最後で彼は自らの偏見を自覚し、姪を抱き抱えると「家に帰ろう」と囁きかける。
姪を家族の元へと送り届けたウエインだが、自らの心の闇を知り、それに完全に打ち勝つことはできないと知っているので、一人旅立つしかない。「永遠に風の中を流離う」のである。
フォードの「駅馬車」(39)に登場する駅馬車は開拓時代のアメリカの縮図だ。とと言うか、39年当時に考えられていた開拓時代のアメリカ社会の縮図である。さまざまな階級の乗客が乗っているが、全員白人で有色人種は一人もいない。駅馬車は、アメリカ社会の確率を阻もうとする悪のインディアンと戦いながら、文明のある場所、町を目指す。インディアンたちをバッタバッタと薙ぎ倒していくのはジョン・ウエイン扮するリンゴー・キッドだ。
フォードはハリウッドでの映画作りを嫌い、毎年のようにモニュメントヴァレーにロケに出かけて西部劇を作った。モニュメントヴァレーがスクリーンで映えたのは、岩と砂ばかりの土地だったからだ。いかなる種類の農業にも適さない不毛の土地。居留地としてインデアンに下げ与えるのに格好の場所。フォードはモニュメントヴァレーのインディアンたちを自作に起用し続けた。フォードによって生活の糧を得たインディアンたちは、彼を'パパ'と呼んで慕い、そしてフォードはインディアンの立場から歴史を見直すようになっていった。そのフォードの変化が結実した作品が「捜索者」なのだ。
クリント・イーストウッド監督・主演の「アウトロー」が公開されたのは1976年。ベトナム戦争終結の約一年後に公開された。ある意味お約束通り、この作品の主人公は北軍ゲリラに妻子を斬殺され、ならず者となって復讐の旅に出る。'お約束通り'でないのは、旅を続けるうちに彼の人柄を慕う者たちが集まってきてコミュニティが形成されていくことだ。主人公は一度失った家族を再生させていくのである。
この作品のラストで、彼の正体を知るかつての仲間ジョン・ヴァーノンは、彼を捉えるべき立場であるにも関わらず、あえて見逃す。イーストウッドはヴァーノンに言う「俺たちみんながあの戦争で少しずつ死んだんだ」そしてイーストウッドは風の中で永遠にさすらう代わりに、おそらく新たな'家族'のもとへと帰っていく。
公開当時にこの作品を観たアメリカ人が、南北戦争とベトナム戦争を重ねず、イーストウッドのセリフに自らを重ねなかったとは考え難い。
そして「この茫漠たる荒野で」。ポール・グリーングラス監督はインタビューにおいて'ストーリーテリングの持つ癒しの力'について語っている。主人公トム・ハンクスの仕事は、西部の町々を回って新聞記事を読んで聞かせること。物語を語ることだ。彼はインディアンのもとで暮らしていた少女を、白人の親戚のところに連れて行こうとする。
途中立ち寄った町は独裁的な人物に支配されている。独裁者は自分を英雄的に描写する自作の新聞を読ませようとするが、ハンクスはそれを拒否し、街の住民たちも本当の「世界のニュース」を知ることの方を選ぶ。ハンククスを殺そうとする独裁者だったが、ハンクスは「あんたの読んでくれた記事は面白かった」と言う青年に救われる。物語には力があるが、どんな物語でもいいというわけでは無いのだ。
親戚のもとに少女を送り届けたハンクスは亡き妻の墓を詣でることで、心の中の決着を付ける。そして彼はすでに自分が新たな家族を得ていたことに気づき、少女を引き取って共に旅立つ。二人で物語を語り続けるために。
「アウトロー」が'時代'を反映していたように、「この茫漠たる荒野で」も'今'を反映している。偏見、分断、フェイクニュースという言葉を濫用することで拡散されるフェイクニュース。そして(パンデミックの真っ只中にいるとしても)とりあえずトランプの時代は終わり、壊れてしまったものをもう一度作り直し前へ進んで行かなくてはならない時。
フォードからイーストウッド、そしてグリーングラスへ。西部劇という物語が社会を語り、そして人々を癒す。「この茫漠たる荒野で」は'ストーリーテリングの持つ癒しの力'を(再び)信じさせてくれる作品だ。
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