ミクゲイズ・シンドローム

 まったく呆れるくらい蒸し暑い夏で、もうこのまま一生部屋の外から出たくないなんて思いながら、退屈で、本を読むにも文章を書くにもバイタリティが足りないので、何かした気になりたくて、毎日18:00頃、日が沈みかける頃に散歩に出かける。合成樹脂で耳に蓋をして、大抵はスマパンとかWeezerとかSYでも流しながら歩くのだけれど、どんなに素晴らしい音楽も、聞いているうちに少しづつ色あせてくるのは悔しいけれど認めざるを得ないことだ。新しい音楽を欲していた。それは別に、最新の音楽、という意味ではなくむしろ、懐古趣味みたいな感じだ。死んでるの生きてるの言われる前のロックンロールが好きだ。オタクがコケにされていた頃の、僕らだけの歌姫だった初音ミクが好きだった。体が水分を求めるように、夏、透明感、歪み、穢れ、浄化、初音ミク、そういうものを心が欲していた。乾いていた。そこで、前々から気になっていたミクゲイザー、或いはシューゲロイド、なるジャンルの音楽を聞いてみることにした。十年以上前、ミクが生まれて間もなく台頭したミクゲイザーは、ライド、マイブラ、スロウダイヴあたりから影響を受けているジャンルらしく、なんと全曲洋楽シューゲのカバーアルバムもあるという。残念ながら、ミクゲイザーの楽曲はそれほど売れなかったし、既存の名のあるボカロPはみんなシューゲやグランジ、オルタナなんてやらない。売れたのはむしろ、透明少女のアクの強い部分を濾し取って全部捨ててしまったみたいな、無色透明の音楽ばかりだ。何故かは分からないけれど、ボーカロイドというジャンルは人々の「無色透明」というイメージの代表格みたいに扱われている。けれど、無色透明になってしまったのは別にボカロPに限ったことではない。ボカロPからバンドや個人名義になってボカロを捨てた人間とか、メジャーレーベルのバンドはこの頃、本当に酷い。加速していくのは歌詞ばかりで、それも生きるの死ぬの、美しいの汚らわしいのと、ドレッシングなしのサラダみたいな記号だらけの自問自答を表明することこそ自己表現だと言い張り、最悪な部類になると、女子の白いうなじに欲情したことを、小粋なジョークの体を装ってほとんどそのまま臆面もなく口にしておいて、そういうのが詩的表現だと考えているような馬鹿までいる。あれも違うこれも違う、みんな違ってみんな悪辣、そんなふうに思える。
 ミクゲイザーは、月並みだけれど、無法の荒野で幻のように湧き出るオアシスのようだった。既存のグランジやオルタナ、シューゲイザーの代表格的バンドを丁寧に踏襲しつつ、演奏は飽くまで直線的で、初音ミク本来のクリーンな歌声に深みとリバーブを付与することで、透明で、素直で、暗くて、歪んでいて、切ない、重厚で手堅いサウンドを生んでいる。ある意味、キレのようなものはない。母体であるジャンルからして、なにも目新しいものではないから。けれども、精巧なリバイバルとしてミクゲイザーはどこをどう取っても一級品だ。特にwinter mute氏はすごい。ミクゲイザーの伝道師と呼ばれるだけあって、エモーショナルさで言えば某橙星なんて目じゃない。別に某橙星が嫌いなわけじゃないしこの場合比較対象として正当とは言えないかもしれないけれど、winter muteの楽曲はとにかく圧倒的にエモいのだ。まず歌詞がうまく聞き取れない。これは本当に素晴らしい、僕が一番やってほしかったことだ。熱気と冷気の交錯、激怒と鎮静の競走、どこか遠くから鳴り響いているような浮遊感と、それを天井のシミを数えながら聞いている自分、つまり音楽の世界と実態の世界の遊離、矛盾に矛盾を孕むような、バラバラのイメージの繰り返しに溺れ、孤独は際限なく深まっていく。僕はその孤独の最中に、歌詞カードを改めて見つめて、初めて何を歌っているのかがわかる、あの瞬間が大好きなのだ。
 winter muteの歌詞はイノセントだ。淀みのない淡水に沈んだ結晶体のように。実態の世界からの遊離。そういうことを可能にするのは、淀んだ世界を観察する鋭い視線だ。無実であり続けることはできなくとも、無実の時間、空間を創ることはできる。というのは、さすがに自己陶酔の淵に沈みすぎているかもしれないけれど。
 夏が始まったのに、既に終わりかけていて、気がついたらスキップボタンを押すくらいに容易く秋になっているんだろうな。部屋の中でwhite muteを聴きながら、ずっとそんなことを考えている。手札がないから、何も出来ないな、切れるカードがないや、どうしようか、やれることと言えば、スキップ、スキップ、スキップ、見ないふり、やらないだけ、格好つけ。時にはそういうのも必要かもしれないけれど。やらないよりマシなことは、やってもマシになる保証がないし。決めかねている。苛立っている。シュゥゥウウゲエェィィイズ、リバァアアアブ。反響するイメージの最中、役にも立たない架空の思い出の中で、無実で居たかったとか、愛されたかったとか、大人みたいに濁った目で、子供みたいに純粋に星空を見上げた。鬱陶しくない分、太陽よりはマシな月と、初音ミクのことを考えている。初音ミクは生きていない。生きていたとしたらそれは初音ミクじゃない。けれども彼女は永遠に生き続けることができるかもしれない。人が彼女を愛する限り。音楽を愛する人がいる限り。それぞれの場所で、線で結べない孤独な星々のように。


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