相手にそろそろ帰って欲しいときに出す小説
ほんとにそんなものがあるんだろかという半信半疑の思いのまま、その場所を訪ねた。
ネットの片隅でそんな意味合いで出される小説があるという情報と出会ったからだ。
一度過去に作家として挫折した自分の経験が、その損な役回りの小説に対する興味を引き立てた。
東京から電車を乗り継ぎずいぶん遠くまできた。
情報提供者が描いてくれた駅からの地図が、もう帰ってくれと言わんばかりにわかりづらかったのには参った。
未舗装の道をひたすら歩く。
日も暮れかけてきて、少し心細くなってきた頃。
それらしき古民家。
使われている木材が樹齢かなりいったものだというのが伝わってくる造りだ。
僕が建物のそばまで来ると、
中からは人の良さそうな夫婦が「いらっしゃい」と顔を出した。とても「もう帰ってくれ」なんて言いそうもないお二人だ。
ゆうげの匂い。
「どうも、はじめまして」
僕は『ネット記事のフリーライター』と入った名刺を差し出す。来訪の真の目的はあえて伝えていない。あくまでもグルメ記事の取材ということになっている。
「ずっと昔からここにお住まいなんですか?」
「ええ、代々ここですよ、さあ、くつろいでください」
「ああ、はい、どうも」
どこでアレを出されてもいいような心構えだと、なかなかくつろげるもんでもない。なんせそのときは帰らなきゃだからだ。
お二人の話によると、このところこの辺りはずっと天気が悪くて、今日は珍しく晴れたんだそうだ。
だからお客さんがここへたくさん来たけど、僕のこれがあるので、帰ってもらったんだそうだ。なんだか申し訳ない。
もちろん例のアレを使ったんだろうか。使ったんだろう。いったいどんな小説なんだろうか。
どれだけつまらないんだろうか。いや決めつけは良くない。
つまらなすぎる小説というのは、逆に面白くなってしまう場合もあるので、一概にそうとも言えない。
とにかく“帰って欲しい”というニュアンスが伝わればいいわけだから……。
「さあ、さあ、どうぞ」
促されるままにお座敷に上がると、もう食事の準備ができていた。
これからここで、相手に“帰って欲しい”という意味を持つ小説の取材をする雰囲気は微塵もない。地元の幸がふんだんに使われた料理。とても美味しそうだ。
でも改めて僕は食べ物の取材に来たわけではないのだ。舌鼓は打ちながらもそう自分に言い聞かせていた。
そこへ、着物姿の奥さんが何かを持ってきた。
ついに、来たか?
でもそれはただ単に鍋物の火をつけてくれただけだった。
その後も本日のお魚料理の説明や、酒蒸しや、デザートなどを色々と支度してくれた。
でも一向に例のものは出てこない。
お客として来ておきながら、帰ってくれと言われるのを待つのもどうかと思うが、それがないと今日来た意味はない。
とうとう食事も終わり、お二人との他愛のない世間話も終わってしまった。
「ではそろそろ」と僕は言うしかなかった。
もう小説は半ば諦めていた。
「そうですか?もっとゆっくりしていけばいいじゃないですか」
と口を揃える二人。ますます帰りたい。
すると、ご主人が正座していた膝を叩いて、「そうだ、あれを持ってきて差し上げて」と奥さんに言った。
「そうでございますね」と奥さんは頷いてから立ち上がり、奥の間から何かを持って戻ってきた。
僕に緊張が走った。
奥さんのその手には
あ!
── 小説
とうとう来たか、と僕は唾をごくりと飲み込む。
上品な笑顔のままそれを手渡してくれた。
「こ、これは……」
そこまで言って僕は顔を上げて二人を見た。
その小説、見覚えがあった。
あったなんてもんじゃない、僕のデビュー作だ。
遠い昔。恥ずかしい過去……。
男と女が出て来る話だということくらいしか内容は覚えていない。
信じられないくらい酷評されたから記憶から消しかけていたが一気に今、蘇った。
再び二人が声を揃えた。
「その本が私たち二人がこのお店を始めたきっかけなんですよ」
「え…!?」
「最後のあのシーンが良かったんです。主人公の女性が『この料理が美味しいと思うなら今夜は帰らないで』って言うシーン。で、カレは帰らなかった」
「帰らなかったんですか?」僕は自分のその小説をある種の驚きの目で見ながらそう言った。
「ええ、帰らなかったんです」
終
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