小説は、何かを思い出すために書くのか、何かを忘れるために書くのか。
シュミット痛み指数というものがある。
伝説的な昆虫学者ジャスティン・O・シュミットさんが膜羽類の昆虫全てについて刺されるとどれだけ痛むかを身をもって体験して指数化したものだ。
軽い方から、指数1にコハナバチ。指数2.0にスズメバチ。
ぐんと重くなって、指数3.0にアシナガバチやアカシュウカクアリ。
そして最も痛いとされる指数4.0超は、サシハリアリというブラジルのアリだ。
意外にも、アリ?と思ってしまうが、その痛みの解説によると、『純度の高い、強烈な、濃艶な痛み。長さ8センチの錆び釘が踵に刺さった状態で、赤く燃える炭の上を裸足で歩いたときに似る』、とある。
……ちょっと痛すぎると思う。
僕はこの痛み指数を作ったシュミットさんがどんな気持ちで作ったのかはわからないけど、すごく痛かったのだけはわかる。
例えば、僕は今これを、ルーク・フォークナーのピアノを聴きながら書いてる。
僕はときどき小説を書く。
読んでくれる人は、僕がなぜ小説を書くのかなんてわからないし、それほど気にも留めないだろう。
このシュミット痛み指数のように、僕の心の傷つき方の重さを指数化したものでも添えてあれば、あるいは親切なのかもしれない。
小説を書くということは時に痛みを伴う場合がある。
もちろんサシハリアリのそれとは全く別次元のなものだけど、
それは分かりにくく言えば、シュミット痛み指数のように、痛みだけが伝わるという痛みだ。
もしも僕が警告色を備えている昆虫だとしたら、小説を書く必要もないだろう。
小説は僕にとって必要悪なのだろうか。必要善とはとても言えない。
そもそも、
宇宙そのものの進化の途中で、
何かを完成させなければならないという、
若干の矛盾か。
Don't look back in anger
僕はいつも、
何かを思い出しながら書いているし
何かを忘れるために何かを書き足したりもしている。