第一章 水疱の記憶 3
目次 → 「煉獄のオルゴール」
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次回 → 第二章 - 鏗鏘のアラベスク-1
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意識が失われた場面から、次に意識が戻るまで、僕の耳元には延々とアラベスクの旋律が鳴り響いていた。優美なるその旋律は、まるで絶叫のような不愉快さを孕んでいて、今にも音が外れそうな不安定さを醸し出す。
知っている。この音色のことを、僕は知っている。何度も聞いたアラベスクの旋律とともに、僕は不思議な幻影に飲まれていた。
真っ暗な世界の中にひっそりと立ち尽くす僕は、暗闇にもかかわらず、皮膚を引っ剥がされた人型のシルエットが何かを回し続ける光景を捉えた。光すらもうつらうつらとしているその空間の中で、シルエットは異形の如く不気味に揺らいでいて、それでいて機械的な動作を続けている。そして、ぐるぐるとハンドルを回し続けるシルエットは徐々にその状態を呈し始めた。シルエットが回すハンドルは、大きなオルゴールへと続いていて、その音色は不可解な飛びを見せ、正しい旋律と外れた旋律を縦横無尽に繰り返す。
僕の意識がその音色とシルエットを認識するとき、あたりはふわふわと薄明かりを纏い始め、不気味に揺らぐ水面を僕の視線に映し出す。暗がりとそれに震えるような薄い水面は本当に美しく、儚げに揺れ動く波紋は音色と深く融解していくようだった。
それを見ていると、僕の中に存在する苦しみの記憶までも、体外へと溶け出るようだった。苦しみに苛まれていると思われる、虚ろな記憶はもう自分の中に存在しない。眼前に横たわっているのは、ただ美しく儚い双眸のみだった。
そんな美しい光景の縫い目に、僕は確かに懐かしい人の声を聞く。
「折人……折人……どこ……?」
その声は、少しだけたどたどしく、イントネーションがずれているような印象を受ける声だった。
決して流暢とは言えない言葉遣いに、僕は強烈な記憶の邂逅に遭遇する。目まぐるしく、網膜が軋んでいるようだった。苦しみに苛まれているような痛みが眼球を爛れさせ、あまりの痛みに僕はうめき声を上げながらその場に伏してしまう。
床を覆い尽くす正体不明の水面に蹲り、僕は眼下に広がった波紋の中心に視線がいった。
その波紋の中には、僕が階段の踊り場に立っているのだ。恐らく、通っている学校の、それこそ「おまじない」の舞台となっている踊り場であろう場所だと思われる。
どうしてそんなところに僕がいるのだろう。それについても僕は記憶にない。
その視界を発端に、再びアラベスクの音色はけたたましいほどの叫び声を上げながら、正しい旋律を刻み始める。ここまで大きいと、もはや美しさの片鱗すらも欠け落ちているようだった。
その音色に引きずり込まれるように僕は三度、目を覚ます。
意識が戻ったとき、僕は自らの膝にかかった体重を支える事ができず、大振りな仕草で踊り場に倒れ込んでしまった。今までと同様、自らの身体がきちんと正常な動きをするまで時間がかかるらしく、意識がありながら体が動かないという狂気の状態に耐えなければならない。
それに加えて今までとは違い、踊り場の正面にある窓ガラスから見える最も近い壁に、オルゴールを回し続ける者が張り付いたような状態でこちらを見つめている。しかも、睨むようにこちらを見ているというのに、その腕はしっかりとオルゴールを回し続け、相変わらず狂った旋律を鳴らし続けている。
しかし、その旋律は恐怖を感じさせるほど音が外れていて、もはや原曲が何なのかすら判断がつかないほどだった。音色の片鱗と、今までの事を考慮すればその楽曲はアラベスク第1番でまず間違いないだろうが、あまりにも原曲と離れていて到底結びつかない領域に達していた。
ぐるぐるとオルゴールを回すそれを見た途端、僕は睨むように表情を顰めた。そこに明瞭な意図は存在しない。ただ、説明のつかない感情だけがそこに存在していた。
まるで、それは僕のことを追い詰めているようだった。不協和音に近い音色を常に奏でながら、永遠を彷彿とさせる長さは不快以外の何物でもない。そんな音が、僕の体を壊すように錯乱させていく。
倒れてしまっている手足は未だに動こうとせず、微かに蠕動するような指先を一瞥し、ゆっくりと立ち上がろうとする。だけど、足は震えてほとんど動かない。それどころか、足は更に震えを強め、痙攣し始める。暫くの間は動かすことは無理そうだ。
仕方なく、僕は体を起こすことを一旦諦め、辛うじて動く可動域をうまく使って階段に座るような姿勢を取ることにした。
階段二段分を這うようにして上がり、段差を椅子にして座り込み、中央を向くとオルゴールを回す者はもうそこになかった。あるのは、穏やかな色彩を浮かべる簡素な壁のみである。
でも、それ以上に僕は自らの身体が動かないことの方が不審だった。一度目と二度目に意識が戻ったとき、こんなにも長い時間体が動かなかっただろうか。それに、末端がここまで震えることはなかったはずだ。
自分の体に何が起きているのだろうか。もう死んでしまっているはずの自分の体を案ずるなど、馬鹿馬鹿しいにも程があるが、無自覚に感じてしまう不安に僕は苛まれていた。
その不安感と決別するように、僕は組んだ腕に顔を埋めていく。
視界が一瞬にして暗がりに閉ざされる。しかし、先ほど感じた不気味な光景とは打って変わって、聞こえてくるのは生活音と自らの心音のみである。暗がりも、完全な闇などではなく、瞼越しに捉えられた光はぼんやりと魂のように揺れていた。
その自然な光景たちを潰したのは、自らを呼ぶ声だった。
「折人? 体調悪いのか?」
その声は聞き覚えがある。先程の異界を壊した少したどたどしい声だった。恐らく、目の前にいる人物は声の主だろう。
僕はその声に導かれるように、ゆっくりと顔を上げた。すると、そこには僕と同じ制服を着た男子生徒が立っていた。しかし、その顔は前回と同様、相貌失認のごとく消されてしまっている。今視認できるのは、日本人とは思えないほど美しい薄い髪色だった。薄茶色と形容すればいいのだろうか。僕はその色彩が持つ名前を知らなかった。
けれども、その色彩は非常に心地よい郷愁を感じさせられた。堪らなく、目の前の人物に抱きついてしまいたい衝動とともに、今にも泣いてしまいそうなけたたましい感情が湧き出てくる。
僕は、大きくかぶり振った。ほとんど無意識に行った感情の発露に、自らも驚きながら、僕の体が完全に自らのコントロールを失っていることに気がつく。
その時、ようやく僕はこの世界が先程までとは全く別の空間にあることを悟る。この世界は、ただ起きたことが再生されるだけ、今の僕には干渉の効かない世界なのだ。
つまり、このまま自らが勝手に動き、目の前の人物と交流するさまを客観的に見ているだけ。記憶という内容が保管された記憶媒体を再生しているようなものだ。
その事実に気づきさえすれば、僕の体が必要以上に制限されていた説明もつく。
この事実に気がついた瞬間から、僕のすべての感覚が離脱するような不自然な離人症を経験する。まるで全身に感覚を遮断する膜が張られたような不快さと、視界がカメラ画面に固定されているような気持ちの悪さを同時に感じているようだ。
そんな不可解な感覚に苛まれながら、僕は視界という名の映像を眺めることにした。
「……大丈夫。ごめんね、こんなところに呼んで」
急に動いた視界の先には、未だに男子生徒を見据えていて、更には自分の声と思われる音色が不愉快に耳を劈いた。骨伝導で聞こえてくる声は、想像以上に幼く、か細いように思えてくる。普段聞いている自分の声よりも酷く幼稚で、それでいてどこか苦しげなように聞こえるのは気のせいだろうか。
そんな自らの感想とは裏腹に、2人は思わぬ方向へと会話を発展させた。
「優一……話があるんだ。僕にとって、とても大事な話……聞いてくれるかな」
「あぁ、その話をするためにここに呼んだんだろう?」
幼稚な自らの声とは裏腹に、透き通った男子生徒の声は恐ろしく整った印象を受ける。もっと端的な表現をすると、ストレートにかっこいいのだ。男子的な声色であるものの、どこか大人びた印象を与える言葉遣い、全てにおいて通俗的な「かっこいい」という言葉に収斂されるだろう。
僕はふと、その声を聞ききゅるりと胸が痛くなる。破裂するような痛みではなく、心臓の一部が強烈な軋み声を上げて捻れるというべきだろうか。そんな音色が眼前に広がるように、僕の胸は締め付けられた。
一方、映し出されている視界はというと、僕の視点が優一と呼ばれた少年を常に捉え、優一が隣に腰を掛けるまでの動作を逃すことなく視界に映し出し、狂ったようにグラグラと揺れて見えた。恐らく、その時の僕は相当な動揺があったのだろう。心なしか、手足全体がじんわりと汗ばんでいて、どちらがしているのかわからない呼吸音すら聞こえてくる。
「隣、座っていいか?」
「勿論」
その後、2人はもどかしく沈黙する。時間としてはほんの数分程度、もしくは1分にも満たない時間だったかもしれないが、なんだか見ているこっちも恥ずかしくなってきて、僕も拒絶するように瞳を閉じる。
一旦真っ暗な闇に閉ざされた後、僕は優一の声で再び視界を捉えることになる。
「……なにか、あったのか?」
「優一は……僕のこと、好き?」
「どうしたんだよ、なんかあったのか?」
「嫌いでは、ない?」
「当たり前だろ。嫌いなやつとなんて会わない」
この段階で、僕は過去の自分が何をしようとしているのか理解する。
恐らくは、あのおまじないに則った告白だろう。この際、相手が男子生徒ということはおいておくとして、自らの記憶にこんな色恋のエピソードがあったことに驚いた。そんなドラマのような出来事が、自分にあるとは、到底イメージできなかったから。
そうと分かると、こちらの胸も爆弾のように脈動する。苦しく切迫する心筋の音色が妙に鬱陶しく感じるほど、僕は過去の僕と同じくらい優一のことに心惹かれていた。
しかし、肝心の告白についてはうまくできていないようだ。多分、失敗したときの事を考えて足踏みしているのだろうが、ここまで来た以上それについて吐露するしかない。僕は心の中で応援するように、早く次の言葉が出てくることを祈った。
「好きなんだ。優一のことが、いわゆる恋愛的な意味で……」
ようやくひねり出した言葉は、やっぱり自分らしい言葉だった。若干面倒くささを覚える言葉遣いにほとほと呆れてしまうが、優一の反応は恐ろしく意外なものだった。
彼は、少々驚いたような仕草を浮かべた後、なにか言いたそうに口元をいじる。恐らく、なにか伝えたいことがあるらしいが、彼も緊張しているのかなかなか言葉が出てこない。
ふと、その僅かな時間のなかで、視界がぐらりと歪んだ。一瞬ノイズがかったような不自然なゆらぎに、僕は何が起きたのかわからなかったが、体中に走った布の感覚により全てを理解する。
大きな優一の体が僕の体に隣接した。ふわりと感じる彼の体温と香りに強烈な眩暈が目の前を過っては消えていくと、眼前にあった彼の顔がさらなる意識障害をこちらに与えてくる。その場で卒倒してしまいそうな気持ちを押さえつけ、僕は混濁した鼓膜を叩くように整え、深々と呼吸したつもりになって彼の言葉に備える。
「……俺もだ。きっと、昔から、最初に会ったときから好きだった」
聞こえてきた言葉に、僕はその時の感情が再生されるような錯覚に陥る。
心臓はもはや数を刻むことができないほどの軋み声を上げ、体中の筋肉はなにかの発作を起こしたように軽度の震えを生じさせ、幾つもの神経細胞が過労死する勢いで体中を巡る躍動を悟る。一言で表せば、「表現し切ることのできない喜び」であろう。
しかし、僕が感じたその感情を否定するように、あの音が鳴り響く。
狂ったように鳴り響くアラベスクの旋律が鼓膜に触れれば、踊り場正面の窓ガラスから見える場所に、再び異形の存在が浮かび上がる。
それは、明らかにこちらを見ていた。そして、嘲笑うように頭部をがらがらと揺らし、大振りな仕草でオルゴールを回し続ける。
それを皮切りに視界が地震を彷彿とさせる勢いで揺れ始める。そして、暫くの間揺れ動いた後、とある一つの映像で視点が固定される。その映像は、僕の視点ではなかった。というのも、明らかに不自然な位置で映像が止まっているのだ。
階段の下から、踊り場を見上げるような視点で止まった映像には、大量の血の海に沈んでいるような優一を捉えていた。
これは、恐らくは優一の視点なのだろう。彼は僕のことを見ていた。狂ったような形相でこちらを睨みつける、僕を。