第四章 - 暗夜の吸啜 3


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 驚愕、そして恐ろしいほどに呆れ果てる動機にうまく心が整理できなかった。およそそれは、目の前にいる「僕」にとっても同じであり、彼自身、あの出来事に対して理性的な采配を下すことのできたのは、これが最初なのだろう。

 理想化した憧憬が自分の中で瓦解した。だから、道連れに殺した。
 こっちまで恐怖してしまうような内容であるにも関わらず、妙に納得ができてしまうところが「僕」が僕自身たる証拠なのかもしれない。
 だが、その恐怖心とは裏腹に、「僕」は三度語りだす。

「おかしいことは十分理解している。けれど、確実に僕は、理想化した優一のことを、冷静に、愛してた」
「どういうことだ?」

 間髪入れずにそう尋ねると、「僕」は静かに「大好きだった」とだけ答え、その後は静かに僕の胸に顔をうずめるばかりだった。

 このあと、僕はどうすればいいのだろうか。
 深い疑問と躊躇いばかりが思考の影を踏みしめ、同時に後ろ指を突きつけてくるようだった。実に不快極まりない感覚であるが、その根源が過去の自分自身にあるとして、僕は裁くことなどできない。自分が自分のことを本質的な意味で裁くのは、「死」のみであるのだから。

 許すか? この行いに対して、僕はどういう答えを出せばいい?
 いや、許すことなど出来ない。他人を巻き込んでしまった以上、僕自身の意識だけでそんなことを許すことはできない。
 何を持ってしても贖うことができない罪業を、僕は負ってしまっているのだ。ではどうすればいい、必死に考えても同じところを延々と巡り続けるばかりで、何も答えという答えが浮かばない。

 それに、どうして真実に辿り着いたというのに、この世界には一切の変化が生じていない?
 今まで、重要な出来事に触れるたびに、この世界は流動的に変形していったはずなのに、今は寸分も変化することなく静かに在り続けるのみである。

 一体、何が足りないというのだ。これほどまでの、優一に手をかけたという最奥の真実に触れてなお、僕はこの狂気に満ちた世界に取り込まれてしまっている。
 確実に何か、僕の思考の外側にある要素がこの世界にはある。だからこそ、僕はここで立ち尽くすばかりなのだ。

 凄まじい速さで頭を回転させていると、今度はそれに水を差すように階段を駆け登ってくる音が聞こえてくる。その足取りはどこか聞き覚えがあると、まっさらな記憶に一抹の染みを付ける。
 それに対して振り返るが、対して「僕」には自らの背に隠すように促して扉に視線を移す。

 するとほぼ同時に扉が開け放たれ、曖昧な輪郭とパーツを持つ、母親と思しき人物がヒステリックな調子を引っさげて怒号を鳴らした。

「……折人、いつまでも私のことを困らせないで。大体、ただでさえ気持ち悪い病気持ちの貴方を育てるのは大変なんだから、学校くらい……」

 恐らく、進学先についての話の続きであるのだが、どうやら少しとてこちらに気がついていない様子で、背部にいる「僕」にに対して明らかな視線を向けて言葉を発している。
 やはり、僕はこの世界に対して一切の介入ができないのだろうか? そう思って、階段の踊り場から溢れる光を潜って、母親の顔を凝視しようとした途端の出来事だった。

 彼女は、こちらの顔を見て驚いたのか、腰を抜かして異形のものを見るかのような表情で泣きそうになり、そのまま転がり落ちるように階段を降りていった。
 一瞬、こちらも訝しげな表情を浮かべたが、それ以上に今の不可解な反応と、初めてこの世界の「者」に対して介入できたことのほうが驚きだった。

 しかし、こちらの気持ちに反して、僕以上に怪訝な表情をしていたのは「僕」の方だった。

「え……? 君は、本当に……僕なの……?」

 「僕」は、およそ幽霊でも見たかのような面持ちで表情を崩した。それに呆気にとられていると、僕はようやく、光の中僕が立ち尽くしていることを理解する。

 ふと、僕は自らの顔に触れる。
 自分では感触で理解できないものの、僕の考えは当然ながら「今まで見てきたものと同じように、異形の存在なのではないか」ということである。そして、その気持を率直に「僕」自身にぶつけると、想像を絶する答えが返ってくる。

「……顔が、ないんだ。まるで、皮膚が捲れ上がったような……気味の悪い顔……」

 その答えは、この世界で見てきた異形のものと並べてもおかしくないものだった。
 抽象的な描写であるが、それを上回るほど、言葉のインパクトと恐怖は言い表せないものがある。

 それを端的に表すのは、「僕は、一体何者なのか」という自らの独白である。驚くほど意識せずに出た言葉が、十二分に動揺を表現しており、恐怖の残響は静かに頭の中を混乱させる。

 冷静に考えてみればよく分かる。僕は、確かに、この世界において特別だった。
 およそ自らの記憶と称された世界に入り、一つ一つ僕の心そのものを汲み取っていた。そして今僕はここにいて、自分が「錫野折人」という人物であるという証拠がまるでないことに気付かされる。

 では僕は、何者であるのか。

 漸く僕は理解する。この世界から抜け出る唯一の方法にして、この世界の最奥に眠る秘密。
 それが、今まで狂気の世界を彷徨して来た僕自身にまつわるもう一つの事実。僕は、何者か、まさにそれだった。
 驚くべき事実にすっかり狼狽している自分もいたが、そんな混迷の中、静かに手を差し伸べたのは、「僕」の方だった。

「……ねぇ、顔は変わっているけど、君は間違いなく、僕だと思う」

 「僕」は静かにそう言うと、いそいそと話し出す。

「なんとなくわかるんだ。この世界を作ったのはきっと僕で、ここでできたものすべてが僕のものだと思う。だから、君も僕であることに間違いない。多分君は、僕よりももっと遥かに現実に近い位置にいたはずだ」

 言葉の意味が難解で首をかしげていると、すぐにこの言葉の中で強烈な違和感が生じ始める。
 この世界を作り出したのがもし、目の前にいる「僕」であり、しかもそれを自覚しているのであれば、僕が最初に会ったこの世界の管理者だという「瑠璃」という優一そっくりの人物は何になるのだろうか。そもそも、自分が曲解する起点となったのが彼であり、管理者不在だからこそ、この世界はここまで混沌としているのだ

 乱雑に並んだ疑問符が静かに線を結び始めていた。けれどその線は驚くべきほどか弱く、そして薄い。けれども確かに僕はこの世界の実情と、突破口を理解しようとしている。
 自分が何者であるかということは今は関係がなかった。「瑠璃」という存在そのものが、この世界の根源を紐解くことになるだろう。

 方向性が明瞭になったときには、その気持はすでに言葉として飛び出していた。

「……ねぇ、この世界を君が作り出したのなら、瑠璃と名乗る少年のことを知らないか?」
「瑠璃……? いや、わからないけど、少なくともこの世界に僕以外の人格はないはずだ。人と出会っているとすれば、僕の一部か……それとも……」

 彼はその後の言葉を言い渋ったが、少し考えて静かに頷き、ひっそりと喋りだす。

「……僕の強い気持ちが人格を持った姿だ」
「強い、気持ち……?」

 その一部分を拾って反芻すると、彼は滔々と語りだす。

「僕は、いわゆる主人格となる存在だ。そして、恐らく君は、僕のことを助けてくれるなにかの気持ち。きっと、君が出会った瑠璃という少年は、また別の存在となっている。

 でも、さっき君は言ったよね? その瑠璃という少年が、優一の姿をしていると。でもそれはきっと幻だ。なぜなら、この世界を管理しているということと、優一は結びつかない。優一の姿はきっと、救済者的なところを持つ君のものだと思う。

 それが、瑠璃という存在になったということは、僕自身が死を選んだからだ。
 救済ということすらも必要ない、だから、君の存在はあやふやになって、記憶すらもなくなった。それが、君の正体だと思う」

 彼の語りに対して僕は、「では、瑠璃は何者だ」と当たり前のように問い返すが、そこまでは「僕」もわからないようで、静かに首を横に振った。しかしながら、彼は一つの仮説を語った。

「ひょっとしたら、オルゴールと関係しているのかもしれない。

 この世界で一つ、僕の干渉できない存在がいた。それが、定期的に狂ったオルゴールの音を鳴らす、気味の悪い怪物だ。あれだけは、唯一僕とは全く別の存在だと思う。

 そして、瑠璃がそれに対してどう思っているかで、ある程度正体を見極めることができると思う。

 僕から言えることはこれだけだ。でも僕は君によって確実に救われたんだ。だから、きっとこの世界は更に形を変えると思う」

 その言葉に習うように、あたりは人知れず闇に沈む。
 モノクロのインテリアも、やたら煩い暖色の間接照明も、いつの間にかすべて闇に溶けてしまい、それは「僕」も例外ではなかった。

 いつの間にか声だけがその場に残留していて、「僕」という存在が消えてしまっている。これをどう解釈すべきかは甚だ疑問であるが、それ以上に、もう何度目かわからない扉が目の前に出現した。

 それは、今までの中でも一際異彩を放っていた、あの狂気の扉だった。

 血管が浮き出ているような、確実な生命を孕む異形の扉。瑠璃はこれを「心の扉」なる不可思議なことを言い、記憶に通づるという言い回しもしていた気がする。
 すでに記憶が曖昧なのは、この世界の多くの真実に触れて、虚像が薄らいだからだろう。確実にこの先には真実があり、僕にはそれを解明する義務がある。それを決意して、僕はおもむろにその扉に触れる。

 すると、けたたましいオルゴールの音がどこからともなく出現する。あたりを見回すことはもうない。この音は確実にこの中から聞こえてくるのだから。

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