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文系と理系という分類の意味について

 読者各位は、日本で学校に通った時期が少なからずあると思われる。その中で必ず見聞きすると思われる言葉として、「文系・理系」という分類があると思われる。
 表題に従って、私が本記事で雑記をしたためようと思うのは、

 文系と理系という分類に意味があるのか?

 ということである。私のこの手のエッセイという名の雑記を見た方であれば、これに何らエビデンスもなく、本当にただ一般人が自分の考えを書きなぐっているだけである。

 まずこの表題の是非については後で考えるとして、私がどうしてこんな疑問符に行き着いたということから述べていこう。
 私は現在、少ない日でもおよそ3000文字ほどの文章を書き、多い日であれば万を超える場合もある。毎日必ず活字に触れるし、常に何かしらの思考の文章化をしている、ズブズブの文系らしい生活をしていることは言うまでもない。

 しかし、少なくとも私は小中高という無闇矢鱈と「文系」や「理系」を括りたがる環境下において、「文系」として判断されたことはなく、常に「理系」という判定が下されていた。
 当時はすっかりそれに感化されて、当時好きだった数学や物理などの本をたくさん読んだことは今では郷愁に照らされている。勿論今でも暇があればその手の本を読んで楽しんでいるが、あの時と比べると、幾分私の思考は「理系」に偏った気持ちは持っていないし、そればかりか表題のような疑問すら感じるようになってしまった。

 表題から開幕早々、自分の主張を曲げるようで憚られるが、私は思考の方向性をジャンル化して、学びの効率性を促すことについては一切否定しないし、むしろ無限とも言える学問という営みの中で、方向性を明瞭にするのはむしろいいことだと思う。
 けれど、現行の日本における「文系・理系」という括りはジャンル分けの意味すらなく、形骸化も甚だしいと感じている。これこそが、表題そのものの意味と明言しておく。

 恐らくだが、私がこのように感じる理由として、日本における「文系・理系」の隔たりが驚くほどに大きいからだと考える。
 なお、ここで日本におけると表現しているのは、当然ながら私が他の文化やイデオロギーにおける「文系・理系」に準ずる括りをよく知らないからであり、そちらにまで言及してしまうと風呂敷がたためなくなってしまうからだ。

 私の実体験をここでお話しよう。
 すっかり「理系」だと思いこんでしまった私は、今からは想像もできないが特に作文が苦手だった。しかも、これは高校生の頭まで続き、小説を書き始めるまでは小論文が壊滅的に不得手だったことは、あれ程に遠い記憶の中にあるということは、私自身を驚いている。

 私が小説を書き出した動機などについてはまた別の機会に述べるとして、「理系」という括りから外れて文章を書き始めたのは、決して挫折があったからではない。勿論、内容が難化する理系の分野には「理解できないからこその楽しさ」というものを少なからず抱いていたし、それがなければ今でも理解困難な理系の本を読むことはないだろう。

 私が文章に対して苦手意識がなくなったのは、「文系・理系」という括りを一度取り払って、フラットな気持ちが得ることができたからだと自負している。

 これはあくまでも私個人の一例であるため、万人や普遍性については担保することはできないが、それでも「文系・理系」というある意味では隔絶された感覚については私だけはなく、この社会において深く根強いていることだろう。
 なんとなく、「文系」は「理系」に対して近寄りし難い感覚があり、逆もまた然りであった。以降は学校や地域によって違いは大きいだろうが、中には「理系」が「文系」を見下すという意味のわからない状態にまで発展していたこともあったと思う。

 ジャンル分けをすることで学ぶことを円滑にする、という目的のために「文系・理系」というジャンルを設定したところまでは意味として理解できるが、学びにおいて広範な知識と視座は重要なことだと考えている。
 勿論、一点して特定のジャンルのことを学び続けることは大切だが、ようは用途次第であるのだろう。深化した知識から、新しい視座を生み出すということを考えれば永遠の知識を追求する事もいいかもしれないが、多くの知識や視座から、新しいものを作ったり、アイデアを思いついたりすることを考えれば、広範な知識と視座が必要不可欠になる。

 考える、ということに中心をして考えれば分類をすること、は非常に意義深いことである。

 けれども、日本の「文系・理系」のジャンル分けは隔たりが大きすぎて、お互いにお互いの分野を忌避してしまうということは、可能性を根こそぎ刈り取ってしまっていることになる。
 例えば「文系」とテストの結果では出ていても、実は他分野において興味関心を持つことができ、複合的な視座が展望できる人が才能的にいたとする。であれば、この日本での「文系・理系」というジャンルはどのように作用するだろうか。

 お互いに「自分は文系だから理系はしない」とか「理系だから文学はちょっと」などと自分の可能性を潰していくのは、自分にとっても効率的ではない。
 当然ながらこれは学問に限った話ではないが、日本の学習の中で恐ろしいほどに定着しているこのジャンル分けは、現在の使用方法が続けられるのであれば、意義はすっかり形骸化し、残骸が膿となって悪影響を及ぼし続ける可能性も否定できない。

 さて、私の主張はとりあえず以上の通りであるが、勿論これを用いて日本社会に苦言を呈することを意義にしているわけではない。
 この記事の本質として、どうか「自分は文系だから」とか「理系だから」といって、ジャンルを忌避しないほうがいいと言うことである。私のように「文章は苦手だから」と言っていても、最終的に現在のように何かを延々と書き続ける人生もあるかもしれないし、今では何かを書くために生きているような気持ちにもなる。

 自分にとってこれほど、生活に質を向上させたことはないと断言できる状況にある。
 正直、学問という壮大な話にこれを括る必要はない。自分が全く眼中にない存在であっても、「とりあえず挑戦してみる」ということは、思わぬ変化を産み落とす可能性を秘めているらしい。私はそれをもう十年ほど前に経験しているが、残念ながらそれを自覚したのはここ最近だ。

 自分のことを振り返るということは、文章を書く人であれば多くあるかもしれない。他の人はどうだろうか。振り替える機会ということすらそもそもないという人もいるであろうし、頻繁に振り返ることもある。
 その振り返りの中で、自分が絶対しないことをしてみるのもいいのかもしれない。少なくとも、「文系だから」という在り来りな理由で忌避してしまうことを理由にしないようにと、私は心の底から決めている。

 毎度毎度のこと、これが雑記たる所以が出た時点で、この雑記はここで終了とする。
 いつもこのような雑記にお付き合いいただき、読者各位に改めて感謝の言葉を残させて頂く。


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