名画の余韻。原題 Our Souls at Night 「夜が明けるまで」
作家の平野啓一郎は、人と人のあいだは、相手によって人格というものが変わり、アイデンティティというのは、相手が変わっても、あの時もこの時も丸っと全部自分だと理解することが現代では必要なのではないかと著作を通して伝えている。
私はこのことを知ってから考えた。家族や恋人、友人、知人、なんとなくイメージしてみても、少なくとも10個ぐらいの顔があるような気がしている。
周りの人の方が自分のことをよく知っている、というのは、巷でよく言われるセリフである。人からの助言や気持ちは、間接的にその人を通して自分を見ていることということでもある。
「静かな映画だから、多分、Mさん、好きだと思う」と、以前の職場の同僚が紹介してくれた映画がある。それが余韻のある味わい深い作品で、自分の中だけで留めておくのはもったいないものだった。また自分だけでは捉えきれない何かがあり、考えたい映画だった。
邦題は「夜が明けるまで」(原題は、Our Souls at Night )というシニアの恋愛映画だ。
鑑賞後、映画「めぐり遭わせのお弁当」のリテーシュ・バトラが監督を務めていて、落ち着いた静かな作品に合点がいった。(「めぐり遭わせのお弁当」は、踊らないインド映画で、ひたむきに疾走する愛が素敵なので、情熱的な人はきっと好きな映画だと思う。タイトルの通り、お弁当という題材なのだが、食は愛情を伝えるのに相応しい)
さて、「夜が明けるまで」のあらすじを簡単に説明すると、作品の舞台はアメリカの西部、コロラド州のホルトという田舎街。それぞれの住宅が程よい距離をとりながら、庭の緑が穏やかに家々を包み込んでいる。田舎のご近所づきあいも常で、それぞれの様子は無意識に干渉され、守られてもいる。
街に住むシニアの男女がある日突然、一人で過ごすには持て余す夜をともに過ごそうと誘い出すことからストーリーは始まる。妙齢ではないシニアの男女、彼らの巡り会いは、お屋敷にととのえられた重厚感のある家具のしつらえのカットが流れることで、人生を支えた家族との時間や家族を持つという時代の価値観が重くのしかかるようにも映る。
実際に二人自身にも過去そして現在に、整理仕切れない人生の後悔や葛藤が残っていて、それを対処するには暗闇を通して光を見つける必要があったようにみえる。
邦題の「夜が明けるまで」の意味には、3つの解釈が存在すると予測する。一つ目は、事象をそのまんま、思いがけなく訪れる、夜明けまで過ごす時間のこと。二つ目は、過去に拭いきれなかった暗闇を分かち合うことで見つける心の中にある光。三つ目は、更新した新たな自分の愛を見つける日までのこと。
シニアの二人に生まれる愛は、もはや二人だけのものではない、という事実を作品を通じて感じさせられる。二人の親として態度、それとは別のところに存在する一人の人間として必要な愛。数々の人生経験が重なり、それがあって今の愛を形成している。その成熟した愛に感動した。
それにしても、最後の終わり方がすごく好きだなあ。恋愛のよいところの一つに、恋人の言葉がそのうちに相手にうつってゆくことがあると思う。言葉の所縁。アイデンティティは、分人主義と言えど、心、言葉は伝染していくのだろう。