考えるな、感じろ

どうやったらいい仕事ができるのか。
損得とか、効率とかを考える脳が理性脳。
でもそちらの脳をフル回転させている間、人は、深く物事を考えることができないという。

理性脳は、トルクが弱く、難しい問題にぶつかると、その段階でそれ以上物事を考えられなくなる。
効率的に、どんどん道筋が見えているときは良い。
一見どんどん仕事を解決していけるように見えるし、事実、目の前のことは片付いていく。

でもその片付いたように見えることに、どのくらいの意味があるかということになると、急にあいまいになる。
人を応援したいと考えた時に、短絡的に千羽鶴を折り始めるようなもの。
その千羽鶴が、実は現場にとってはただの迷惑な代物。
本当なら、折り紙として何にでも使える紙を、千羽鶴用の鶴として用途を限定していく。
千羽鶴は、見方によっては、一生懸命折れば折るほど、無意味なものを生産していることにつながっている。
理性脳だけでは、そのことに気づけないことが多い。
 
理性脳から抜け出すためには、自分自身の中にある芸術脳を使わないといけないらしい。
芸術脳は、目先の損得とか、問題解決とかはしてくれない。
ただ本質的に、私自身が何をしたいと思っているのか。
何に快楽を見出しているのかを教えてくれる。

先ほどの千羽鶴であるとするなら、折り紙自体を現地に届けて、一緒につるを折ったら、何のエンタメもない人たちの退屈を救うことができるかもしれない。
鶴ではなくて、コップでも折ったほうが、はるかにありがたいと思われるかもしれない。
連続的な思考を一度休んで、突拍子もないかもしれないけれど、より本質的なものに出会えるような頭の使い方ができるようになりたい。
 
答えの見つからない問題に、答えを得ようとするには、考えることより、感じることが必要かもしれない。
何かの目的のために、我慢して何かをした時には、その目的がつまらないものであったことを知った時には、後悔しか残らない。
でもその瞬間を楽しむために生きた時。愛することや、愛する者のために生きた時間は、それを嫌いになったり、愛せなくなったとしても、後悔というよりは、納得が残る気がする。

自分自身が何をしたいのか。
何が好きなのか。
何をやっている時が、一番自分として納得ができるのか。
それを見つけることは意外と難しい。

一生懸命スポーツに打ち込んでいるように見える人にも、そのスポーツが大好きでやっている人もいれば、嫌で仕方ないけれど抜け出せなくてやっている人もいる。
一見苦痛に見えることや、楽しそうでないことの中にも、発見や、驚きを見出して面白いと思うこともある。
表面的な楽しさの連続が、精神的な満足につながるわけではない。
一見大変そうな何かを越えたところで、見えてくる充実感のようなものもあるに違いない。

どうしても理性脳で考えてしまう。
芸術脳を使うためには、考えてはいけない。
感じること。
一見つまらないことに見えても、楽しいことを探してみよう。

何をしているとき、自分が楽しいと思うのか。
何をしているとき、充実していると思うのか。
それはある意味、いろいろとやってみないとわからない。

動いてみることで、わかる何かがあるはずだ。
理性脳を眠らせることは、思っている以上に難しい。

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