「あのクズを殴ってやりたいんだ」の自傷
奈緒がボクサーを好演している「あのクズを殴ってやりたいんだ」。
その中で玉森裕太が演じる海里が、また闇落ちした。
過去にボクシングの対戦で、殴り殺してしまった親友。
その弟、悟(倉悠貴)。
悟は海里を許していなかった。
「人殺しが幸せになるな。前向きに生きるなんて許せない」
親友を殺してしまって以来、クズとして、無気力に生きてきた海里。
その海里がほこ美(奈緒)との出会いの中で、少しずつ前向きに生きることをし始めた。
写真家として、結果も出始めた。
その矢先の悟の行動。
予想外で、理不尽にも思えるが、理解できないこともない。
考えさせられる。
そもそもスポーツの中で、相手を殺したと言って、何か罪に問われるわけではない。
フェアに殴り合いをした中で、相手が亡くなったとしたら、それは事故で仕方がない。
でも人はそこのところを、簡単に割りきることができない。
自らの手で、人を殺したことには変わりがない。
もしあの一発を控えていたら、殺さずに済んだのではないか。
相手の異常に気が付いていれば・・・。
後悔先に立たずという。
きっとそんな思いが渦巻くことだろう。
もちろん忘れてしまって、そんなことと関係なく生きる人もいるだろう。
でも海里はそういう男ではなかった。
だからずっと引きずった。
殺してしまった親友の人生。
自分だけが幸せになっていいはずがない。
その海里がようやく前向きに歩き出した。
ほこ美の存在はそれほど大きかった。
海里が何とか自力で歩こうとしたところでの、悟の登場。
人はどこまで傷つき続ける必要があるのか。
一生自分を許さない。
一生、その人のことを考えて生きる。
そこをどこまでしないといけないのか。
どこまでしてしまうのか。
自分は幸せになりながら、墓参りだけはずっと続けるという謝罪の仕方もあるだろう。
忘れようとしても、忘れられないものだろう。
その思いとどうやって付き合うか。
殺されたと思っている肉親側もどうだろう。
時間が経って、客観性が出てくれば、それは殺されたのではないこと。
戦いの結果命を落としたに過ぎない。
むしろ殺されたというとらえ方は、個人に対する冒とくであることにも、気づくことはできるだろう。
でも喪失感は残る。
この喪失感をどうやって埋めていくのか。
いつまでも肉親のことだけを考えて、自分が前向きに歩くことをしないのが、いいとは思えない。
ドラマの最終回に、どんな世界を描くのか。
脚本家と、ドラマスタッフの腕の見せ所だ。
最終回前に、あれほど弟の怒りを見せてしまった以上、単純なハッピーエンドは描きにくい。
だからと言って、最後まで海里が自傷を続けてしまえば、ドラマは湿っぽいだけで終わってしまう。
でもあっさり前向きに生きられても、なんだか薄情に感じてしまう。
海里は、悟に許されれば、自分で自分を許せるわけではない。
誰かのために自傷しているわけではないからだ。
自分で納得できる、過去との折り合いの付け方を見つけるしかない。
後悔の無い生き方ができる人はほとんどいない。
そんな過去に、いろいろな形で折り合いをつけ、時に忘却しながら人は生きている。
後悔は無くならない。
だとしたらせめて後悔が軽くなる折り合いの付け方。
そのことへの向き合い方があるのだろうと思う。
どんな最終回が展開されるのだろう。
楽しみなような、不安なような。