嫌な奴を観察したのは間違いだった

小説を書いたり、文章を書くには、人を良く見ていないといけないと思う。だから、これまでは生理的に嫌いだと思う人間は見ないようにしてきたけれど、先日、少し丁寧に見てやろうと思った。
 
少し遠くから、嫌な奴のことを観察する。
嫌いな奴のどこが嫌いなのだろう。
冷静に見つめることで、その一端でもわかれば人生にプラスになるのではないか。
そんな意欲的な時間を設けてみた。

設けてみてすぐに気がついた。
私の中に嫌な奴だという思いが強くなってしまっているから、ちゃんと見ることができない。
フィルターを外して、客観的に見たほうがいい。
嫌いである前に一人の人間。
一人の同僚。

そのことはわかっているけれど、嫌いな奴は、見ていると吐き気がしてくる。
もう一挙手一投足が気に入らない。
どこが嫌などと冷静に見ることは難しい。
表情。
髪形。
持ち物。
声。
発言の内容。
立ち居振る舞い。

とにかく嫌だ。
私の観察計画は、あっけなく頓挫してしまった。
 
別に仕事だから、そんな人ともチームで仕事はする。
笑顔も見せるし、協力はする。
でも、普段その人のことは考えないし、見ない。

小説を書くために、観察をしようとしたのが間違いの元だった。
じっくり見ようとしなければ、吐き気を催すほどではなかった。
でもじっくり見ようとしたら、なんだか本当に嫌だった。

こういう人との関係性を修復するのは難しい。
お互いに、ものすごく我慢して、わかり合う努力をしたところで、回復できる部分は知れている。
うまくいかない人とは、やはり表面的な付き合いを行い、近づかないことだ。
そんな当たり前のゴールしか得られなかった。
 
人を嫌いになるきっかけはわずかなことだ。
価値観が合わない。
私自身が大切にしていることを、その人が無頓着に踏みにじる。

その人にしたら、踏みにじったなどという意識はない。
私が勝手にがっかりするだけだ。
価値観が合わないなどということは、日常に山ほどある。

人間が違う以上、別の価値観を持っていることは当たり前。
同じである必要はないと思う。

でも同じ職場にいると、そういう価値観の違いが何度も繰り返される。
次第に、私の中でそのことが強化されていく。
嫌いだという思いが確定していくということだ。

何か口論をしたとか。意見が決定的にすれ違ったとか。
そういうことでその人を嫌いになるわけではなさそうだ。
私が嫌いなのは、本当に些細なこと。

箸の持ち方が汚いとか。
口の中にご飯が入ったまま話をするとか。
下足のまま上履きのエリアを歩くとか。
話を上滑りに流して聞くとか。
お金にせこいとか。

その人にしたら、習慣になっていて、別に何とも思っていないこと。
私はそういうところに引っ掛かって、人のことを嫌だと思う。
嫌だと思うと、それが雪だるま式に膨らんでいく。
 
おそらく多くの人も、私とは違うところで人を嫌いになるに違いない。

学歴を気にする人。
ファッションを気にする人。
大衆を気にする人。
偉そうな態度を気にする人。

こういうことが気になる人は、割とたくさんいそうだと思うけれど、私は箸の持ち方が汚い方が嫌だ。
人はみんな違ってみんないいけれど、嫌な奴は嫌だということだ。

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