どのみち「生きている人間」としての「天皇制」は無用で不可能・・

 より

上記文抜粋
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僕はどっちかというと金魚すくい派なんだ


天皇制批判をしている人物のほとんどは、天皇制イデオロギー批判のみをしているように見えるな、そこのキミなんて特にそうだが。
◼️天皇制イデオロギー


一般的には、近代天皇制イデオロギーとは、国学と後期水戸学に思想的源流を有し、明治前期の神道国教主義、文明開化・欧化主義、自由民権運動などの紆余曲折を経、明治憲法・地方自治制・教育勅語などによって基盤を確立し、その後の国民道徳論・家族国家論によってひとまずの完成を見たイデオロギーである、と捉えられてきた。そして、このイデオロギー形成の背景に近代的原理=「国家を政治的な制度として構成する原理」と前近代的原理=「国家を共同体に基礎付けられた日常的生活共同態と同一化できるものとして構成しようとする原理」の対抗関係を見(藤田省三『天皇制国家の支配原理』 ) 、たとえば明治期の国学者、さらに「天皇親政運動」を行った元田永孚・佐々木高行、国民道徳論・家族国家論を説いた井上哲次郎・穂積八束など後者の系譜と見なされたイデオローグが、岩倉具視・伊藤博文らを結節点に、啓蒙思想家や自由主義的知識人など前者の系譜と見なされたイデオローグを包摂していく過程として近代天皇制イデオロギーの形成は語られることが多かった。その性格を半封建的絶対主義的なものと見るか、あるいは後発国民国家の権威主義的なものと見るかなど、一九三〇年代以来今に至るまでさまざまな議論が行われてきたことは周知のとおりだが、教育勅語、国民道徳論・家族国家論などに顕現された、 「万世一系の天皇」を家長とする「国体」への国民統合イデオロギーたる近代天皇制イデオロギー像は、大雑把に整理すればこのようなものであろうか。そして、やがて昭和ファシズム期においてそのイデオロギーが極限まで突き詰められていったとするならば、 「国学研究の狂騒曲」を手がかりに近代天皇制イデオロギーの性格を検討することも、あながち不当なものではないということになる。

(桂島宣弘「近代天皇制イデオロギーの思想過程 ――徳川思想及び平田篤胤像の転回を中心に―― 」2002年)

でも天皇制にはほかにも宗教としての天皇制、さらに象徴天皇制が語られてきたぐらいは知ってるだろ?


◼️宗教としての天皇制
じっさいに〈天皇(制) 〉が農耕社会の政治的な支配権をもたない時期にも〈自分ハソノ主長ダカラ農耕民ノタメ、ソノ繁栄ヲ祈禱スル〉というしきたりを各時代を通じて世襲しえたとすれば、この世襲には〈幻想の根拠〉または〈無根拠の根拠〉が、あるひとつの 〈威力〉となって付随することは了解できないことはない。いま、 〈大多数〉の感性が〈ワレワレハオマエヲワレワレノ主長トシテ認メナイ〉というように否認したときにも、 〈天皇(制) 〉が〈ジブンハオマエタチノ主長ダカラ、オマエタチノタメニ祈禱スル〉と応えそれを世襲したとすれば、この〈天皇(制) 〉の存在の仕方には無気味な〈威力〉が具備されることはうたがいない。わた しの考察では、これが各時代を通じて底流してきた〈天皇(制) 〉の究極的な〈権威〉の本質である。(吉本隆明 「天皇および天皇制について」 『詩的乾坤』国文社 1974.9.10)


天皇を政治的な立場から外せば天皇制という仕組みがなくなると単純に思っているひとがいるが、僕はそうは思っていない。僕らが縁日で金魚すくいをやっている限りは、神道の名残は残ると思っています。それと同じように天皇の名残も残り続けるのです。縁日に行って神社に露店が無くなったときに初めて、日本の神道がなくなるように原始からの何層もの積み重ねが現代の日本を形作っているのです。(吉本隆明『真贋』2007年)


そもそも日本の原始的な宗教性は神道にあり精神的な活動をされる方の多くは神道にもとづいています。…天皇の地位や存在についても起源からたどっていけばこのように考えることができるのです。…文学でいえば柳田国男や折口信夫が僕らを満足させる考え方にひとりで到達しており感心します。(吉本隆明「真贋」) 2007年)



天皇の責務は第一に神道の祭祀であり、その次が和歌などの文化の伝承だった。国家の統治ではない。だからこそ、権力闘争の場から微妙な距離をおいて、百代を超える皇統が維持できたのだろう。後鳥羽院はまず超一級の詩人で、次いで二級の君主だった(それでも天皇にしては政争過剰)。こんな王が他の国にいたか。


千年を超える祭祀と文化の保持の後に維新が起こり、ヨーロッパ近代が生んだ君主制が接ぎ木される。島国は島のままではいられなくなった。グローバルな戦争の果てに、昭和天皇は史上初めて敗者として異民族の元帥の前に立たされた。この人について大岡昇平が「おいたわしい」と言ったのはそういうことではなかったか。一人の人間としての昭和天皇の生涯を見れば、大岡の言葉はうなずける。(池澤夏樹『終わりと始まり』2014年)

◼️象徴天皇制


不変項として、天皇制の宗教的な貌があるとすると、可変的な貌としては、権威/権力の分掌体制すなわち二重王権としての天皇制がある。この二重王権としての天皇制の歴史は、おそらく中世なかばに大きな断層があって、ふたつに分かたれる。天皇みずから権力を握る可能性へと開かれていて、朝廷というマツリゴトの庭がたしかなものとして存在した後醍醐の以前/以後では、同じように二重王権であっても、その帯びる意味は大きく異なっているということだ。戦後の象徴天皇制は、いわば中世なかば以降の、権力への途を断たれた天皇制の最後の段階と位置づけられるだろうか。 (赤坂憲雄『象徴天皇という物語』1990年)


象徴天皇制というのは私の持論でありますが、戦後復活したものでございまして、急にGHQ その他から押し付けられたようなものではない。本来の在り方に戻ったもので、実は幕末以前に長い歴史がある。それこそ 1,000 年以上の歴史を持っている。つまり、君臨すれども統治せずというような君主の在り方を象徴天皇制。象徴天皇制を広い意味に取りまして、そういうふうに名づけてみたいです。18~19 世紀からイギリスで君臨すれど統治せずということが言われているんですが、そういうのは実は日本が先輩で、はるかに以前から、そういうことでは日本の方が制度化されていたんだということが、私が一番言いたいことでございます。 (今谷明ーー第1回「皇室制度に関する有識者ヒアリング」2012年、PDF)


――近著では、戦後憲法の先行形態は明治憲法ではなく「徳川の国制」と指摘していますね。


柄谷行人:徳川時代には、成文法ではないけれども、憲法(国制)がありました。その一つは、軍事力の放棄です。それによって、後醍醐天皇が『王政復古』をとなえた14世紀以後つづいた戦乱の時代を終わらせた。それが『徳川の平和(パクストクガワーナ)』と呼ばれるものです。それは、ある意味で9条の先行形態です。〔・・・〕


もう一つ、徳川は天皇を丁重にまつりあげて、政治から分離してしまった。これは憲法1条、象徴天皇制の先行形態です。徳川体制を否定した明治維新以後、70年あまり、日本人は経済的・軍事的に猛進してきたのですが、戦後、徳川の『国制』が回帰した。9条が日本に根深く定着した理由もそこにあります。その意味では、日本の伝統的な『文化』ですね。
「9条の根源 哲学者・柄谷行人さん」(朝日新聞 2016年6月14日)



天皇制ボロメオの環として示せばこうなる。


天皇制廃止を言うなら、最低限このどれをも視界に入れて語らないとな。で、土台は宗教だ。しばしば語られてきたアニミズムと言ってもよいがね。

いま見たら、同志社大学教授の原誠氏も2011年にこう言ってるようだがね、《(天皇制は)日本の文化や習俗や宗教、農業、農村、共同体、法または憲法や民族、軍事、規範、倫理など全体を包括するいわばシンドロームのようなものではないか。〔・・・〕天皇制の根底にはアニミズムを背景とした日本の文化や共同体があり、その上に天皇制が成立し、それが未整理のまま今日に至っている。》

さすがに浅田彰は、実際に、天皇制イデオロギーだけではなく、象徴天皇制も、さらには、宗教としての天皇制も視界に入れつつーー《天皇家が、ある種の宗教的・文化的伝統の保持者として存続する(それこそいわゆる「人間国宝」として)というシナリオも、考えられなくはない。》ーー、天皇制廃止論を語っている。


……私はもちろん天皇制も元号も廃止すべきだと考えている。理由はきわめて単純で、近代民主主義国家はすべての国民が生まれつき平等であるという原則に基づいているのだから、ある一族のメンバーが世襲で元首に――あるいは元首でないにせよ「象徴」になるというのはおかしい。むろん、世界には民主主義国家でありながら立憲君主制を残している国も多いが、君主の名の下に行った戦争の結果として国が危うくなるほどの敗北を喫した場合は、第一次世界大戦後のドイツのように君主が退位し君主制から共和制に替わるのが当たり前だろう。そのときのドイツ以上の壊滅的敗北を喫した第二次世界大戦後の日本でも、天皇制廃止を求める声は左翼を中心にかなりの広がりを見せたし、右翼の側でも天皇制の存続(「国体の護持」)のためにこそ昭和天皇は戦争の責任をとって退位すべきだという議論があった。それが実現しなかった原因はいろいろあるが、最大の要因はアメリカを中心とする占領軍の意向だろう。日本に負けるおそれはまったく感じていなかったものの、日本軍の自殺攻撃に最後まで悩まされたアメリカは、敗戦後の日本の徹底的な武装解除のため戦争放棄・戦力不保持を定めた「平和憲法」を押し付ける(そして、ジョン・ダワーの表現を借りるなら、「敗北を抱きしめた」日本国民は押し付けられた「平和憲法」をも「抱きしめる」ことになる)と同時に、日本国民を宥めるため、また来るべき冷戦において日本が社会主義圏に接近するのを防ぐために、連合国のいくつかの反対にもかかわらず、昭和天皇と天皇制を温存することにした(この深慮遠謀に比べ、イラク戦争のとき独裁者サダム・フセイン大統領を倒せばイラク国民から解放者として歓迎されるだろうと思い込み、結果、占領後も自爆テロに悩まされることになった現在のアメリカの知的劣化は、目を覆うべきものだ)。つまり、「平和憲法」がアメリカに押し付けられたものだと言うのなら、「昭和天皇退位なしの天皇制存続」もまたアメリカに押し付けられたものだと言うべきなのだ。とはいえ、自由民主党が、戦争放棄・戦力不保持を定めた憲法9条の「改正」を狙っている中で、天皇制廃止のための改憲(1章の削除と書き換え)を提起するのは藪蛇であり、政治的に愚かであろう。したがって、原理的・長期的には日本も天皇制を廃止して共和国(アメリカやフランスより、さしずめドイツやイタリアのような大統領制にすれば、良かれ悪しかれ現状とそう変わらないのではないか)になるべきだけれど、実際的・短期的には9条改憲を阻止するため護憲の立場を取った方がいいというのが、私が高校時代にたどり着いた「大人の妥協」だった。しかし、明らかに9条に違反する自衛隊が国外でもさまざまな活動を展開するところまで来た現在、こうした妥協的護憲主義は限界に来ていると言うべきだろう。だとすれば、1章改憲と天皇制廃止をあらためて議題とする必要があるというのが、現在の私の意見である。


誤解を避けるために付け加えれば、天皇制への批判と天皇への批判は別だ。平成天皇(という呼称の方が明仁よりわかりやすいのでここではこの呼称を採用する。徳仁についても同様。ただこれはあくまで便宜上の判断で、「平成天皇・令和天皇というのは死後につけられる諡号だから生前に使うべきではない」という形式主義にまでは付き合わない)が、自然災害のたび被災者を慰問するとともに、父・昭和天皇の名で戦われた戦争の犠牲者(外国人も含む)のため、沖縄のひめゆりの塔(皇太子時代に昭和天皇の名代として初めて訪れ、過激派から火炎瓶を投げつけられたが動じなかった)からサイパンのバンザイ・クリフにいたる激戦地をめぐって「慰霊の旅」を続けてきたことは、国内外の多くの人々が高く評価するところであり、その点では私も例外ではない。実際、平成天皇の平和主義はかなり徹底したものだ。〔・・・〕


もうひとつの誤解を避けるためにさらに付け加えれば、天皇制廃止といっても、フランス革命のようなことを考えているわけではもちろんない(たとえば1918年にドイツ皇帝の座を降りたヴィルヘルム2世は1941年に死ぬまでオランダで暮らした――ドイツ国内の帝政復古派を支援し続けた往生際の悪さは褒められたものではないけれど)。天皇家が、ある種の宗教的・文化的伝統の保持者として存続する(それこそいわゆる「人間国宝」として)というシナリオも、考えられなくはない。(ちなみに、ナショナリストとして「美しい国」を目指すと言いながら天皇家の伝統を蔑ろにする安倍政権に対し、アイロニカルに天皇主義者を演じてみせる磯崎新によれば、平成天皇の即位式と大嘗祭をはじめて東京で行ったことがすでに伝統の破壊なのだが、譲位のあと上皇が赤坂の元・東宮御所に戻るというのも順序が逆なので、さしずめ幕府の専横に抗議して退位した後水尾上皇の例に倣って京都の仙洞御所を改築し、さらには修学院離宮に代えて沖縄北部の美しい岬にある奥間レスト・センターをアメリカ軍から返還させ海洋生物研究施設を併設した沖縄離宮をつくる手もある、という[「連載・デミウルゴス 第2~3回 見取り図(2~3)」、『現代思想』2019年5~6月号]。なお、敗戦で昭和天皇の退位が検討されたときは、京都の仁和寺が隠居所として想定されていた――ということは出家して法皇になるシナリオだったのだろうか。)


別の角度から言うと、天皇制廃止は、むしろ、皇族解放(奴隷解放や被差別部落解放にならって言えば)――皇族に一般人並みの人権を与えることに他ならない。端的な例を挙げるなら、キャリア外交官として活躍していた小和田雅子が皇太子(後の令和天皇)と結婚して皇室に入って以来、長らく「適応障害」に苦しんできたことはよく知られている――というか、病名を含むプライヴァシーまで全国民の眼に晒されるということ自体、重要な地位にある公人でなければ普通は考えられないことだ。秋篠宮(新たに皇嗣となった)の長女の結婚問題にしても同様である。いや、時代が時代だけに比較にならないほどの覚悟をもって皇室に嫁いだ正田美智子さえ、感嘆すべき忍耐をもって、皇太子、そして天皇となった夫を総じて見事に支えてきたものの、「平民」からの入内に拒否感をもつ守旧派から長年バッシングを受けたと言われ、1963年に流産のあと3か月ほど一人で静養することを余儀無くされるとか、1993年から翌年にかけて精神的苦痛から声が出せなくなるとか、幾度かの深刻な危機を乗り越えてきたことを忘れてはならない。彼女らを含む皇族にも、一般人と同じ自由とプライヴァシーが与えられるべきなのだ。(新たな皇后に関しては、ストレスが増しても精神状態が悪化しないよう祈るばかりだが、それにしても「皇室外交」の最初の国賓がドナルド・トランプというのだから、運が悪いと言うほかはない。)
(浅田彰「昭和の終わり、平成の終わり」2019年05月01日)

どうだい、そこのキミ? 天皇制廃止論に異様に熱中しているようだが、ま、頭が良過ぎる浅田ほどじゃなくていいから、ーー柄谷が「浅田彰は宇宙人」と言っているぐらいでね、《浅田君の能力はすさまじいよ。…彼は普通の人ではない。人間育ちだけど、ほんとは宇宙人(笑)。彼に比べると、僕は普通人だと思うね。彼は、哲学や思想はもちろん、音楽や芸術、国内政治から世界情勢にまで精通していたし、英語・フランス語の能力もずば抜けていた。外国の出版物なんかにもさらりと目を通してしてしまうから、日本のメディアを通じて把握する人たちとは違っていた。しかし、そのことをひけらかすようなところは全くなくて、むしろ抑えているんだけど、隠せない。》(「宇宙人」との共同作業 危機の時代に立ち上げた「批評空間」:私の謎 柄谷行人回想録⑲ 2024.10.15)ーーとはいえせめて三つの環ぐらいは視界に入れつつ語ってみたら?

浅田は大江健三郎の対談で「謙遜して」こう言ってたがね、《明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまって、ギリギリのところで書いていきたい》と。



浅田:批評的立場を選んだからには、徹底して明晰であろうとすべきでしょう。僕は奇妙な形で文学にひかれています。妙に小器用で、他のジャンルのことはよく分かったような気がするのに、文学はどうしても隅々まで理解できない。ただ、そういう不可解なものを語るとき、それをまねるのではなく、明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまって、ギリギリのところで書いていきたい。それが、自分にとって本当に分からないものの発見につながると思っていますから。


大江:浅田さんには「自分は単なる明晰にすぎない」という、つつましい自己規定があるんですね。明晰な判断力ではとらえきれないものがあって、それは明晰さより上のレベルだと思っていられる。天才というようなものが働くレベルというか。文学というあいまいな場所で生きている人間からすると、上等な誤解を受けている気がします・・・・・・(笑い)。


浅田:ところが不思議な転倒現象があるんです。戦後の文学界で最も明晰なのは三島由紀夫であり、明晰であるべき批評家たちが不透明に情念を語ることに終始したんですね。三島は、最初から作品の終わりが見え、そこから計算しつくされたやり方で作品を組み立てて、きらびやかであるだけいっそう空虚な言葉の結晶を残した。他方、小林秀雄の亜流の批評家たちは、作品をダシにおのれを語るばかりだった。二重の貧困です。(平成2年5月1日朝日新聞夕刊  対談 大江健三郎&浅田彰)

この意味で、浅田彰は宗教にはいささか弱いんだーー《宗教は教典、戒律、儀礼だけから成るものではない。言葉と儀式を包む雰囲気的とでもいうか、言葉にならない、あるいは言葉を超えた何ものかに包まれて初めて宗教であると私は思う。》(中井久夫「日本人の宗教」2007年) つまり宗教は《明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土》の彼岸にあるものだから。

ちなみに浅田彰は吉本隆明が大嫌いなんだ、特に先に掲げた「金魚すくい」の吉本なんて内輪で悪口雑言してる筈だよ、ーー《天皇を政治的な立場から外せば天皇制という仕組みがなくなると単純に思っているひとがいるが、僕はそうは思っていない。僕らが縁日で金魚すくいをやっている限りは、神道の名残は残ると思っています。それと同じように天皇の名残も残り続けるのです。縁日に行って神社に露店が無くなったときに初めて、日本の神道がなくなるように原始からの何層もの積み重ねが現代の日本を形作っているのです。》(吉本隆明『真贋』2007年)

で、僕はどっちかというと金魚すくい派なんだ。アシカラズ。

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抜粋終わり

ようするに、「天皇」を西門豹すれば、いいわけですは。。

西門豹はまず地元の農民たちを集め、どんな苦難があるか聞いた。当時鄴では地元に伝わる迷信で、毎年河に住む神(河伯)に差し出すため、若い女性と多大な財産を巫女や三老と言われる長老や儀式を管理していた役人に差し出し、それらを河に沈めるという人身御供の儀式がしきたりとなっていた。これにより集められた金銭は膨大なもので、民衆の生活が困窮するほどであったが、儀式に使われるのは1割も無いほどで、残りのほとんど全部は巫女たちが山分けしていた。また年頃の娘がいる家は逃げ出し、その田畑は荒れ放題となっていた。これを聞いた西門豹は「横取りされているのがわかっているならば、やめればよいではないか」といったが、農民たちは「そのような事をしたら河の神のお怒り(=洪水)を買ってしまいます」と恐れた。西門豹は「なるほど。私は来たばかりなので知らなかった。ではその儀式を行う時に教えてくれ」と言い、農民たちは帰っていった。

しかし、実は西門豹は巫女・三老・役人が迷信に付け込み肥え太り、農民たちが困窮したので土地が枯れたと考えた。さらに灌漑が必要だが、迷信ある限り河に手を付けられないと判断し、まずはこの一掃に着手する事にしたのである。

儀式が行われる日、河辺には巫女達と2、3000人の見物人がいた。そこへ西門豹は見学したいと護衛の兵士を伴って参加し、「河の神の嫁というのを見せてもらおう。美しいか確かめたい」といって生贄の女性を連れてこさせた。しかしそれを見るや「これでは器量が悪すぎる。『もっと良い娘を連れて参りますのでお待ちください』と河の神にお伝えなされよ」と言い、「お怒りを買わぬためにも、使者には最も河の神と親しい者がよかろう」と巫女の老婆を河に沈めた。しばらくして「巫女が帰ってこない。様子を見てこられよ」と言い、弟子の女性たちを1人、2人と河に沈めた。さらに「弟子たちも帰ってこない。女では河の神への願いが難航しているようなので、次いで河の神に貢献している三老に手助けをお願いしよう」と言い三老を河に沈めた。あまりの事に誰もが唖然としていたが、一人西門豹だけは恭しく、河の神がそこにいるかのようであった。

さらにしばらくして「おかしい、三老も帰ってこない。さらに次いでとなると、多額の金銭を集めた役人であろうか」と役人たちを沈めようとしたが、役人たちは「その任は何卒お許しください」と平伏して詫びた。その顔色は血の気が引きすぎて土のような色で、額を地面に打ちすぎて流血するほどであった。西門豹はしばらく待った後、「どうやら河の神は客をもてなして帰さないようだ。皆も帰るがよい。もし誰かが儀式をやりたいならば、私に話すがよい」と言った。役人も民衆も度肝を抜かれ、これ以降生贄の儀式は行われなくなった。西門豹は河の神を信じている風にして、儀式の中心人物を反論できなくしたまま一掃し、迷信も一掃したのである。この結果、貢物を搾り取られなくなった民衆は貧しさに苦しまずに済み、年頃の娘がいる家は逃げなくなり、役人も民衆も西門豹の言う事に従うようになったのである。



生きている「天皇」とかほざくペテン師どもを皆殺しにして、「天皇」という形而上の存在を「中核」にする。

てことだ。

なんせ「天皇」を「社会上・政治上の役割」を規定しそれを順守させないといけない。中華皇帝や朝鮮王も、アメリカの大統領も、そういう「規定」があってそれを人々に承認されて存在している。

なら「天皇に仕える一族の天皇家」~で当主の仮称を「天皇」として、「天皇」に仕えれない「人間の天皇」は、廃位・放伐する。ってのが、正常な「天皇」の存続方法かもしれない。

でも今の「天皇とその一党」がそれを許容できるかね。。

「天皇は神聖不可侵」が「微妙に生き延びている」のだしね。。。
皇位の継承など、全国民が口出しすべきこと{狄仁傑 ウイキ }を「黙れ」などいう状況~「{天皇}がその祭祀だけの職務が限定され、それで信賞必罰が国家&形而上の天皇・から下される存在」であれば、そんなことは起きない~では、「政治の失態」「上級国民の不始末」を全部もみ消せる「天皇」ってジョーカーを捨てるはずもない。。
少なくとも前の敗戦の戦争責任も「処刑」とかないが「今の皇統はアウト」になるのは必至だしね。その「裕仁の戦争責任からの脱走」で処罰を免れた連中への処遇も当然に見直される~戦後日本、下手したら、明治以降の日本のセレブどもの~の粛正も当然に。
今の根性なしのサル化した似非知識人には不可能だよな。

「天皇」を処理できないから、日本人が死滅する。「決めるべきモノ」を決めず、考えない・・て「天皇」の歴史そのものだ・・・それで日本人が消え去る。別段可笑しな話ではない。あり得る普通の話である。

天皇を根絶して 日本人を救う

天皇のない 蒼い空を取り戻す

慈悲と哀れみに富み社会になります

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