2024,8,17「わたしのためのカラダの時間」より
水が落下する音、流れる音が、どうカラダに響くか?試してみたい、、、、などと頭で考えて、WS前日の夕方、近くの高野川や疎水に録音に出かけた。
(ちょうど、その夜は五山送り火だったので、3時間も前から川沿いを散歩する人たちにすれ違った。)
しかし、
スマホで録音した音を再生すると、実際に現場で体感した音とは、かけ離れていた。
車の騒音のようだったり、何かモノをざーーざーと引きずり続けるようだったり、、、、。テレビや映画での録音や音響技術は凄いんだな、と実感。 なので、このワークの時間に実験したかったことは、出来ずだった。
その代わり、7月末に私が参加した広島での「ダンスdeピース」はどうだったのか?何やったのか?という話になり、少し説明した。
絵本「おかあさんのいのり」(武鹿悦子・さく、江頭路子・え)を元に構成演出が準備されていたのだが、その中で、2ページ分、参加者それぞれが希望するシーンをグループごとに考えたこと。その時、私にとっては初めて出会ったプロセスがあった。それは、あるページを読んでそこからチーム(3人チームだった)内で話し合い「テーマ」を読み取り、それA4の紙の真ん中に枠で囲んで書く。例えば「怒り」とか「怒りのメッセージ」とか。そして、そのテーマのまわりに、具体的な絵本からのコトバや自分のコトバや動きのイメージなどを書き出していき、それをチームの共通のベースとして、ダンスの構成や動きを考えていくという方法。踊りを作る前に、言語化する作業を(頭で)やってから、動きに変換していく、という順番になるのだろうか。全体の参加者は23名だったが、地元広島で普段からそのグループで活動している人たちには、きっとなじみのあるプロセスなんだろうを感じられた。
そのことについて、このWSで話した中で、例えば戦争に対する「怒り」を表すことについて、どうなんだ?、と。
怒りを表す、例えば拳(こぶし)を握りしめて突き出し、それを自分の胸元に戻す、とか、とか、、、、。
踊る側にとっては、たとえば、舞台か何かで「演じてみて」と言われたら、その通りのストレートな自分から出る動きなのかもしれない。ただ、それをやって観客(このパフォーマンスの場合、30名位のお客さんが見に来られたいた)に伝えられるのか?ということ。
私が即興部分でやったこと(これしか出て来ない、やれない、というのが事実だが)。昨年10月末から毎週土曜に続いている「イスラエルの暴力へ抗議する京都デモ」に参加する中で、自分に何が出来るのか?と考えた中で、イスラム式の子供の仮の遺体を白い布で包んだオブジェを掲げて歩くことだった。広島に一体持って行っていたが、絵本に沿うかどうか?ということで、現物は出さなかったが、その小さな白い包みを抱いて右往左往する、ということをやっていた。「怒り以前」しか出来ない。
パフォーマンスという一種の「額縁」に入ったもの?を提示することはできるけど、それはどうなのか???
などなど、いろいろなダンス(だけではないけど)のあり方が、問われたり試行錯誤されている、と感じた時間。
広島でのイベントのラストプログラムは、参加者とお客さんとの盆ダンスだった。
(ごしま)