2024,9,21「わたしのためのカラダの時間」より byスズキ
「百年芸能祭(※)のテーマに沿って、なにかやりたいと思い、自分にとっての一つの切り口になりそうな話をした。
芸能祭の一環というと、「何かが起きて○○年」の記念みたいなことになりがちだが、その時だけのことでなく、ただ普通に生活している自分の人生の身近にあるものとしてやらないと意味がないと思っている。
「日本人」であることに疑いを持たなかった自分は、ある種の「多数派」であり(よくよく考えると、「日本人」という定義も何を指すのかわからなくなってくるが)、虐殺の対象にされた「少数派」の人々に意識して注意を向けない限り、虐殺や差別は見えない。
この日は、どういうところから意識を向けるかの一つとして、自分の生まれ育った場所、暮らしてきた場所にまつわることを、資料(「九月、東京の路上で」 加藤直樹 著)も持参して、ごしまさんと黒子さんに聞いてもらった。
この芸能祭のそもそものテーマ、関東大震災時の朝鮮人虐殺のきっかけになった、「朝鮮人が亀戸の井戸に毒を入れた」というデマがある。
東京都江東区亀戸は、私が生まれてから30年ほど住んでいた団地から約1㎞。地下鉄ができるまでは、JR亀戸が最寄り駅で、高校時代は、毎日この駅から電車に乗って通学していた。
また、だいぶ後には、別の虐殺現場である、世田谷区の烏山神社近くにも住んでいた事があった。
しかし、どちらの場所でも、目に立つ虐殺の碑などはなく、小・中学時代にも、ただ通り一遍に教科書の中の記述として読み飛ばしただけで、現実として、たった数十年前に、自分の住んでいるまさにその場所で起きたのだ、という事にはまったく意識が向かず、また、向けられずに来た。(調べてみたら、亀戸だけでなく、住んでいた団地の隣、もしくは敷地内と思えるような所でも虐殺があった)
なぜそうなのか、それがどういうことなのか、いまさらだが、改めて考えている。そして、偶然、亀戸にも、世田谷にも、オウム真理教の施設があり、サリン事件や弁護士一家殺害事件について、宗教団体解散後、信者が集う施設が来ることへの住民反対運動などについても、人が何かを信じること、信じることで何ができるのか、何をしてしまうのか、百年を待たずに起きた二つの出来事がどこか繋がっている気がして、そんなことも少し話した。
(スズキ)
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※ 百年芸能祭とは?
https://yuyantan-books.jimdofree.com/ より
「百年芸能祭」
2023年9月に関東大震災百周年を迎えることを契機として立ち上げられた、日本の各地で大小さまざまに繰り広げられる「鎮魂」と「予祝」の芸能祭です。
震災時に起きたこの社会の少数者に対する虐殺、迫害は、私たちが生きるこの近代社会の命に対するあり方を象徴するものでもあります。
関東大震災以前も以降も、沖縄でも、水俣でも、東日本大震災の復興過程でも、福島でも、ハンセン病者や障がい者や社会的弱者に対しても、近代国家の価値観によって、命の選別が行なわれていることを私たちはもう十分に知っています。これまでの百年の間、周縁に追いやられ、踏みにじられ、つながりを断ち切られ、消されていったすべての命に祈りを捧げ、これからの百年が生きと生けるすべての命が豊かにつながり合い、命が命であるというそのことだけで尊ばれる世界となることを予祝する、そんな芸能の場を、「百年芸能祭」の名のもとに開いていきます。
この芸能祭は、とりあえず、2123年まで続く予定です。
みなで歌い語り踊って、その声と音でこの世界を震わせてやること。
閉塞した世界のあちこちにそうやって穴を開けてゆくこと。
それ自体が鎮魂の祈りとなり、予祝となること。
めざしているのは、そういうことです。
理不尽な力に押さえ込まれて、みずからの声も音も歌も失くしてしまった命が、生きて、つながって、声を取り戻し、理不尽を突き抜けて新たな百年へと出発すること。それが大事。
「百年芸能祭」は、言い出しっぺの「百年芸能祭 関西実行委員会」の企画によるものだけでなく、同じ想いを抱く方々が、さまざまな形、さまざまな場所で、たった一人でも、自由に立ち上げてくださることも願っています。
これまでの百年を越えて生きてゆく「いのち」のために、それぞれの場所で、祈りと予祝の芸能の場が開かれて、それがだんだんと増殖して、この世にはびこりますように。
みなさま、よろしく。 by 百年芸能祭 関西実行委員
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