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夏目漱石『抗夫』感想 高等遊民と底辺バイト

抗夫と先ずはパソコンで変換をかけると、甲府から始まり、交付などが出てきて抗夫にたどり着くまでしばらくの間、時間がかかった。
広辞苑に従うと、炭山、鉱山の採掘に従う労働者という記述がある。
さらにWikipediaで閲覧すると、1908年(明治41年)大阪朝日新聞で連載された長編小説と確認できる。

作品中場所は提示されていないが、足尾銅山が舞台とされている。
4年前にに日露戦争が終結して、4年後に明治から大正へと時代が変化するまで期間に小説は書かれている。以下に簡単なあらすじを書くと…

出奔した裕福な主人公が茶屋でポン引きと出会い、途中で赤毛布の男、小僧も伴って、鉱山にやって来る、19才の主人公の出奔の直接な原因は、詳らかにはされないが、艶子と澄江と云う2人の女性問題で自死を思い詰める…
抗夫頭に引き渡され、自分とは違う、労働者の群れの中で、絶望するが、安さんと云う自身の身の上に近い抗夫に出会い、金銭を溜めて鉱山を後にする事を決意するも、抗夫向けの健診で気管支に異常が見られ飯場の記帳係となり、下山する。

一人称で描かれているので、全体的に奥行きがなく、新聞小説のためか、明らかに文字数を稼いでいる箇所もあり、読み進むに従って呻吟する場面もあるが、漱石個人の生の声を作品に聴く事ができる。「道草」を楽しめるひとには、良い作品だと思う。「道草」では近代(西洋)に対するアンチテーゼが見られるものの、生活を肯定する明瞭なトーンがあるが、「抗夫」にはそれが、無い。但し、19才の主人公の改悛がある。気管支を患ったのちに見せる。労働者達への哀れみや魅力的に見えたタンポポの花が、みすぼらしく見えるとある描写に漱石なりの教養小説の完成をみる。


さて、ここからが、個人的な感想になるが、あえて、一人称にしたことでリアリズムの解像度が上がったこと、それと小説のなかで、話者が小説である旨を強調することで一種のメタフィクションになっている。赤毛布と小僧が参加してからの旅程に内容の半分が費やされている。
「もし死んでから地獄へでも行くような事があったら、人のいない地獄よりも、必ず鬼のいる地獄を択ぶだろう」 前半はジョン・バニヤンの「天路歴程」に筋書きがよく似ている。しかし、その後、赤毛布と小僧とも別れて鉱山のなかで、人のいない地獄を彷徨うこの箇所は、ダンテの「新曲」に似ている。


「平生なら泊まりたい、泊まりたいですべての内蔵が張切れそうになるはずだのに、没自我の抗夫行きすなわち自滅の前座としての堕落と諦めをつけた上の疲労だから、いくら身体に泊まる必要があっても、身体の方から魂へ宛てて宿泊の件を請求していなかった」
この19才の主人公は地獄を通り抜け、見事なまでに自我を放擲して東京へ帰る。この19才の主人公の隠喩は近代に踏み出した自我を発見した、日本人かも知れない。魔の山のハンス・カストルプは結核を患い戦火に散ってしまうが、抗夫の主人公は肺病を患ったのち、どんな人生を送ったのだろうか?
案外、その後の体制側について安寧な一生を送ったのではないか…
最後の文章から、容易にカタルシスを与えてくれない読者に対しての意趣返しが待っている。

自分が抗夫についての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分かる」


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