見出し画像

田中一村を読む人々

上野に田中一村を鑑賞しに行った。

だが、ゆったり鑑賞できる環境ではなかった。

すごい数の人々がつめかけており、
入場券を買うのに行列。

入場するのに行列。

空きロッカーを獲得するのに競争。

そして、会場に入ったはいいが、
視野の70%は、絵ではなく、人々の背中で埋め尽くされる。

私はせっかちなので、
遅々として進まない黒山の人だかりに身を投じる事ができない。

ばんばん飛ばして行く。

特に人だまりができるのは、
各コーナーの入口にある文字のパネル前だ。

鑑賞に深みを与えるいい事が書いてあるに違いないが、
絵ならまだしも、文字を
何重にもなった人々の背中越しに読む気にならない。

ばんばん飛ばして行く。

しかし、ふと思ったが、
これではただのウォーキングではないか。

美術館内である必要もないし、
田中一村である必要もない。
外の上野公園で十分だ。

少し反省して、ペースを落とす。
田中一村が好きだから来たのだ。

しかし、その後に発見したのは、
作品の新しい魅力ではなく、
人々の行動パターンだった。

多くの人は、絵に付いているタイトルや説明を読んでいるが、
観察していると、絵そのものよりも、
その文字を読んでいる時間が長い。

文をしっかり読んでから、
絵を一瞥して、次へ進む。

どっちがメインだ?

しかし、かくいう私も、絵よりも
文字を読む人々を見ているのだから、
同類だ。
いや、同類か?

そして、さらに気付いたのは、
「これカラーかしら」とか
「これ、なんていう花かしら」という会話だった。

ひょっとして、
田中一村は植物画として見られているのか?
ここは植物園か?

だが、かくいう私も
構図の端に描かれた蝶に「アサギマダラだ!」と嬉々としているのだから同類だ。

しかし、今回の展示はすごいボリュームだった。

なにせ、初期から晩年まで、
しかもデッサンや習作、
未完成の作品まである。
さらには、襖絵から天井画まで、
帯に描いた柄や、根付などの彫物まで。

あの世で田中一村が、
えっそんなモノまで出しちゃうの⁈
…と、狼狽えている姿が見えるようだ。

今回、私が一番好きだったのは、
色紙大の小さな絵で
海岸線を歩く水牛の姿が遠景で描かれているものだった。
のどかで懐かしい感じがした。

タイトルを読んでいないので、
なんという絵かは、
知らない。

いいなと思ったら応援しよう!