東日本大震災の震災遺構を巡って ~南三陸町 旧防災対策庁舎~
今回投稿するのは、宮城県本吉郡(もとよしぐん)南三陸町にある旧防災対策庁舎です。
こちらは南三陸町が運営していた行政庁舎の一つで、1995年に当時の志津川町(しづがわちょう)にて建設されました。
※南三陸町は2005年に志津川町と歌津町(うたつちょう)が合併してできました。
1960年に発生したチリ地震による津波被害など、南三陸町は過去も津波の被害を受けていました。
それは町に面する志津川湾がリアス海岸の地形となっていることから、入り江に入り込んだ津波が勢いを増すおそれがある地形であることからもうかがうことができるものです。
町の津波防災の対策の一環として建設された防災対策庁舎は、海抜1.7メートルの地に鉄筋コンクリート造り3階建て、屋上の高さ12メートルという造りでした。
2011年3月11日(金)に発生した東日本大震災では、防災対策庁舎2階に対策本部を設置し、防災無線を通じて町の職員が避難を呼びかけました。
地震発生の14:46頃の直後に発令された警報(大津波警報)では、津波予想高は6メートルでした。
そのため、防災対策庁舎の屋上までの高さが12メートルであることを踏まえれば庁舎から離れなくとも安全であると判断し、地域住民の方への避難を呼びかけつつも、多くの町の職員がその場に留まることとなります。
しかし、15:14頃、大津波警報の津波予想高は10メートル以上に引き上げられます。
職員も防災対策庁舎の屋上へ次々に避難を進めますが、迫りくる津波の存在を考えると、相当な焦りや不安、危機感を抱えていたのではないかと今でも想像できます。
そして、15:33頃のこと。志津川湾を超え、町を飲み込んだ津波は防災対策庁舎を襲います。その高さは15.5メートル。
防災対策庁舎屋上を超える高さにも及んだことになります。
こうした被害により、屋上にいた町の職員や地域住民の方など、43名の方が犠牲になりました。
その一方で、屋上のアンテナにしがみついたり、外階段部分の手すりに挟まったり押し付けられたりして生存された方もいました。その中には町長も含まれていました。
防災対策庁舎は、建物の赤い鉄骨を残して、ほとんどのものが流されてしましました。
犠牲になられた方は、自らが命の危機に瀕しながらも、防災無線で最期まで避難を呼び掛け続けていた職員の方もいました。
また、生存された方は、津波で濡れた状態に加え、氷点下にもなる寒さと風の中、水や食糧もなくライフラインも途絶えるという極限の中、防災対策庁舎屋上にて身を寄せ合い一晩過ごすことになりました。
※翌日、無事救出されました。
震災後、町の復旧は進んでいく中、この旧防災対策庁舎を巡っては、震災遺構として保存するか、遺族や関係者の心情に配慮して解体するか結論が出ない状況でした。
一旦は南三陸町として解体の方針を打ち出しましが、宮城県の有識者会議にて保存の価値があるとして意見表明が示されます。
その後、宮城県が2015年から2031年まで暫定的に管理する形で保存する案を示された南三陸町は、町民の意見公募を経た上でこれを受け入れ、時間をかけて保存の是非を判断していくことになりました。
こうして宮城県が維持・管理する形となった旧防災対策庁舎でしたが、2020年には一帯が南三陸町震災復興祈念公園として整備され、鎮魂・慰霊の場として県内外からも多くの来訪者が訪れるようになりました。
そうした中、今年(2024年)3月に南三陸町は震災遺構として旧防災対策庁舎を保存・管理することを決定し、同年7月1日より宮城県より南三陸町へ所有権が戻されました。
旧防災対策庁舎は多くの犠牲者を出す悲しみの出来事となってしまいました。
津波の予想高がもう少し早く正確に情報として伝わっていれば、その場に留まることなく、より高くより遠くへ避難できたのではないかとも思いますが、当時の行政機能としての災害対応を考えた上では職員の方は簡単に庁舎から離れることはできなかったのではないかとも思われます。
また、津波予想高の情報はあくまで観測地点での目安であって、同じ地域であってもその予想高より高くなることは十分にありうるということも記憶に留めておきたいことでもあります。
自分の身を捧げてまでして職務に当たるのか、それとも自分の身の安全をまず確保してから職務に当たるべきなのか。
自分が当事者としてその場にいた場合、どちらを選ぶか、極限の選択にも思えてきます。また、当事者それぞれの家族や大切な人の存在もいることも忘れてはならないものです。
そしてもう一つ、旧防災対策庁舎の建物については、保存か解体かを巡って震災から13年を経て、今年7月に震災遺構として南三陸町による維持・管理が正式に決まりました。
東日本大震災では各地に震災遺構が整備されましたが、一方で遺族の心情等に配慮して保存を選択しなかった建物もあります。
しかし、保存か解体か意見が二分するような場合、どちらを選ぶか選択に迷うことも時に生じるでしょう。
遺族の心情は何よりも大事だし、同じ悲劇を起こさないために保存し後世に伝えていかなければならないという意見もよく分かります。
こうした場合、一旦判断を保留して、時間をかけて選択を探っていくという方法もあるのだということ。
南三陸町旧防災対策庁舎は、13年を経て保存という選択をしましたが、時を経て、考え方が変化したり深化したりしていくことがあるのだと示すものでもありました。
保存か解体か、どちらが正しいかといった正解はきっとないのだと思いますし、全員が納得のいく方法を取るのも簡単なことではないのだと思いますが、時間を丁寧にかけたことで一人でも多くの方が納得のいく結論を導くことのできる可能性があるということを胸に刻んでおきたいです。
最後は私個人の考えが長々と記述されてしまいましたが、お読みいただきましてありがとうございました。
参考文献等
・東日本大震災による被害の状況についてhttps://www.town.minamisanriku.miyagi.jp/index.cfm/17,181,21,html 南三陸町 2023年1月23日
・津波の脅威伝える旧防災対策庁舎と南三陸311メモリアル:さんさん商店街で海の恵みも実感
https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu900272/ nippon.com 2024年3月3日
・南三陸町防災庁舎、チリ地震を教訓に対策 想定の3倍の津波にのまれるhttps://kahoku.news/articles/20210222khn000016.html 河北新報 2021年2月22日
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