話数単位で選ぶ、2023年TVアニメ10選
TVアニメを「話数単位で」選ぶという方針は、どうしても、シリーズ全体としての好感のようなものを反映させにくい。映像的な突出に対する加点とはまた異なる、例えば「シリーズ構成」のようなポジションの仕事への言及もいきおい限定的なものになる。……言わずもがなのことを最初に書いたが、そういう理由で好きだった作品や、あるいはもっと漠然と「突出したクオリティを誇るというのとは違うけど、全体として何かすこく好ましい」みたいな作品は確かにあった。そして「TVアニメ」を評価するということは、本当はそういう、「時間とお金と人力をふんだんに投入したものではないが、限られた条件のなかでいい感じに語る力」を、きちんと評価することを抜きにはできないはずだ。
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■『機動戦士ガンダム 水星の魔女』 第12話
第12話 逃げ出すよりも 進むことを (1/8)
「逃げ出すよりも 進むことを」というサブタイトルに想像していた意味が、観終わったあとではまるで覆ってしまっている、そういうドライブ感の醍醐味というのは、考えてみると「劇場アニメ」ではなく「TVアニメ」の醍醐味といえるものだよなあ。
アバンのプロスペラのつぶやきを聴いたとき、彼女が「母親としての碇ゲンドウ」であることを改めて思う。そしてゲンドウがシンジをエヴァに乗せる方法と、プロスペラがスレッタをエアリアルに乗せる方法の差異は、両者を隔てている時間以上の、大きな意味をもつ。いわば「ゲンドウ的な父親」としてのデリングとそれに反抗するミオリネという父娘の側が、プロスペラとスレッタという「水星の魔女母娘」のありように向けた眼差しが、この12話のラストでスレッタに向けられたミオリネの眼差しであるような、そういう視座もありうるよなあ、とか。
あと、ここで一旦区切りになったことで奇しくも、『水星の魔女』という物語が、「PROLOGUE」とこの12話でちょうど円環を形づくるような構成になっていて、「悲劇」としての逃げ場のなさのようなもの、その円環に閉じ込められてしまっているような感覚をもたらしていて、素晴しいとしかいいようがない。そして、その円環を招き入れている力は、それは能登麻美子の、あの「声」なのではないか? 説得力という言葉を超えた、やさしげな呪詛のような、あの言葉ではないのか?
そうしたわけで、私にとっての2023年のTVアニメは、いわば能登麻美子の声によって始められたのだった。
■『とんでもスキルで 異世界放浪メシ』 第5話
第五話「風の女神は甘味がお好き」 (2/8)
第一話における、異世界召喚という非日常への葛藤なり屈託なりが一切ない振り切れた事態の進行ぶりに、「異世界もの」というジャンルがすっかり人口に膾炙して、その変化球をほうっても受け入れられるフェーズになったことを痛感する。この『とんスキ』のみならず、そういう話がてきめんに多くなった。
異世界で旨いものを食わせる系の先輩格のひとつである『異世界食堂』と同じく、「旨いものを作って食う幸せを描く、他に何も起きない、何もしない」を最後の最後まで貫いたシリーズ構成の潔さと、だからこその圧倒的な調理の描写力。MAPPAの、ビジュアル達成における〝とんでもスキル〟で、「旨い」が世界も種族も超えてもたらす幸福感を夾雑物なしに描ききった。5話を選んだ理由は、他の話数にもまして、ほんとに「ものを食ってうまいうまい言う」以外のことが起きない話だと思うからです。
■『便利屋 斎藤さん、 異世界に行く』 第8話
戦いで 得たものは? (2/26)
「異世界もの」というジャンルがすっかり周知され、今もってそこにカテゴライズされる作品が日々新しく生まれているからこそ、その膨大な類似作品のなかで観客をひきつける要素の有無が、いっそう目立って見えてくる。ギャグとシリアスの並走する感覚を、語り手が都度入れ替わる断片化した構成によって進めていく『斎藤さん』の語り口は、今年の「異世界もの」のなかで白眉のひとつだった。
誰の目線かによって、喜劇であったり悲劇であったりする出来事。とぼけた王様は同時に、非情な判断を下す元勇者でもあり、さらにその向こう側に温情を隠し持ってもいる。入り組んだ構造とも思えるのに、それを飛び越えて、まっすぐ感情移入できる本作の語り口は(原作から来る要素であるにせよそうでないにせよ)、その構成力において素晴しい仕事だと思われた。
■『お兄ちゃんは おしまい!』 第10話
#10 まひろとおっぱいとアイデンティティ (3/9)
見事なOP/EDに集約されている「フェティシズム」への注力ぶりが、同時に本編内容への導入にもなっている。まさに看板に偽りなしの素晴しさで、そしてその動きのクオリティで描写するのが「こういう内容」の話だというのが、これぞ「TVアニメ」の真骨頂という感じがする。
金を支払って観に行く劇場作品や購入するOVAではない、テレビ放映という媒体であるからこそ、「出会ってしまった」という遭遇体験がもっとも多く起きるのは「TVアニメ」においてなのだと思う。この10話を観ながら、同級生の男の子たちの性癖がいくぶん歪んでしまったのではないかと心配してしまうが、テレビの前にも、思春期未満でうっかり『おにまい』に出会ってしまったことで性癖に影響を受けた誰かがいるかもしれない……みたいなことを想像してしまった。特定の作品が己の性癖を決定づけること。TVアニメはそんな体験にもなりうる。
■『僕のヒーローアカデミア [第6期]』 第137話
未成年の主張 (3/18)
『ヒロアカ』が今、こんなふうな世界のあちこちで読まれ、視聴されていることは、本当に重要なことだと思っていて、その理由の、少なくともそのひとつが、このエピソードには横溢している。「個人」と「仲間」と「大衆」が、互いにもし軋轢を起こしてしまうようなときに、どう行動すればよいのか? もちろん正解はない。だからこそ、フィクションの形で、我々の代わりに、キャラクターたちがそれを実践しているのだと思う。彼らは成功したり失敗したりして、読者や観客はそれを読み、観る。ウラビティが拡声器で、暴動寸前の大衆に対して何を語ったか。それがこんなふうな世界のあちこちで読まれ、視聴されていることは――大事なことなのでもういちど書くけど――本当に重要なことだ。ウラビティの、作者の、アニメスタッフの、その「声」がすみずみにまで響きまくっている、すごい強度の一本。
素晴しいという一言では到底片付けられない素晴しいアクション作画を含んだ、他のエピソードも悩みどころだったが、観ていて感情が決壊しそうになる本話をやはり、選ぶことにしました。
■『【推しの子】』 第7話
第七話 バズ (5/24)
『【推しの子】』というアニメの個人的な印象は〝「人気商売の世界を舞台にした復讐劇」という生臭い素材を、その生臭さを活かしながらどう料理するか〟というトライアルというものだった。入江泰浩絵コンテ・演出による第7話は、その到達点をすごい高さまで押し上げたエピソードになったと思う。
アニメ的な誇張や強調を、異様に生々しいリアリティをもって描写してみせた7話の幕切れを観たとき「さすが『エイリアン9』の入江泰浩監督だ」みたいな感想が浮かんだりしたのだけれど、あの作品ももう22年前になるのか。でもその時間を超えて尚、『エイリアン9』の記憶は生々しい。アニメにおける「記号」と「描写」の同時進行がどんなふうに語りを操作するかという手練手管を堪能した。
■『ONE PIECE』 第1071話
ルフィの最高地点 到達!〝ギア5〟 (8/6)
先日幕を閉じた「ワノ国編」は、きわめて高いアベレージをキープし続けたシリーズだった。とりわけ最後の1年となった今年は素晴しいエピソードがいくつも思い浮かぶなかで、どの話数を選ぶか。すさまじい作画でギア5発動を描き国内外の話題をさらった翌1072話なども当然候補にあがりつつ、やはりこの話数を選ばないわけにはいかない。『ONE PIECE』1071話、自分としては、今年のTVアニメでもし1本だけ選ぶとしたら、2023年はこの1本になる。
ルフィの復活とカイドウ戦の再開、という軸を中心に、他の一味や仲間の状況、果ては遠くマリージョアの会議までが小刻みに挿入されていくとき、その全ての場面が、復活しつつあるルフィが鳴らしているサンバのようなリズムによって編集されている。エピソードの全てが、その祝祭感にあふれたルフィのリズムに飲み込まれていくような、まるでギア5の覚醒が物語世界の全体に満遍なく行き渡るような、開放と陶酔の感覚。長峯達也(シリーズディレクター3名のうちの1人でもある)による演出設計が、ボルテージを最大限に高めている。
そして「ニカ」として立ち上がったルフィの、己のみならず相手をも強引にカートゥーンのルールの世界に引きずり込むような「ふざけた能力」を、実際にカートゥーン調の作画で描写することの圧倒的な説得力。飛び出る目玉、伸び縮みする体、絨毯のようにめくれていく地面……。これはアニメーションになって初めて完成するエピソードだったのだと嫌でも気付かされる。これを観ながらふと『DRAGON BALL 超』で『Dr. スランプ アラレちゃん』の則巻アラレがゲスト出演したときのことが思い出された。あのとき、アラレちゃんを眼前にしたベジータの、こんな理不尽な相手にどうやって勝てばいいのか、という動揺に近い感覚……と考えたとき、なるほど「ニカ」のこの力は「笑い」と不可分なのだなと納得した。
アニメーションというジャンルそのものを味方につけるような能力。ここ数年でも最高のひとつに数えたくなる、本当に素晴しいエピソードだった。
■『文豪ストレイドッグス [第5シーズン]』 第56話
第五十六話 空ノ港ニテ ( 其の二 ) (8/16)
このエピソードにおける、ED曲への入り方におけるちょっとしたアイデアには、自分が"TV"アニメにどこかで望んでいるようなエッセンスが凝縮されている。大掛かりな仕掛けというのではない、あくまでも「ちょっとしたアイデア」にすぎない。それでも観終えてからずっと、したたか打たれたような強い感動が、しばらく後を引いた。高く掲げたテーマでも、所謂クオリティでもない「ちょっとしたアイデア」に貫かれること。そういうものにもう一度出会いたくて、私はTVアニメを観続けている。
■『呪術廻戦 渋谷事変』 第41話
第41話 霹靂-弐- (11/16)
「TVアニメのクオリティを越えた」といった称賛が寄せられる作品群がある。それはタイトルに対してであったり、スタジオ、スタッフの固有名に対してであったりするが、そうした作品群はいわば「フラッグシップモデル」として、例えば海外の「ANIME」ファンの期待にも応えながらジャンルの開拓を続けていく。私はしかし、これらが「TVアニメのクオリティを越えているから」素晴しいのだとは考えていない。こうした飛び抜け方が時折生まれる土壌を形作っているものもまた「TVアニメ」というジャンルの内側にある力だと思っているからで、なかでも『呪術廻戦』は――今期は悲痛な話が多かったとはいえ――力の抜けた日常との落差、それ自体が愉しさの一部を形作っている作品でもあるから。
とはいえこの話数に関しては、容赦のない殺戮を、容赦のない「クオリティ」で描写する、容赦もエクスキューズもない、そういう作品の代表例として挙げます。
■『SPY×FAMILY [Season 2]』 第36回
MISSION:36 バーリント・ラブ/MISSION:36 〈夜帷[とばり]〉の日常 (12/16)
「語り口」をいかに設計するかという方針の点で、『SPY×FAMILY』は前シリーズに続き、高いアベレージを叩き出し続けている。背景にきわめてシリアスな情勢や人物像を抱えたコメディ……という本作のバランスをエンターテイメントに落とし込むとき、語り口の工夫は本当に重要だと思う。2パートに分かれたエピソードだが、いずれも「一方通行の恋心を抱えた女の子が主人公のコメディ」という共通点をもたせることで、ひとつのエピソードとしての統一した読後感をもつことができる。前半におけるバリエーション豊かな顔芸の数々と、その間に挿入される運動の存在感(ヨルが車に撥ねられる前後はほんとに楽しい)。後半における、過去話数の回想的な画面の挿入で心情を際立たせる設計。思い込みに夢中な当人のモノローグと同時進行で細かい動き(アーニャの変な動作とか)が入るというそれだけで、視聴者として、これをどう観たらいいのかを、すぐさま理解できる。
TVアニメが長い時間をかけて工夫し、開発し、受け継いできた語り口が、存分に力を発揮している瞬間だ。
(※以上、放映日時順)
2023年12月29日作成
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