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マンガ家になろうとして挫折した私が友人の「できる!」の一言でWebデザイナーに駆け上がった話。

誰しもひとつの言葉で人生が変わるきっかけができたことがあると思う。
良い機会なのでその過去話を。


「あんたができるわけがないやろ」

2000年代初め。20代に入って間もないころのある日の夕方。
私はひとつの雑誌を結果を見てうなだれていた。

(あかんわ…)

その雑誌はとある大手出版社の月刊少女マンガ雑誌。

短大卒業後、実家に戻りなんとか滑り込みで合格できた職場で仕事をしていた私は、時間の合間を縫って一人何度も投稿を続けていたのだが、一向に入選にならず。「今度こそ!」と思って渾身の案を送るも結果はただ応募(投稿)者一覧に自分のペンネームが書かれていたのみだった(つまり選外)。

今でこそ、自分で描いてBlogやSNSで注目を集めたり、投稿サイトなどなどマンガ家になる手段はごまんとあるが、当時マンガを描いて稼ぐ、といえば出版社に投稿して入選後、読み切りを書いてデビューというのが鉄板。一番ベストな方法は出版社への持ち込みではあるが、地方からだと時間と金銭が負担がかかりすぎるため郵送一択に限られる。
ただ、その場合は選考者からの批評・返答までに大体2か月ほどかかり、さらにその内容もほんの小さな紙切れ1枚にアドバイスとも言えないお世辞程度の短文しかない(投稿者が多いので時間をかけたくないことは理解できるが)。

幼い頃からマンガ家に憧れずっとなりたいと思っていたことが、ここで「挫折」という言葉を味わった。

今思えば自分で自分の心を「負の感情に侵食させてしまった」と言えるが、当時は就職氷河期真っ只中。実家を出て就職する予定だったものの応募したすべての企業はからの通知はすべて不採用。さらには父親の病気という予期せぬ事態、やむなく実家に帰らざるを得なくなる、親や世間からの抑圧や社会的現実を身に受けたりなど、様々な「挫折」を味わってきていたところにさらに重ねて追い打ち。

ここで身近に相談できたり励ましをしてもらえる味方がいればよかったのだが、残念なことにそんな人は一人もいない。加えて「あんたができるわけがないやろ」となにかにつけて言い続ける母親の存在。

これまではどうにかはねのけられていたが、今回はさすがにあの有名な「諦めたら試合終了」の言葉も効かないまま、一気に心は蝕まれて心は折れた。

もちろん、このままではダメだと思い、なんとか立ち直ろうとするが、そういう時ほど大体うまくいかないもの。なんとかして見返したい、立ち直りたいと思いながらもやればやるほどドツボにハマる自分がいた。

気づけば、契約期間が終わった後の転職先で運悪くリーダーに目をつけられ、陰湿ないじめで追い込まれ、そのまま倒れて救急車で運ばれてしまう始末。

これがきっかけで退職し、この後しばらく引きこもって誰とも会わない日々を送ることになる(正確に言えば、辛うじて失業手当のためにハローワークに行ってはいたが、とにかく外で話したくなかったので、必要なことが終わった後は逃げるように帰っていた)。

地に足がつかずにふわふわしたような、でも周囲から絶え間なく焚き付けられる見えない焦燥感もあって心の中がかき乱されるそんな空気感の中、心の拠り所を求めていた私に、遠方の友人からひとつの言葉をかけられた。

「君ならできる!」

そう言った(書いた)のは、関西地方に住んでいる私と同じように勤めながらマンガ家を目指していた短大時代の友人。

引きこもっていた私は、知人に貸してもらっていた自作PCを使って今は無きチャットサービスで数少ない友人知人と話をするのがささやかな楽しみであった。この日は、今後どうしたら良いのか悩んでると悩みを書くと思いもよらないレスが返ってきた。

「君もホームページ作ったら?君ならできる!」

当時、彼女が自力でWebサイトを作って立ち上げ、活動をしていたのは知っていたが、まさか自分に勧めてくるとは。

「無理やって!」
「いやいや君ならできるやろ!君、高校の時パソコンかなり使ってきとんやろ。ブラインドタッチもできるし私よりも早いやん!できるできる!」
「えー」
「いっぱい制作ソフト売っとるけど買わんでええ。ちゃんと本屋でHTMLのタグ辞典買って調べながらメモ帳でタグ打ちしたらちゃんとできる!大丈夫!」

現代のようにWordPressなどのBlogもノーコードでサイトが作ることができるサービスもまったくなく、ページもソースを一からタイピングして作り、自分でサーバーやドメインを契約し、ファイルをFTPソフトで手動でアップロードして公開するのが主流の時代。果たして自分でできるのか。

「とりあえずやってみるわ」

未知数ではあったが、どうせ無職で時間も有り余っている。なるようになれ、だ。

そして次の日、近くの本屋に行って彼女の言う通りHTMLタグ辞典を購入し制作を開始。

当時購入したHTMLタグ辞典。今は使っていないが「お守り」として本棚に置いている。この時代の主流ブラウザは今は無きIE6とNetscape(ネスケ)だった。

のめり込むにはさほど時間はかからなかった。食事とトイレの時間以外はすべて制作に費やし、時には「とほほのWWW入門」さんなどにあちこち検索しながら調べ、徹夜して3日でなんとか自分のサイトを作り上げた。

見栄えはお世辞にも良いとも言えないし、粗も多かったが、それでも自力で作り上げたという達成感と、家と周囲からより外の自分だけの外へのつながりができたのは嬉しかった。

公開後、すぐに彼女に連絡すると一言。

「できたやん」

彼女の見る目は正しかったようだ。

「ホームページ作れる人探してるんだけど」

その後、親との衝突やら確執でしばらく家を離れてとある寺院で生活したりと紆余曲折があったが、なんとか思い直して再度再就職をしないと…と思っていた矢先、知人から「知り合いのお客さんが某ECモールに出店するから、店舗制作と運営をしてくれる人を探している」ということで私に声がかかった。
「なぜ私に?」と聞くと「ホームページ作ったことがあるって言ってたから」と返答。

今思うと、求人側事情の「人身御供」的な役割ではあったが、無職生活で仕事と収入に飢えていた私に取っては渡りに船。求人先の給料条件ははっきり言って良いとはいえないし、私もまともにWeb制作の勉強をしたわけではなかったが「多分、これを逃したら私は終わる」と腹を括った。その後、寝食惜しんで(支給されていた)中身むき出しのデスクトップPCにかじりつき、委託先からECモールから支給されてた分厚いマニュアル数冊を読みながらどうにか制作。その他、購入者とのメールのやり取り、メルマガのテンプレートなど手を入れるべきところはかたっぱしから作っていくなり整備を行った。

そして、数日後に申請してなんとかオープン。
当時の上司・委託先からのねぎらいの言葉も嬉しかったが、それ以上に自力で作り上げることができたことと誰かから感謝されたことが嬉しかった。

体は疲れてはいたが、満足感は有り余るほど高揚していた。
正直ちょっとした優越感もあったような気がする。

「この先に進みたい」

この後は少々端折るが、制作と運営管理を続けていくうちに「ECサイトの制作のみだと知識が偏ってしまう」と考え、当時話題に上がってきていたMovable Typeの利用や一般的なWebサイトの制作などを上司に提案するものの、会社の経営上ECサイトの委託運営を重視したがっていて考えが食い違っていたこと、そして私自身の年齢を考え、思い切って転職を決意。

転職先も一応地元で考えたものの、田舎で私のような中途半端な者を就職させてもらえるような企業はなかったこと、何より実家にいるとまた母に負の言葉を投げかけられると容易に想像できたので、同時に実家を出ることも決意した。

途切れそうなツテを無理やり辿って知り合えた専門家の助けを借りながらどうにか転職先、一人暮らしの物件もなんとか一人で探し出して、いざ決行!という時には、母親から再度「あんたなんかできるわけないやろ!ばかじゃないん!もうあんたなんか知らん!」と吐き捨てられるように言われて一瞬モヤっとしたが、振り払うことができたのはそれまでのやってきたことの積み重ねが大きかったからだと思っている。

実家を出た後の就職先ではWebデザイナー希望で入社したのに更新・運用の業務に回されたり、それまでやったことのなかった見積りで苦悩したり、同僚とのレベルの差を目の当たりにして葛藤したり、デザイナーへの希望を出していたのに他の同僚を指名されたりで何度かさらに「挫折」を味わうわけだが、紆余曲折の上でWebデザイナーの肩書を得られたのは、友人の「できる!」の言葉に支えられたからだと思っている。

その後、さらに東京で登壇するきっかけを得たり、県外の業界の方と知り合えたり、フリーランスになったりと怒涛に時代が過ぎていくわけだが、何にせよ、人生の転換になるきっかけを作ってくれた友人には今でも感謝しかない。

最後に。友人はというと私以上にかなり苦労はあったようだが、現在はマンガ家になって活躍中である。

【補足】なお、上記の陰湿いじめをしていたリーダーは、嫌がらせの証拠が一部だけだが残っていたため、その点において処罰を下したと(当時の職場の)上司からは聞いている。

あと、父は手術をして現在も元気なので安心していただきたい。

#想像していなかった未来

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brightflavor@Webデザイナー×イラストレーター×グラフィックレコーダー/フレーズライン
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