オクジー君の言葉と多様性について

 漫画「チ。」には、普遍性を持った言葉が多く出てくる。実際に世界で生きていたとしか思えないほど、実在感のある人たちが発する言葉は、読み手の人生の道しるべになる。

 その中でも心に残るのが、僧侶のバデーニとともに地動説の立証に情熱を捧げるオクジーの言葉だ。バデーニのような天才的な頭脳を持たないが、徐々に人生の生きがい、目的を見つけていく姿は、凡人の私たちが共感しやすい存在と言える。自分にオクジーのような人生を捧げるものあるだろうかと考えることもある。

 その彼が異端審問官のノヴァクの襲撃を受ける前にバデーニと問答を交わす中から出てきた言葉が興味深い。地動説に関する書類を人目に触れないように燃やすバデーニに「他人を排除しすぎると、間違いに気付きにくくなるのでは」と控えめながら疑問を呈する。さらに天動説を唱えたピャスト伯と地動説を信じる自分たちに大差はないとして、「『自らを間違っている可能性』を肯定する姿勢が、学術とか研究には大切なんじゃないか」と投げかける。

 「異論を排除すればよりよい研究はできない」という説は、十分に納得できるものだ。しかし、オクジーの主張に心を打たれるのはここからだ。彼は地動説を他人に託すことについて、「実際に他人が受け継ぐかなんてわからない。それどころか思いもよらない反論をされる可能性もある」と言う。

だが、それこそが重要なのだとオクジーは言う。「自分の思い通りにいかない誤解とか事故とか予想外の存在とか」「そういう他者が引き起こす捩(ねじ)れが現状を前に向かわせる希望なのかもしれない」と。

 私たちは自分と考えが合わない人間、自分と同じように行動しない人間を警戒し、距離を置こうとする。異質な他者を理解しようとしない。これが世の中で横行している「分断」の原因の一つだと思う。しかし、オクジーの言葉を応用するなら、自分と異なる他者の存在こそが、世の中を良い方向に持って行けるというのだ。

 自分の胸に突き刺さる。職場の作法や基本動作ができない新人に「会社員失格」の烙印を押し、「あいつはダメだ。早く部署を変えた方がいい」と論評する。しかし、そうした言動は組織の多様性を失わせ、同質な人間ばかりを集めることで組織の劣化を招いているのかもしれない、と。

 ただ、ことはそう簡単ではない。一言で言えば「そんなこと、やれるならもうできている」のだ。組織にとって異端な人間を抱えようとすれば、そのしわ寄せは必ず周りの人間に及ぶ。それだけ組織のコストはかかるし、時間はかかる。要はめんどくさいし、それだけで自分の疲弊にもつながる。

 オクジーの言葉に深くうなずきながらも、何かモヤモヤした気分も残る。ちまたでもてはやされる「多様性」の難しさとも言えるのではないだろうか。あす、自分は「異物」とも言える新人に少しは優しくなれるだろうか。

#チ。地球の運動について

 



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