その夏①
「何をわかっていないかもわかっていないからそんなに馬鹿なのに自信満々でいられるんだよこのバカッ!!」
といって、彼女は居酒屋のテーブルに五千円札を叩き付けて店を出て行ってしまった。「知らないとでも思ってるの?」と妙に気になる捨て台詞を残していった。はっきりいってそれが何を意味しているのか俺にはわからなかった。近所の外猫にこっそり餌をあげていることでなければ、バイト先の隣の水草屋(と、俺らは呼んでいた)で飼われているウーパールーパーと話ができるようになったことだろうか? 彼女が知っているはずはなかった。これは、バイト仲間の山と薪しか知らないはずだった。
俺はまわりのおじさんに、にやつかれているような気がして居心地わるかった。気がしてるんじゃなくて、にやつかれていた。兄ちゃん、追いかけろよって声が聞こえた気もした。でも、俺は彼女を追い掛けることも出来なくて、取りあえず残された焼き鳥を食べきろうとして、それで、砂肝を串から引き抜こうとして前歯が欠けた。最悪だ。そして、会計をして店をのろのろと出たところで派手に転んで、階段を転げ落ちて、アルコールなんて一滴も飲んでいなかったのに、通りがかったギャル集団に「くっそうざい、よっぱらい」みたいなことを言われて、心の底から震えるほど傷付いた。
その頃、山と薪にも同じようなことが起きていて、山は人間不信というカフェの段差でスッ転んで、鼻血を出してもたもたしているところを周りの女子高校生に盗撮されて発狂しそうになっていたし、薪は自主制作映画のボランティアで一緒になったやたらスピリチュアルなおばさんに毎日、浄化されるのに耐えていた。おまえは汚い豚の魂だと言われて、よくわからない儀式をされるのに歯を食いしばって耐えていたのだ。本当に偉い。そのおばさんが。薪は何をされたって変わることはないのに。どんなに水を注いでも枯れていく花はあるだろう? というか開かない蕾はあるだろう? 薪は正真正銘、そんな感じの世界にオンリーワンの薪として存在していた。うごかしようがないのだ。受け入れる他はないのに、スピを自称している割りにかなり察しの悪いおばさんだ、と俺は思ったが、おばさんなりの見捨てられない大きな溢れだして止まらない人類愛が薪にたまたま牙を剥いたのかもしれない。ほんの小さな滴もやがて岩を砕くとかいうらしいし。薪という巨大な山、若しくは、不毛な深い谷は挑みがいがあると感じとったのかもしれない、スピリチュアーとして。
話がそれてしまったが、そもそものはじまりは、水草屋の店主のおじいさんが腰のヘルニアの悪化で入院することになったので、その間に店番をして欲しいと頼まれたのがきっかけだった。熱帯魚が少しいるだけで、主に水草を販売している小さな店には元々バイトは居なくて店主一人がきりもりしていた。俺らは自分たちのバイト先であるジーパン屋の社長であるおじいさんに店番を掛け持ちできないか頼まれて、即、快諾した。俺らは常に金に飢えていたし、常々、隣の水草屋は楽そうでいい、将来やるとしたら、あれだな、ああいうのが理想だ、あれこそ真の勝者の姿と腹の底で仲良く3人揃って感じていたからだ。楽そうに見える仕事程、辛いもので、時給が安いからといって仕事が楽という訳ではない!ということを既に何度も経験していたにもかかわらず、基本的に俺らは馬鹿で、喉元過ぎればなんとやらのあれで忘れていたから即答即決した。正直、その時は水草屋のノウハウを学んで、出来ることなら近い将来その店を乗っ取るくらいの気持ちでいた。水草屋には売り物でない店主の大切にしているウーパールーパーのタカラちゃんがいるのも好感度がよかった。そのタカラちゃんに餌をやれるのを俺らはかなり楽しみにしていた。
初日に、トップバッターとして水草屋の店番についた薪が暗い顔をして、ジーパン屋の店先を箒で掃いていた俺のところへ来た。ジーパン屋が11時開店なのに対して、水草屋は9時開店だった。2時間でもう、飽きたのかよ…。どうせ、暇だからこの際、リーサル・ウェポンを一気見するとかいってた癖に根性なしにも程があり過ぎるぞ、おまえこそが世界一リッグスとマータフエキスが必要ボーイなんだから早く大人しく見とけバカと思って追い返そうとすると、薪は俺に信じられないことを言ってきた。
「なあ…、タカラちゃんが白くてなって浮いてんだけど…?」
「え? は? おまえ、何したの?」タカラちゃんは昨日、お世話になる3人で入院するおじいさんに挨拶に行って店の鍵を預かった時にはきちんと元気そうだった。
「何って何もしてないけど…」薪は演技であってくれたらどれ程いいかっていう負け犬豚仕草100パーセントの他人事ないつもの態度を醸し出して俺を掬うような目でねっとり見てきた。こうやって、今までもママやパパになんでも尻拭いしてもらってきたんだろうね、っていう苦労をしてこないできた奴特有の汚らしく怖いぐらい澄んだ目をしていた。
俺は箒を投げ捨てて、隣の水草屋に走った。
タカラちゃんは本当に白くなって、腹を見せて浮いていた。嘘だろう。昨日まで、あんなに可愛くて元気そうだったのに。
おい!! 起きろ!! おっきしろ!!
俺は叫んだ。
なんで、今日なんだ!! 起きろ!!おい!!タカラちゃん!!タカラちゃん!!
【タカラちゃん(ウーパールーパー・女の子)10才。のお世話の仕方】
水草屋のおじいさんが俺らの為に手書きで書いて用意してくれた仕事ノートが頭の中で炸裂した。タカラちゃんへの愛に溢れたあのノートに書かれた優しい文章…。タカラちゃんは水草屋のおじいさんの今は亡き奥さんが可愛がっていたウーパールーパーで、その名の通り、水草屋のおじいさんの宝物だった。
タカラちゃん!!タカラちゃん!!タカラちゃん!!
俺が心の底から全身全霊でこの小さき命の復活を念じている最中に、薪が俺の肩に手を置いて「なあ、もう、いいよ。諦めようぜ」と言ってきた。まるで、おまえのせいじゃないし、俺ら充分がんばったじゃん??とでもいいたげな目をしていた。薪は2浪していて、俺より2つ年上だったけれど、俺が薪を一切尊敬していないのはこういう粘りと愛のないところを隠そうともしないところだった。
こいつはいつもそうだった。内弁慶と外弁慶の甘やかされたハイブリッドバカだった。大体、俺がここに来てまだ一分も経っていなかった。お前は店を開けてから2時間なにをしてたんだ。
俺は、タカラちゃんを素手で掬いあげてタカラちゃんが、びくともしないのを確認して、心臓と思われるところをマッサージした。そして、迷わずタカラちゃんの唇に口をつけて、息を吹き込んだ。人工呼吸だ。心肺停止の際の蘇生法は習ったことがあったけれど、タカラちゃんに適応されるかはわからなかった。
薪がオエーという仕草をしたのを俺は見逃さなかった。薪はそういう男だった。この男と出会ってから4ヶ月しかたっていなかったが、薪という男は嫌という程こういう男だった。
俺は構わずに、心臓マッサージと人工呼吸を繰り返した。薪がオエーと嘔吐(えず)くのに本気でぶち切れそうになった時に、タカラちゃんが微かに動いた。
薪が実際に店のゴミ箱に吐いた時に、タカラちゃんが目を開けて「いい加減にしないと殺すぞ。クソガキ共が」と言って掌の中で胡座をかいた。
「おい、そっちの豚」タカラちゃんは言った。「角の酒屋行ってマルボロと鬼ごろし買ってこい」
薪は信じられないという顔をした。俺だって信じられなかった。薪が尻ポケットからスマホを取り出して喋るウーパールーパー・タカラちゃんを撮影しようとした時に、スマホが薪の手を離れて宙に浮いて爆発した。
「おい、豚。舐めた真似したら殺すぞ」タカラちゃんは手首を回して、立ち上がりレジから万札を抜くと薪に向かって投げつけた。
続く
続く
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