誰も悪くなかった #2

※暴力的な表現が含まれています。苦手な方はご注意下さい






 呆気にとられて犬の飼い主の女性とスーツを着た男性は雨の中、犬が開けっぱなしであった車の後部座席に飛び込むのを見届けてからも、暫くその場に立ち尽くして雨に打たれていたが、男の方が先に我に返って電話を取りだして救急車を呼んだ。白い獣は男の足元に踞ってそれを聞いていた。

いざ、頭を負傷した男が担架に乗せられて、救急車が走り去った後も三人は雨に打たれたまま立ち尽くして何もない雨に打たれて飛沫を上げる道路の先を眺めていた。吹き飛んで、男性を傷付けて転がっていたマンホールの蓋も元に戻された。

やはり、また男が最初に我に返ってしゃがみ込んでいた獣に声をかけた。それから、自分の車に戻って、去って行った。犬の飼い主も白い獣に声をかけていた。家まで送りましょうとかなんとか、だ。獣が何と答えたのか銃を捨てた女性には聴き取れなかった。犬の飼い主も去って行った。それで、白い獣と残された銃を捨てた女性も家に帰ろうとした。白い獣は縁石に腰掛けて雨に打たれたまま俯いていた。女性は言った。「撃つつもりはなかったのよ。ただ…私、あなたがあの男の人を襲ったのかと思ったのよ…」ごめんなさい、勘違いして、と女性は言った。白い獣は俯いたままだった。白い毛は細く柔らかそうで四、五十センチはあって、雨に濡れても美しかった。雨に洗われて、血は殆ど流されていた。
「帰る家はあるの?」女性は聞いた。人の言葉を理解しているとは思えなかったが話しかけ続けた。「もしよかったら、家に来る?」と誘ってみた。

白い獣は、答えずいきなり立ち上がった。獣は百七十センチある女性が見上げるほど大きかった。獣は立ち上がり、そして、煙のように消えた。雨の中に一瞬白い飛沫があがって弾けた。思わず女性は目を閉じた。そして、目を開けると白い獣は居なくなっていた。目の前で何かが消えるのはいつでもおかしな感覚を残す。

女性は、芝生の上まで行って、血の跡が残されているのを確認し、起きたことが現実であったことを確認した。それから、犬が(玩具を投げて貰ったとでも思ったのであろう)咥えていった銃を探して十分程辺りをうろうろしたが、銃は見つからなかった。パン屋には行かずに足早に、殆ど走って家に帰り、鍵をしっかりしめてから、シャワーを浴びた。それから、髪を乾かしてもう一度、銃を探しに行った。銃は何処にも無かった。

次の日の午後に犬の飼い主が家を訪ねてきて、頭を負傷した男性が奇跡的に一命を取り留めたことを教えてくれた。女性が銃を向けたことには全く触れなかった。「兎に角、よかったわ」犬の飼い主はそう言って笑った。

彼女のラブラドールには大きな腫瘍があった。今朝、有給休暇を取った夫と共に動物病院へ再検査行くと、それが綺麗さっぱり消えていた。何かの間違いではないか、大きな手術を避けようと嘘を付かれている可能性もあると夫と話し合い、別の動物病院で見て貰う予定ではいたが、気持ちはまだ早いと思いながらも浮きたっていた。子供のいない彼女たち夫婦にとって、月並みな表現であるが、犬は我が子も同然であり、犬から消えた腫瘍と完璧に健康な血液検査の結果に彼女の胸は安堵で充たされていた。

同じ時、三台目の車で現れた男性も晴れやかな気分でいた。会社の金を持ち逃げした部下が捕まり、金は丸ごと彼の手元に戻ってきていた。彼もまた、妻と娘と共に、頭を負傷した男性の見舞いに行き、医師からかなり経過が良いことを聞かされて胸を撫で下ろしていた。白い獣を見たことは家族には話していなかった。重度のストレスで一時的に頭がおかしくなっていたに違いない。救急隊員は誰一人として獣について触れなかった。あんな巨大な生き物が町を彷徨(うろつ)いていて、驚きもしないとは考え難い。男は、犬の飼い主の女性を獣に近付けまいとした時の女性から感じた軽蔑と驚き、抵抗のことを思いだして、何か自分は幻覚を見ていたのだと納得していた。あの時、自分の膝は彼女によって完璧に砕かれたと思った。実際にぐしゃりと骨の砕かれる聞いたことのない内部からの音を聞き、激しい痛みを感じて、脚を動かすのも困難であったが、会社につき、トイレでずぶ濡れのズボンを脱いで恐る恐る負傷した膝を確かめて見れば、膝横に薄い痣がうっすらと付いているだけであって、それは、自分がアスファルトの上に膝をついた時に出来ただけかも知れず、あの女性に何度も蹴り飛ばされたこと自体が思い違いであるのかもしれない、、、と考えて直していた。


ところで、護身用に銃を持ち歩いていた女性はその日の早朝にも銃探しに出ていたのだが、結局、まだ自分の銃を見つけていなかった。それで、訪ねて来た犬の飼い主に銃を最後に見た時の状況を訊こうと思ったが、彼女が銃を向けられたことに関して非難めいた態度を一切持ち出さなかったことで、謝ることも銃を紛失した事も言い出せないでいた。銃を向けられた恐怖や不快感がそこにあったのならば、思い返させない方が良いのか、敢えて話題にしない選択をしてくれているのであれば、それに従うべきなのか、見当がつかなかった。彼女は前記の通り、昨夜、一度家に戻ってからレインコートを着て、通りの隅々まで銃を探していた。現場に来た救急隊員の誰かが見つけて持ち去ったのだろうか? 思い返してみても、そんな素振りを見せた人物は居なかった。四人の救急隊員は集中していて、白い獣の存在にさえ気を払っていなかった。

まるで居ないかのように集中していた。


犬の飼い主の女性が帰った後に、女性は銃はやはりマンホールの中にある、とうんざりしながら確信し、行かなければ、と考えた。犬が滑らせた銃を咥えたのは確かに見た。咥えたままマンホールの穴の中に落ちたのだろう。市かなにかに連絡して誰かに調べて貰うことは出来るのだろうか?子供にでも拾われたら大変だ。後悔があった。こんなことにならないよう細心の注意を払っていたつもりでいたのに。既に紛失届は出していた。 

女性は手元に銃が無いことで些か不安になっていた。そこに玄関先に来客のあったことを知らせるセンサーが光った。けれど、チャイムは鳴らなかった。彼女は、これは経験者にしかわかるまい。それだけで、全身の皮膚がちりつくような恐怖が足元からやってきて彼女を支配した。それでも、彼女は玄関までの動線に置いた細い銅製のオブジェ、それは歪な細長い人の形をしていた、を手にしてモニターを見た。どんな人物の姿も無かった。風かもしれない。充分にモニターを観察して、オブジェを握りしめたまま彼女はドアのロックを外し、それは五つあった、外を注意深く見渡した。足元に新聞に包まれた何かが置かれていた。彼女はそれを素早く拾い上げて、ドアを閉め、五つの鍵をきっちり閉め、無用な作動を避けて在宅中には切っていた防犯用のセンサーの感度をマックスにし、もう既にセキュリティに連絡すべき事態であるのか否か迷って下唇を噛みしめそうになり、それに気がついてやめた。額に手の甲を当てて気を静めようとした。

拾い上げた新聞は軽かった。小鳥か何かの死骸でも包まれているのかも知れなかった。痩せた鳩よりは小さく太った雀よりは大きな物体を包んだ新聞紙は枯れた長い草で真ん中を結ばれて、小さな小枝が挿してあった。

彼女は、オブジェを握ったまま新聞紙に包まれた何かをダイニングテーブルの上に置き、暫く眺めた。
(ネズミ? 子猫? 蛙? ペニス?)
以前、彼女に様々な贈り物をしてきた変質者は様々なことを仕掛けてきたが、中でも多かったのが、自分の画いた性的な願望を虫の死骸や汚物と共にチョコレートの箱に詰めて郵便受けに捻じ込んでくるというものであった。人の気配が無ければ、玄関先に尿や精液をばら撒いていった。その変質者は別の女性への暴行で捕まって刑務所に入っていた。まだはいっている。まだ二十歳になったばかりの青年であって、家族も友人もその青年の「傾向」を知りながらも、その傾向は単なる「芸術」における表現の自由の範疇であり、「実際」に人に危害を加えるようなことをするとは「思ってもいなかった」らしい。

女性はキッチンにいって、使い捨ての手袋を両手にはめると、ダイニングテーブルに大きくて真っさらなケント紙を拡げた。そして、その上に包みを置いた。女性は小さな頃から生き物が好きで小動物の死骸など怖くもなんともなかった。虫も同じく。気になったのは、それが、死骸が、殺されたのか、拾われたものなのか、故意に傷付けられ、苦しめられたりした形跡があるかないかであった。

草のリボンの結び目は固かった。彼女はキッチンから竹串を一本持ってくると、それを結び目に突き刺しながら、結び目を緩めて解いていった。

草の縛りを解いて、新聞紙を拡げる前に彼女は深呼吸をしたくなった。窓を開けたかった。新鮮な空気が必要だった。この部屋の空気を胸に、肺に入れたくなかった。「窓をあければいいじゃない?」と、何もわかっていない他人に笑われた気がして、気を鎮めるのに二分は時間が必要だった。いい? 窓なんて開けていられる「気分」になんて、今後三十年はならないかもしれない。それは、もう一生訪れないかもしれない。

歯の隙間から、汚れを濾すように、息を吸って吐く。落ちつくのよ。あの「子供」は弱い。(子供と呼んでいいような男だった)いざとなれば素手で殺せる、この私には。セキュリティも万全であり、警察にも話をしてある。(恥ではない、けして恥じることではないが)、恥を忍んでご近所に住まう女性達にはある事件に巻き込まれて些か過敏になっていること、何かあれば、自衛はしているつもりであるが、力になってくれなくてもいい、犠牲を払わなくてもいい、ただ何か違和感があった場合には警察に連絡して下さいとお願いをしてあった。

私は強い強い強い、マントラのようにいい聞かせるが、弱い弱い弱かったと他でもない自分の経験と過去が歌ってくる。わかっているから黙りなさいよ、彼女は自由に思考する自分の一部を叱りつけた。頭が破裂しそうで、繰り返されるそれは、あの男を何度、脳内で殺しても治まることはない間隔の読めない奇妙に歪んで尖った波のようだった。水は叩き潰せない。波は大きくて自分の拳では戦えなかったし、コントロールできなかった。

まただわ。抽象的になるのが私の弱みなのよ。現実的に、具体的にいくの。それが、効く。「波って何よ? あの馬鹿のしたことが海だとでも?」冗談じゃない、と彼女は自分自身の想像力の紐付けの軟弱さと貧弱を呪った。波に象徴されてるのは自分の身がしているこの反芻なのだ。自分を自分から逃がすことを覚えなければ、と彼女は思った。これがなかなかに難しかった。

包みを開けて、これが人様に贈るような物でなければ、さっさっと然るべき所へ連絡をする。彼女は電話を手元に引き寄せて、新聞紙に手をかけた。(もう、連絡すべきじゃない?これを、見る前に? 一人で対処すべきじゃないのじゃない? 既に誰かに頼るべき状況下にあるのじゃない? 銃もなくて?)自問したが、見たい欲が勝った。早く見てしまって、白黒を付けてしまってスッキリしたかった。ビニールの手袋の中が噴き出した手汗でくもり、ビニールは皮膚に張り付いていた。目では見えているがその感覚はなかった。


彼女は包みに挿してあった小枝を手に取り、目の高さに持ち上げて観察した。長さ八センチ、直径五ミリ程のまだ乾燥しきっていない生の木片で、切断口にねじれやささくれはなく、へし折ったのではなく、なんらかの刃物が使われたようであった。その植物の破片は彼女に不快な感触を与えなかったが、匂ったり舐めたりしてまで、それがなんの植物なのかを特定する気にはならなかった。彼女は小枝を脇によけ、それから、もう迷わずに包みを開けた。ストレスが高じて、これ以上、引きのばすと吐きそうであった。


中身は無くしたと思った銃だった。

目を見張った。手に取らず、慎重に観察した。持っていた竹串で銃をひっくり返すと、見覚えのある小さな傷、意図的につけた幸運を祈る傷、これは友人が付けてくれた9本の引っかき傷がついていた。間違いなくあの事件の後に、仕事の同僚であり、親友でもある友人と買いに行った自分の銃だった。元々、銃は嫌いだった。子供の頃から銃など世界から無くなればよいと思っていた。まさか自分がそれが手元に無ければ夜も眠れず、外出もままならなくなるとは思いもせずに。


只、おかしかった。重さが違った。最初に手に取った時には小鳥かネズミの死骸かと思う程、軽かったのだ。彼女はビニールの手袋をしたまま、銃を手に取り、(軽すぎる)と思った。左右の手に持ち替え、手を伸ばしてその重みのなさに驚いた。鉄で出来たそれはウエハースのように軽かった。訳がわからなかった。彼女は銃をケント紙の上に戻し、椅子に座って、右手を頬に当て、人差し指で耳の横を叩いた。集中したい時の彼女の癖で、指が耳をタップする音と震動が、巻き貝に耳を当ててそこに聞こえるあの音のように自分を落ちつかせて高めるのを彼女は知らずのうちに知っていた。海に行きたい、と唐突な欲求が突き上げて、一瞬、彼女は海辺にいた。




そこに、あの白い獣とあの倒れていた男性が並んで座っているのが見えた。彼女自身は離れた所にいて新聞を持っていた。風が強く吹いていて、剥き出しのふくらはぎに砂が当たって痛かった。両手に持った新聞が風に煽られてバサバサとくねった。その紙面に、その紙面に!! あのクソガキ、忘れもしないあの男の名前が印刷されていた。男は死んだ!! 死んだ!!死んでいる!!死んだ!!死んだ!!死んでるよ!!と大きな大きな文字で印刷されていた。

その瞬間に、海辺に光が満ちて白い鳥が飛び立った。波は美しく白く泡だって、砂浜に押し寄せてきた。数年ぶりに心の隅々までが明るく照らされて透明で清潔になった。海辺に点々と打ち上げられていた流木が燃え上がり、灰になって消えていった。

彼女は「本当」に嬉しくて、叫び声をあげた。

解放された。本当に嬉しくて、口角があがり、自然と喜び、歓声が沸き上がった。手にした新聞紙を胸に掻き抱いて、その場で跳ね上がった。

気がつくと、自分の家のキッチンにいて、彼女は軽くなりすぎた銃を片手に、右手の人差し指で耳を軽く叩き続けていた。でも、心に感じた昂揚感は残っていた。それは、胸の底から湧き上がって、肉体を駆け回って充たしていた。久しく忘れていた「軽やかな」「喜び」の感覚だった。

その感覚は自分の、悪癖でもある想像力の引き起こしたものなのだろうか。もう暫くこの気持ちに縋っていたいと思いながら、テーブルの上の銃を包んでいた新聞を眺めると、あの男の名前が小さく載っているのが目に飛び込んできた。まさか、と思い彼女は癖のついて丸まった紙面を拡げようとした(がっかりはしたくなかったが、する準備はしていた。彼女は元々、然程、楽天的な性格ではなかったし、事件後、懐疑的な傾向は強まって殆ど彼女の精神を占領していた。けれど、ああ、期待はしていた。かなりしていたのは事実だ)。彼女は丁寧にこの事を扱いたくて、利き手に竹串を持ち、まるで繊細な手術を行う医師のように、左手で新聞のほんの端を押さえ付け、竹串を使い、医師がメスで肉を切り開くように、慎重に丸まった新聞紙に隠された事実を取り出そうとした。

そこには本当に小さくあの男が死亡したことが取り上げられていた。

人の死を喜ぶような大人にはならないと子供の時の自分は信じていた。何も知らなかったからだ。彼女は何も知らない守られた子供で、自分の理想や正義が無垢なまま育って世を照らし、故に人に好かれる唯一自分だけは汚れを知らない人で居続けるのが許された人物であるのが夢であるようなよくいる世間知らずで経験値の足りていない押しつけがましくなりがちな幼稚な人たちの一人であった。でも、今は違う。かなり、前から違っていた。


彼女は喜びの余り小さく叫び、声は弾んで胸の奥から絞り出された。続いて、安堵が、喜びが、快感さえやってきて、その後、理性のもたらすほんの僅かな罪悪感が、解放による脱力が、そして、疑いもやって来たが、それに備えようとする力はもうなかった。彼女は顔を覆って泣き始め、頭の隅で弁護士か警察に確認しない内に喜ぶのはまだ早いと自分に警告を送りながらも、声を上げて泣いていた。自分より酷い被害にあった女性を思って泣いた。数年の間、一日も忘れることが出来ないで、その度に湧き上がるあの男を殺してやりたいという欲求と闘った自分を思って泣いた。他人にあの男と似た影を見つける度に、認めよう、怒りと恐怖に襲われ続けていた自分や、同じ境遇にいるであろう他の女性を思って泣いた。自分は悪くない、落ち度があったわけではない、あるなしは関係ない。その不条理さに泣いた。糞野郎の傾向を見逃し続けた、男のまわりにいた男ども、女どもの存在を想像しては呪ってまわった無駄な時間。見たことも会ったこともない人達であるのに。周りにいたであろう人達には、そんな義理も責任も「ない」ことをわかっていても、彼女はあの男の周りに居た「人達」も同罪であると憎み出して、脳内で殺していた。性癖の自由、表現の自由、多様性?? 笑って寛容を示していたであろう想像上の(しかも、若者達だ)人々を殺しまくっていた。彼等が何かしら良い影響を与えていれば…結果は少し変わっていたのでは? これが、単なる八つ当たり的な思考であって愚かであるのはわかっていた。けれど、実際に加害者の男の描く性的で加虐的な作品に「いいね」をした人達は沢山いた。彼女にでさえ、わかってはいた。あれは、アートなのだ。現実で行われる訳ではないと皆、理解して楽しんでいた。ただ、ひとつ違う世界におとされた彼女にはもうそうとは受け取れなくなっていた。あくまでも、彼女にとっては、ということであるが。それで、彼女はその人達も死ぬように、文字通り、死に滅びるように神にか悪魔かに祈っていた。もう一度、言っておくが、彼女は実際に犯罪に巻き込まれるまではありとあらゆる表現者はその自由を守られるべきと思っていたし、実際に脳内で彼等/彼女等の頭を叩き潰しながらも、そうである世界の在り方を、これは彼女自身、的確な言葉を見つけていなかったが、望んではいた。

現実では、そんなことをしないように、そういった気持ちを押し殺し、病院へいき、薬を飲み、カウンセリング受けて、人を誤って傷付けないよう、日々、何を怖れ、何に苛立つのかを記録し、反省をしつづけていた。

でも、終わった。夢にまで見たクズ男の死が本当に手に入るなんて。終わってないのはわかっている。でも、終わったのだ。

鼻水で息が詰まった。鼻をかもうとティッシュの箱に手を伸ばそうと顔を上げると、ダイニングテーブルの上にあの白い獣が座っていた。脚を折りたたんで背中を丸めてじっとこちらを見ていた。血液の汚れはすっかり消えて、雨にも濡れていない獣の顔に、やっと目があるのが見えた。大きくて薄いブルーに薄いブラウンとグリーンの虹彩の散った美しい目をしていた。

彼女は鼻をかみ、屑をゴミ箱まで歩いて捨てに行った。それから、まだ湧き上がる涙を拭きながら、なるべく明るい調子でいこうと心に決めて、「いらっしゃい」と、獣に話しかけた。獣は彼女の方を少し見たけれど、すぐに視線を戻してじっとしていた。

「何か食べる??」彼女はキッチンにいって、野菜室からプラムを取り出すと洗って皿に盛った。バナナもあったし、オレンジもあった。スイカとキューイフルーツをカットした。彼女は、果物、天然のビタミンの力を信じていた。怒りや恐怖によるダメージと混乱から自分自身をまもってやりたかった。肉を食べて、魚を食べて炭水化物もかかさなかった。なるべく、正常な状態で物事を判断して生活していたかった。もう、少しおかしくなっていたのはおわかりであろうが、そこには原因があり、彼女は正しくもがいていた。

ダイニングテーブルに果物を置いたが、白い獣は見向きもしなかった。じっと宙の一点を見つめていた。哀しそうな目をしていた。今にも泣き出しそうだった。小さく丸まっていて、立てば二メートル近くある生き物とは思えなかった。

それで、ああ、と彼女は思った。必要なことがわかった。

それで、獣に向かって腕を拡げた。
獣は大人しく彼女の腕の中に来て、顔を埋めて泣き出した。


哀しいのだ。多分。怖いのだ。ここ数年の間、一人、二人、三人、四人、時に数え切れない程の人の死を、夜な夜な願っていて忘れていた。

多分、獣はあの負傷した人物が好きだったのだ。大好きだったのだ。愛している者が失われるかもしれない恐怖を、どうにか、生きて欲しいと願う気持ちを彼女はすっかり忘れていた。抱きしめると白い獣はふさふさした外見から想像もつかない程痩せていた。彼女は白い獣の細い骨、それは、肉体というより骨だった、を撫で続けた。

「銃を拾ってきてくれたのは、あなたなの?」彼女が訪ねると、白い獣は小さく頷いた。

(あの男を殺してくれたのも、あなたなの?)彼女は心の中でそれを訊いて、口には出さなかった。多分、違うだろう。この子からはそんな感じはしない。白い獣は泣いていた。私のことはいい、今はこの子。彼女は白い獣を抱きしめて「大丈夫、大丈夫」と励まし続けた。犬の飼い主の女性から、あの男性が一命を取り留めた話を聞いたことを話した。犬の飼い主である彼女の態度は明るくて、そこにはあって然るべき死の瀬戸際にいる人への配慮の気配はなかった。彼女はその態度からあの負傷した男性は本当に回復に向かっているのだろうと予測していた。
「明日、一緒にお見舞いに行きましょう」彼女は獣に話しかけた。

それから、彼女はテーブルの上の銃を片づけて、それで、再び、銃の軽さに驚いた。(私の『本当』の銃は何処にあるのかしら?)

夕飯の支度に取り掛かり、白い獣はその間にバナナを食べて、クルミを齧っていた。彼女がパンにピーナツバターとイチゴジャムを塗ったものを差し出すと、それを持って、獣はまた目の前で消えた。

その夜に、彼女は悪夢を見た。彼女のなくした銃を拾った「あの男」がその銃を持って、また若い少女を脅していた。取り巻きたちがにやついてそれをとり囲んでいた。汗をびっしょりかいて、跳ね起きた女性は、そのままベッドから飛び出て、洗面所に行って顔を洗った。安定剤を飲んで、キッチンに座り、強い酒を飲みたい衝動と闘って、キッチンを歩き回った。
それからのことはよく覚えていなかった。気がつくと、寝間着のまま、彼女はバールを持ってあのマンホールの前に立っていた。雨は降っておらず、穏やかな夜で空には月が浮かんでいた。彼女はバールでマンホールの蓋をこじ開け、中に入っていこうとした所を通りかかった若いカップルに止められた。構わず、入っていこうとすると思わぬ力で後から抱きかかえられて、あの頭を負傷した男性が横たえられたのと同じ芝生の上に連れていかれた。

カップルは酔ってはいたが、まともだった。彼女が訳を話すと、若い男はスルスルとマンホールの中に入り、あっけない程、簡単に彼女の無くした銃を手にして戻ってきた。半身が濡れて下水の饐えた匂いをさせていたけれど、彼は清潔そのものだった。カップルはマンホールの蓋をしっかり閉めて、彼女に一人で帰れるか?と聞いてきた。彼女は帰れる、と答え、銃を受け取り、彼等と別れた。

この若い男性は、二十一歳で、銃の扱いには慣れていなかった。けれど、恋人の方は慣れていた。それで、この寝間着で裸足の女性が家に帰って、銃口を口に突っ込んでこの世とおさらばしたりしないように(充分にありえた)、又は、銃を手にした途端にこちらへむかって発砲してきたりしないように、彼氏が女性と話しているうちに銃弾を抜き取って、ジーンズの尻ポケットの中に突っ込んだ。彼氏と女性が話している間中、腰に手を当てたふりをして、指先で弾を数えた。何度、数えても六つだった。八弾装備のうち、二発を目の前にいる女性は既に撃っている可能性があった。勿論、わざと空ける人もいるのだが。

だから、彼女は良いことをしたと思った。


若者と別れて、家に帰った彼女は再び、五つのドアの鍵をしっかりと閉めて、防犯カメラで暫く外の様子を見ていた。それから、ダイニングテーブルの上に、新しいケント紙をひくと、今、手元に戻ってきた銃と今日、玄関先に置かれていた軽い銃を並べて置いた。

それから、彼女はある物を探してクローゼットの中や道具箱や引き出しをひっくり返したが、それは見つからなかった。彼女は諦めて、ダイニングテーブルに戻り、二つの銃を引き出しにしまった。



次の日に、彼女の元に二人の来客があった。銃を一緒に買いに行った友人と昨夜、弾を抜き取った女性だった。彼女は、六つの弾を受け取るとお礼を言ってそれをティッシュに包んで引き出しにしまった。それから、不思議なんだけど、といって玄関先に置かれた妙に軽い自分の銃そっくりな銃を彼女たちに見せた。

若い女性は銃を手にして、その精巧さに驚いた。プラスチックでも樹脂でもないそれは、本物の銃尻で思い切り叩いてもびくともしなかった。ただ、中に実弾は入っていなかった。そこには透明なガラス細工のような、(これも素材はよくわからなかった)物が八つ入っていた。

それで、この銃に親しみがある女性はそれを撃ってみたくてうずうずした。車から暴発した時に備えて、プロテクターを取ってきて私に撃たせてみてと頼んだ。女性は渋々それを承知した。三人は庭に出てガレージのシャッター前にクッションを置き、的にした。

若い女性が狙いを定めて、銃を放った時、銃弾は真っ直ぐに飛んでクッションを貫いた、と思ったが、銃は作動しなかった。

やっぱり、玩具かなにかなのよ、と三人は納得しようとした。そこへ、あの白い大きな獣がどこからともなく、するするとやって来て、唖然としている若い女性の手から銃を取ると、三人の前で銃を空に向かって発砲した。

銃からは白い羽毛が飛び出した。

三人の女性は頭上に舞い上がった羽毛が太陽の光を浴びて、自分達がおもっていた以上の白さをもって空を舞うのを見ていた。白い獣も静かにそれを見ていた。それから、獣がもう一発、女性たちが二発ずつ、発砲して銃は空になった。

それから、彼女たちは家に戻って三人で本物の銃の方にガンロックをかけた。無くしたかも、と伝えると友人が新しく買ってきてくれた。いざ、友人が鍵を回すと、女性は途端に不安になった。「本当のところ、大丈夫なの?」友人は訊いた。

「大丈夫なんかじゃないかも」彼女は答えた。

「でも、まあ、鍵はあるし」いつだって開けられる。とりあえずは。これなしの生活と自分に慣れなくては。


同じ頃、頭を負傷した男性は病院で意識を取り戻して、枕元にピーナツバターのサンドイッチがパサパサになって置かれているのを見ていた。小枝が挿してあって、それは、良く分からないけれどいつからか自分に懐いている白い獣のやることだった。

それから、また別の場所で、ある母親が死のうとしていた。昼間からカーテンを閉めて、長い間、シーツも代えていない固いマットの上で殆ど死んでいた。今日こそ枕を頭に押しつけて、自分の頭を吹き飛ばしてしまいたいと思っていた。

そろそろ夏が来て、あちこちで花火が上がるだろう。そんなものを耳にも目にもしたくなかった。私は一体どうしたらよかったのだろう?

暗い部屋の中で、目を閉じると幼い息子と青空の下で白くて分厚い雲が黒くなっていくのを見ていた。夏のはじまりのことで「雨が降るよ!!ママ !!」と息子は笑っていて、私達はずぶ濡れになったって構わないタイプの親子だった。それが、いけなかったのかもしれない。

その思い出の中によくわからない白い獣が出てきて傘を差しだしてきた。私は差し出されたその傘の中に入った。息子はもう居なくなっていた。

雨は降らずに、空は予想に反して晴れてきて、何処かでクラッカーが鳴らされたのが聞こえた。一度ではない。何回も。青い空に祝福の白い羽が舞って、太陽の光を吸収して白く輝いた。何処かで女性たちが楽しそうに笑っているのが聞こえた。

白い獣はその間、ずっとこの母親の手を握っていた。誰も悪くなかったとは言わなかったが、居てくれるだけで少し落ち着けた。



ああ、何もかもが「はじまる前」に来てくれたら良かったのに…。母親がそう思った瞬間に傘は消え、空は消え、羽は消えて、美しい獣も消えて、黴臭い暗い部屋に彼女は独りで残されていた。息子は死んで、多分、その死は喜ばれている。誰かの、多くの女性の安堵を引き出している。それはそうに違いなかった。それは、正しくて、正しかったけれど、彼女は泣いて、泣いたところでどうしようもなかった。どうしようもなく、彼女たちは悪くなかった。ほんとうに彼女たちは何も悪くなかったのだから。何も何も悪くなかった。それだけが、事実であって、他のことなど糞にたかった蛆虫の吐き出す糞よりも価値もなければ意味もなかった。ただ、彼女はその蛆虫を愛しすぎていて(この母親は彼女なりに息子を愛していた)、たわごとに耳を傾けすぎていた。それは、愛ではなかったのかもしれない。面倒くさかった訳ではない。いつからか、母親も蛆虫(いや、息子を)を少し怖いと思っていた。彼の死は母親である彼女にさえかすかな安堵をもたらした。けれど、彼女は心の底から息子を愛していた。そんなことはもう「はじまる前」も「終わった後」も関係なかった。

こんな低能(と彼女は思っていた)の叫ぶ愛をすくい取る義理は誰にもない。本当にない、とこの母親は思っていた。無関係な距離にある人が(本当はそうではないのだけれど、彼女はそう感じていたのだから仕方が無い)美しさを投影して作り出した救済システムの梯子なら世界中に輝かしくそびえ立っていた。何本も。ただ、それを昇るのは自分だ。この母親にはその力が自分にはもう残っていないと感じていた。

愛を定義せよ
状態を確保せよ
実践せよ
窓辺にいた蝿が笑った。

おまえの口に出す愛なんてうんこなんだよ
おまえが息子を走らせた

軽々しく愛を口にするんじゃねえ
愛なんておまえにゃもったいない
怠け者のカスが、、、
愛したい
誠実でいたい
優しくいたい
したいたいたいたいたいばかりの糞どもが
したいって言っとけば、少しは箔でもつくとでも思っているのか

誠実さを歌い、自分の弱さを免罪符にしている詩人かぶれの糞どもは胸に手を置いて、自分の傲慢で腐りきった脳みそとやり方、生き方をまわりの大人にどう見られているのかまっっっ直ぐに見詰めてみ……みみ……やが



喋りすぎる蝿を白い獣がつまんで、窓の外へと逃がした。

親切なことをいえないのならせめて黙っていなきゃいけない、と白い獣は思っていた。

だから、部屋中に沸く蝿を白い獣は一匹ずつ外に追いやって、夕方にはあの彼女のところへ行ってサンドイッチを貰って、友達の見舞いにいき、また、夜になるとこの母親の側にやってきて、この母親が死ぬときにも側にいて手を握っていた。この母親が死ぬよりずっと前に、彼女を傷付ける蝿はこの母親の内部に膿んだ傷から湧いているのを白い獣は突き止めた。それを、すっかり取ってあげる、と獣は言った。けれど、母親はいい、と断った。このままでいい。このままでいい、と彼女が思った時から蝿はあまり姿を見せなくなって、彼女の髪が獣と同じくらい白くなった時に彼女は死んだ。

死ぬまでに彼女は学んで、総勢1583人の親のいない子供達の為に、食事を作り続けた。それでも、結局のところ、どの子よりも自分の馬鹿な息子を一番愛していたし、どの子にも安全に安心して成長して欲しいと願っていたから、毎晩泣いてはやく本当に赦されたいと思っていた。毎晩、白い獣はやってきていたけど、彼女に毎回見えていたかどうかはわからない。

彼女が死んだ時に、彼女の関わった子供達は泣いて、彼女の 息子だけがいなかった。居たら泣いては居なかったかもしれない。わかるよね?  







彼女が死ぬまで抱えていた息子への愛を、まわりの人達がどう思っていたのか本当のところはわからない。誰かの気に入るように愛したり愛されたりは機能しないらしい。間違っているように見える愛はまわりの人の居心地を悪くする。時に怒りも呼び起こす。間違っているように見えるだけなのか、真剣に本当に間違っているのか、愛に間違いなどないのか、この母親にはもうわからないでいたし、本当のところなんて本当は誰もわからなかった。ただ、見世物でもないのに、愛し愛されている様はよいものに見えるらしいし、心地よくさせるに違いなかった。彼女の息子への愛は隠しているにもかかわらず、まわりを不快にさせた。それは、彼等の守りたいものや成長すべき姿とは逆の性質を孕んでいて、彼等は長く生きていて、許しや寛容や忘却について、愛と依存と執着の違いなんかについて彼等自身、格闘しすぎてつかれていてたのかも知れない。口に出される何かより、もっとざらりとしたものをきちんと感じ取っていたのかもしれない。

嘘つきって、嘘はついてはいないと思っている嘘つき程、ぞっとさせるものはなかったりするからね。まあ、そんな人達は、まわりを見渡せば溢れかえっているし、できることはマンホールの蓋が飛んできた時に華麗によけるくらいの距離感と余裕であって、余所の下水管の詰まりを治してまわるには、この母親のまわりにいた人達はちょっと生活に追われすぎて疲れていた。そうでない人は沢山いるにしても。




最初は少し奇妙なだけで、少し違っているだけで、皆、多かれ少なかれ同じだと、彼女は思っていて。この話は彼女の息子が蛆虫のまま死んでいって、母親はそれでも愛していて、その愛というのはなんだったのか、わからないまま彼女はそれを抱えたまま死んだというだけのこと。長々と読んでくれてありがとう。

で、この母親は愛してるものを殴ったりしたし、言葉に責任を持つってことを、あまり出来ない人だった。息子が実際にあれをはじめて、彼女より先に死ぬまでは。まあ、死んだらできないしね。過激で過剰になるのも人らしくていいとか、自分は弱くて繊細だから、「そう」なってしまう時もあるという感じの自分の認め方や愛し方をしてきている人で、彼女はそういったことが、自分自身に「誠実」であることのしるしであって、他の人の感情を抑圧したように見える上品な生き方はお高くとまって嘘をついていると思うタイプの人だった。だから、蝿の言い分は、割と的を得ていた。そう思わない?

私はそう思ってる。自分に誠実であるって一時の感情に身を委ねることではない。




誰も居なくなった部屋で

彼女、この母親の息子のかいた絵にはびっしり黴が生えていて、清掃業者が全て綺麗に処分した。絵は焼かれて煙になった。




7月になって、プールには水が張られて、あちこちで水飛沫があがった。花火も上がる。汗をかいて、風にあたると身体の輪郭がはっきりする。太陽が眩しくて、皮膚がちりちりした。煙は夏の空の中にすぐに溶けて消えていった。みんな、夏に夢中で、暑さにくらくらして、不平不満を吐き散らしながらも、元気にアイスを食べて、張り付く髪をかき上げながら、見たいものを見ていて、夏はどの季節よりも眩しいから、小さな煙がひとつ立ちのぼって消えていくのに気がつく人はいなかったし、ましてや、見守る人は誰もいなかった。

白い獣でさえも、プールの水底に沈んで色んなものがゆらゆらと輝いてるのを夢中で見ていて気持ちよくなっていた。

ただ、あの黒いラブラドールだけが、クーラーの効いた部屋の中から、ずっと空を見上げていた。
































































































































































































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