落書きなのか、なんなのか
慌ただしいランチタイムの後、客の去ったテーブルのトレイの下にノートの切れ端が残されていた。落書きなのか、なんなのか。特に店で働くバイトに宛てたラブレターの類ではないのは確かだった。ノートの切れ端に書かれていたのはこんな具合のことだった。
・ノートの表
川に間違えられたご婦人には是非とも会ってみたい。大きな人なんだろうか。背の高い人なんだろうか。彼女は多分、青いワンピースを着ていて、その中を鱒は通過していって、川の流れのきらめきを全部をうつしているように見えたのだろうか。
そうではない、とその人は答えたらしいけど、ほんとうはそうだったのかも知れない。川より川らしい水流を持った人は多分、世界中に何人かはいるはずだし、自分のことを川だと思って暮らしている人も多分いるんだろうから。自分のことを馬だと思い込んで楽しく暮らしてる人もいることだし。
昨日、あった子はサクランボよりサクランボしていて、それで、可哀相なことに、それ故に、その子は他の色々な子に足を引っ張ってやりたいと思わせるような光りかたをしていて、悲しいけれど、それを含めて本人は得意になっているらしかった。
川の女性は清潔であって轟音を立てて爽快な流れを持っていて欲しい。だけど、サクランボであって、サクランボぶってるわけではないあの子の方は、割ともうすぐ光を失って崩れてしまうらしいことに本当のところ怯えていてかわいそうだった。その怯え方には行き止まりがあって少し暗かった。
得意になって、光って
誰でも光るのに
得意になって馬鹿みたい
とか色々言われて。
でも、その女の子は悩みながらも輝いていた。陰口を叩きまくっていた子も輝いていた。若さってそういうことみたい。
でも、そんななら川のほうがいいなと思いながら寝ます
・ノートの裏
川になりたい。私は今日から川になろう。
川はどこまでも流れて行って行き先なんてわからない。海に行き着くのかもしれないし、太陽に焼かれて雲になるのかもしれない。濁流になってまわりを削ってまわるのかも。誰かを潤すより、巻き込んで悲しませることの方が多くなる?
でも、流れているのが川ならば、
止まってはいけない。
流れて流れて魚を人を土を石を砂利を死体を受け入れて、時々、水鳥が浮いて生き物が来る。色んなものに混じり、直ぐに別れながら、流れて、その間、ずっと、川でいる。水ではなくて、流れているから川なんで。記憶だけ持って流れる川。
変化と動き。進むだけ。記憶をひきつれて。それが生きていることなんでしょうか?
給料日まであと2日、ガス、水道
───カフェで働いているとたまにおかしなお客さんが来る。多分、近所の服屋かなにかで働いているアルバイトさんで、その店の休憩中にやって来ているだろう女の子が書き残していったと思われる落書きだかなんだか良くわからない文は支離滅裂であの子はこの先大丈夫なんだろうか? と思わせるものを秘めていた。前回は、巨大な湖に住む生物について。そして、怪獣と恐竜の違いをわかっていない人達の話だった。またある時に、彼女はロックについて考えていたようで、ロックと思われているけれど、断じてロックではないことについて彼女の持論を並べたてていた。また、いいまつげやシャンプーについて。黙るべき時と口を開くべき時の違いと自分の持つ声の幼稚さと、それを、恥じる気持ち。それでも、放たれたがる言葉たちと勇気を持つべきか、否かについて。今日の文は、辛うじて、ああ、もしかして、アメリカの鱒釣りを読んだのか? と思わせる節があった。成る程ね、あの川に間違えられた女性ね…。
うちのバイトの男の中に彼女のとんちきな文を楽しみにしている奴がいるので、俺はその白いノートの切れ端をレジの横に差し込んで、アメリカに流れる川のことを考えながら溜まった皿を洗浄機に詰め込んだ。
大きな川。
小さな川。
…水の流れの輝きの中に、更に輝く鱒を見るのはいい景色のひとつに違いない。川となって鱒と遊びながら流れていくのはさぞ気持ちがいいことだろう。今、豪快に洗われている皿と同じぐらい気持ち良いことだろう。
でも、娘さん。川に間違えられた女性には家も暮らしもあって、そんな川のようにさらさら流れてはいけないんだろうと思うけれどね。それでも、そうだな、濁ることなく、淀むことのない豪快な川の水流を持っていて、いつでも新鮮にこの世界に存在しているように感じさせてくれる人はたまにいて、そういう人に会うと清々しい気持になるよな。
そういうのは生まれつきなのか、後から身に付けたものなのかはわからないけれど。身に降り掛かった不幸や悲しみを煮凝らせることなく川の中へ流してしまえているような、さっぱりと澄んだ雰囲気を持った人はたまにいて、そういう人の側には綺麗な空気が流れているような気がする時はある。殆どの場合、それはこちらの思い違いで、俺達は結局のところ同じような心を持って同じような忌々しい経験をしながら、空気を吸っては吐いてるだけで、、、。いや、同じではないと思わせる人は確かにいる。
俺のように、流し流されるのが不得意であると、色々厄介なものを抱えて暗くて重い淀みそのものになっているような気になる。この店にしてもそうだ。不安に淀む時がある。そういう時、俺は自分の好きな音楽をじゃんじゃん流して、身のまわりにある物を磨きあげることに集中して、なんとか、気分を誤魔化しながらここで足踏み的なステップを踏んで時間が過ぎるのを待つしかない訳なのだけれど。
君は流れて流れて、元気な魚みたいに色々なところを泳ぎまわって跳ね回って、世界に煌めきを足してくれたまえ。
その世界が安心で安全で悪くない場所であるように、おじさんはとりあえずこの持ち場を守っていくよ。
生きていくことはわからない。記憶は曖昧で我が儘で、自分がコントロールしている領域はほんの僅かで、コントロールされていることが殆どだ。10年前に愛した人、憎んだ人は、もう姿形も朧気で、それでも、此方の気の弱った隙を突いて明確な輪郭と時間と体温と音を持って目の前に現れる。俺は目を閉じて受け入れない。音楽の力で押し流す。酒を飲むのはやめたから、慣れるまではしんどかった。かなり、しんどかった。
ただ、失われた、もう会うことの出来ないあたたかい人達が現れて俺を悲しませる時、それはそうだな、一方通行の川の流れの中でなく、もっと複雑な方向に伸びて縮んで張り巡らされている世界の中にある流れを堰き止めて、許されるだけそこに居たいと思うことはある。けれど、気がつけば、時間は流れ、朝が来ていて、俺はこの店の鍵を開けて、ここに居る。いつかあちらに流れていく時まで、、、(多分)ここに居る?
そんな事を考えていたら、店をバイトに丸投げして、俺も何処かへ流れて行きたくなった。が、俺には幸運なことに家に帰れば猫が居た。
猫と暮らしていたら、わかる。
猫を一匹にして置いてはいけない。
猫は俺に正しい流れにいることをわからせる羅針盤で、正しい場所に留まる為の重い錘(いかり)で世界を凝縮した命で全ての悲しみよりあたたかい存在であった。あんなに小さなけものなのに。
そうだ、だから、それで、この話は終わり。
猫と一緒になら何処にでも行ける。けれど、多分、猫はそれを好まない。
訊いてみないとわからないが。
愛があれば。皿を拭きながら俺は考えた。
愛を注ぐ対象があって、注がれる側がそれを受けとめ、受けとめられることがよろこびである時、あの女の子の趣旨とは少しずれるかも知れないが、記憶も前進も超越して、その時しかなくなる。目指す場所も行き着く場所もなくなって、今、居るこの場所が大切なものになり、愛する存在の為にこの場所が安全で、心地良くあればいいと思うことに集中するようになる。
勿論、また別れはくる。その時だな。記憶が前進を助けるのは。記憶が俺をあたため勇気づける力を持つには。今、俺が猫を愛し、猫のしあわせの為に尽くしきること。それが、出来なければ、ああ、記憶は味気なく、抱く価値のない、俺を責め立てるだけの重い鎖となって、俺を時の流れの底に沈め、窒息させにかかってくるだろう。
記憶をひきつれて、尚かつ、軽快に川となって流れていきたいと願うなら愛さなきゃいけない。相手が望むものを与えなければならない。それだけがコツで、軽やかであるにはそれしかいらない。なんでもいい。愛するものと出会えたら、相手の望むような愛し方を見つけて、ジャブジャブと与えて、、、。
いや、それが出来ていたら苦労はしない。猫という生き物が特別なのだ。人に、これは当てはまりっこない。人は複雑で、複雑なものは複雑なままにしておけばいい…。
後日、バイトが彼女の勤務先がはっきりとわかったというので、俺は彼女の忘れ物を彼に託した。彼は勤務時間を終えるとその店へ彼女の忘れ物を届けに行った。彼女は返された紙の束を見て、真っ青になったあと、真っ赤になって、真っ赤を通りこして、どす黒い顔色になり「まさか、読んでないでしょうね?」と凄い目つきで睨んできたそうだ。
バイトの男の子は礼儀正しく、読んでないと言い切って、帰りに本屋に寄って、最近、彼女が熱中しているらしい作家の本を何冊か手に入れて(本人に直接聞いたわけではない。彼女が忘れていった落書きの隅にさっさっと書かれていた)、帰り道、笑いを堪えるのに必死だったらしい。
生きていることなんでしょうか?
進むだけ。記憶だけをひきつれて?
な、訳ないだろう? バイトの若い男は思っていた。それが、出来る人達もいる。でも、俺達の殆どは過去に呼ばれ、振り返りもしなかったのに強引に肩を腕を掴まれて揺すぶられ、時に「自分」の犯した過ちでさえないものを背負い込み、地べたを這うように、目の前に現れた物を必死に掴みながら進んでいく。差し出された手が決定的に間違っていることもあれば、強固な綱だと思ったものが、綿飴よりも柔(やわ)いこともある。綺麗なものは汚くて、汚いものは綺麗、でなく汚かった。美しさは意図や意思もなくて、ただただ強力な力だけを持って俺らの目を惹いた。それで、俺らは目を惹くものが美しいものだと勘違いして、目を引いた糞の山を美だと勘違いを起こし敬意を払いはじめる有り様で。
何が川になるだよ。
そんなきれいごとで、世を渡っていけるかよ。そのバイトの若い男は腹立だしく思っていた。その川にションベンしてやるぜ…。とまで思った。
でも、その実、彼も鷲のように広い世界の空を飛び回り、乾いた大地を駆け回る馬になりたいと願わずにはいられない詩人のひとりだった。想像力では太刀打できない現実に少し憂え苛立っているだけで。
それで、彼は彼女よりいかした「川」になって、世界を潤してやると意気込みを新たにして、夜に本を開き、その世界へと入っていき、その世界の中に自由に流れまくるあの女の子の姿を認め、チッチッチッ、と苛立ちの舌打ちを連発した。
大人にはわかる。同族嫌悪と願望憎悪。
離れたところから見れば、彼等は同志で、些細なことを比べ合って、一喜一憂、落ち込んだり争ったりする必要なんてないのに。
でも、彼はまだ気がついていない。
「自分」だけの、作家と自分だけの矢のように真っ直ぐに此方の胸に飛んでくるはずの世界が奴(彼女のことだ)に邪魔された、と勝手に思い込んで、苛立った。
離れた立場から見れば、どんぐりの背比べ程の微笑ましい嫉妬、自分だけにわかる感覚や感性を横取りされたかのようなつまらない焦燥感であった。これは、不思議なもので、最初から気が合っていれば、若しくは少しばかり憧れや尊敬が入り交じる相手であれば、同じ感性を持つ仲間に出会えた喜びを彼にもたらしたのであろうが、何せ、彼は彼女を若干見下していた。苦労知らずの女の子がお洒落感覚のお遊びのつもりで自分の戦場へやって来て、自分の真剣を茶化されたような気がしていた。
ということで、彼は自分でも気がつかぬ間に彼女をライバル視するようになり、、、落書きとは言わせないようなものを書き上げようとノートにPCに向かって目の血管から血が噴き出しそうなくらい書きまくった。
同じ頃、彼女と言えば、落書きなのかなんなのか自分でもわからない言葉の数々を見知らぬ人に読まれたことの恥ずかしさで憤死しそうになっていた。
でも、
川になるって、決めたから…。
彼女はベッドに横になり、川となって何処までも流れていく自分を想像し、川となった彼女は上空に飛ぶ鷲の雄大な姿を見て、ああ!! と感嘆した。
川の流れは速すぎて、
ああ!!
一緒にいられない
遊べない。
それで、彼女は起き上がり、机に向かってノートを開き、特に誰に見せるでもない新しく胸に湧いた考えを書きとめていった。
それが、開かれれば、(彼女と同じような人達は沢山いて)、それは小さな水滴ほどのものでも、寄り集まって豊かな水源となって、世界の何処かへ流れていって巨大な湖となり、そこで、彼女は泳ぐ。若しかしたら、鷲になりたい彼もやってくるかもしれない。
彼等は泳ぐ。
魚のように自由に。
自由を潤す水の中で。
それは、まだ先のこと。
今は落書きなのか、なんなのか、彼女/彼にはわかっていなかった。それが、ものになるのか、ならないのか彼等にはわかっていなかったが、それでも、既に水流はできていて、彼等の胸の中、魂の中をものすごいスピードで駆け巡っていた。
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