ワルシャワ滞在雑記4(完)
案の定8月中に8月の滞在について書くことができず気づけば9月の後半である。帰国直後のフレッシュな記憶はすでに遥か遠く、写真を頼りになんとか当時の自分が感じたこと、考えたことを捻り出して最終回としたい。と言っても8月は1週間しか過ごしていない。あんまり書くことないかもしれない。
8/1
「Godzina W」(Wの時間)と呼ばれる集いを見学に、ワルシャワの中心街へ繰り出した。この日は1994年8月1日から同年10月3日までの63日間に渡り続いたワルシャワ蜂起の記念日。ポーランド国内軍、レジスタンス、市民がナチス・ドイツに対して起こした反乱だ。
この蜂起を支援する手筈だったソ連軍はしかし進軍を一時停止し、当初の約束通りの援護を行わずドイツ軍とワルシャワの戦いを静観することにした。ポーランド側にはソ連進軍停止の情報は伝えられないまま、8月1日の17時ちょうど、蜂起が開始された。ソ連軍の裏切りにより戦況は悪化、赤軍の支援はないと判断したドイツ軍は蜂起を残虐に鎮圧し、ワルシャワは徹底的に破壊された。ポーランド側の死者は推定20万人以上にのぼると言われ、鎮圧後は70万人の市民が街を追われた。失敗に終わり、ワルシャワの再建には長い年月を要したが、自由を求めて闘い抜いたという意味で、独立後の市民たちにとって非常に象徴的な出来事として語り継がれている。
「Godzina W」は、毎年17時に1分間非常サイレンが鳴らされ、公共交通機関、自動車、歩行者がその場で一切の動きを止め、黙祷を捧げる恒例の行事である。
駅を出るとまるでお祭り状態であった。主要な信号はすでに止められており、その下を大小の国旗を肩に担ぎ、文字通り大通りの端から端までを埋めるほどの数の、多くの人々が同じ方向へそぞろ歩いていく。国旗の色である赤白のワンピースやアクセサリーを身に纏った女性や少女たちも印象的であった。
始まりは厳粛な追悼行事だったのだが、近年は保守派団体、極右団体が同時にパレードや演説を行うため、爆竹や発煙筒を手に参加する者も多く、思想を異にするリベラルな市民は現状を嘆いている。自分たちの親、祖父母が尊厳と自由のために闘い亡くなっていったことへ敬意を示すことと、彼らの犠牲を現在の歪んだ愛国主義排外主義の政治的主張に利用することと混同するのは、部外者である私も違和感を禁じ得なかった。
私は広島出身の被爆3世であるが、今年の追悼式典中に起こったデモに憤る同胞のニュースを見て、この日のことを思い出した。私はデモを起こしていた人たちの主張には概ね賛同の立場であるが、憤る人々の心情もわかる。政治的主張は押さえつけられるべきではないが、犠牲者たちを、ただ悼む時間も、尊重されなければならない。戦争の被害から学ぶのなら、悲劇を繰り返すなという思想を受け継ぐなら、右も左もただ分断を煽るパフォーマンスに終始していてはならないだろう。
夜は友人たちととある映画を見にいった。1944年、ワルシャワ蜂起中の実際の映像を編集した映画だ。元は国内軍のプロパガンダ用に撮影されたものなのだが、戦況の悪化に伴い当時の民間の惨憺たる現実を伝える貴重な資料となった。この資料を単なるドキュメンタリーとして編集したのではなく、色付けを施したり、人々の口の動きから予測される音声なども付け加えたり、また撮影者二人の会話劇を創作し二人の心理的な変化を中心に軽くストーリーもつけられ、より当時の記憶を持たない人にでも共感を呼ばせるような工夫がなされた作品だった。瓦礫の街で人々がどのように生活しているか、克明に刻まれた映像だった。ソ連軍の支援があることを疑わない当初の、蜂起に参加する若者たちの笑顔や日常の余裕が感じられる雰囲気が、どんどんと烟っていく。積み上がっていく無修正の死体、ドイツ兵捕虜への市民の剥き出しの攻撃性、破壊の限りを尽くされる市街地。ストーリーは少々くどい部分もあったが、実際に当時あの場にいた人々の表情、息づかいが感じられる、内側から撮影された映像の持つ説得力を痛感する映画だった。不発弾から火薬を回収し、若い女性たちがせっせと火炎瓶を作っていたり、埋葬時に材料がないため使い終わった手榴弾4つで十字架を作っていたり、ブカブカの軍服をきてライフルを背負って遊んでいる年端も行かない子供たちなど、本能的にあってはならない場面を目にした気持ちにさせられて、苦しかった。
8/2
友人と夫と3人でトルンという街へ観光に出かけた。コペルニクスの故郷である。中世からプロイセン領内であり、1939年にはドイツ軍に占領され戦闘地からも離れていたため、中世の街並みを失うことなく1997年には旧市街が世界遺産に登録された。どうでもいいが私はToruńのńがうまく発音できていないらしく、同行者に何度も笑われた。「に」と「ん」の中間の音。母音が目立ってもダメ。ポーランド語には他にももっと発音が難しい文字はたくさんあるのだが、よりによってそれらよりもńが言えないというのは向こうにとって予想外だったらしく、めっちゃウケてた。すごく嬉しくない。
旧市街に入る前にSkansen(野外博物館)があり、2時間も過ごしてしまった。今はもうほぼ野外博物館以外では見ることのできない古い村の建築や雰囲気を味わえる。
気を取り直して旧市街へ移動。本来の目的地だ。プロイセンな中世の街並みに、ワルシャワ出身の夫と友人は、いつものお約束「綺麗な建物残っててずるい」をボソボソ言ってる。いや、別にずるくはないだろう、運が良かっただけで…。
ぶらぶらと旧市街を散策しただけの1日だった。帰りにトルン名物のジンジャーブレッド、ピェルニキ(Pierniki)の老舗でお土産を買った。最近カルディにもたまに売っていて在日ポ人をざわつかせていた。ふかふかした食感が良い。
8/3
義母の両親の墓参りへ、家族全員で出かけた。これまで義母と夫と3人で出かけたことは何度もあるが、義父も一緒にというのは初めてだった。彼はあまり外出が好きではなく、早朝のスーパーへの買い出しと、たまの友達との飲み会や、友達との年に一回の湖への旅行以外は家で家事をしているのが好きな人なのだ。一度だけ、家から徒歩5分のレストランへ義父と夫と3人で出かけたことはあるが(義母が苦手な内臓料理を食べに行った)、4人で車で遠出は初めてで、なんだか嬉しかった。
ポーランドの墓地はなんだか明るい。猫が幸せそうに何匹も寝ていた。
軽く墓の掃除をしたあと、近くのグルジア料理の店で昼食をとり、食後は義母の生家の近くを散策した。子供時代のことをあれこれ指し示しながら語る義母についていきながら、なんか、いいなあと思った。日本への帰国前に、4人でゆっくりとお出かけができて、改めてこの家族に受け入れられている実感をなんとなく得たのだ。
8/4
家で過ごした。夫と将来について色々と話し合った。移住のこと、子供のこと、仕事のこと、戦争のこと。自分の家族観と、夫の家族観の違いで、たまに衝突する。閉塞的な家庭でコミュニケーション不足な環境で育った人間の抱える不安と、素朴な人間愛と幸せをベースに育ったシンプルでおおらかな楽観性、そりゃぶつかるのは当然なのだが、たまに本当にハッとさせられる。自分の悩みや苛立ちや不安が、本来全く必要のないものだということが、夫家族と過ごしていくうちに、徐々に感得されてきた。
彼らが口にする温かい人間愛に根ざされた言葉と同じことを、私の家族には言えないだろうことが、とても悲しくて、孤独を感じた。私の家族が、夫の家族のような関係性に、いつかなれたらいいのにと、毎度悲しくなる。できるはずなのに、なんでできないんだろう。誰の目線で、私たちは何に怯えて、自分の思い通りに振る舞えず、傷つけあっているんだろう。
8/5
ショッピングモールにお土産や持ち帰りたい用品などの買い出しに出た。主に食品だが、美容好きな義母はコスメはいいのかと何度も聞いてくる。今回はコスメはいいからちょっとアクセサリーとか見たいなと店に一緒に行った。あまりピンとくるものがなく、たいして買わずに帰宅したら、しばらくして義母が部屋に大量の使わなくなったアクセサリーを持ってきて、好きなの持ってけ祭りが開催された。ありがたくたくさん譲り受け、毎日の仕事につけていっている。実母とこういう女子っぽい絡みはあまりなかったので、義母とこういうことができて、結構嬉しい。
8/6
のろのろと荷造りをして、猫たちを撫でくりまわす。
義母とベッタリの黒猫は、私たちが帰国してから悪性リンパ腫が見つかり、どんどん衰弱、つい先週息を引き取った。これが最後の別れになると全く思っていなかったので、この日の写真を見返しては辛くなる。
8/7
出国日。夫の実家は空港から程近く、時間的にはいつも余裕なのだが、今回は初めての事故、空港に着いた時点ですでにカウンターが閉まっていた。まだ搭乗時間までかなりの余裕があるはずなのに、閉まっていた。その場にいる係員に話を聞くも早めに切り上げるよう指示されたとかで、残念ながらもう無理だと言われた。私たちの他にも同様の事態に陥っている搭乗客がもうひとり、彼は並んでいた目の前でカウンターを閉められたという。そんなことあるの。3人で途方に暮れていると1人だけ親身になってくれる係員がいて、彼の助言に従い、空港内を走り回り、なんとか乗れることになったが預け荷物を機内持ち込みにする必要があり、急いで液体物を取り出した。義両親が来てくれていたおかげで、ゴミ箱に捨てずに済んだのは不幸中の幸いだったが、荷物検査を抜けるまで生きた心地がしなかった。
トラブルはあったものの無事イスタンブールへ到着、前回と同様に無料ツアーに参加し無事日本へ帰り着いた。
滞在雑記、ようやく全日振り返りできた。
駆け足の8月。ワルシャワ蜂起の重い余韻を抱えていたせいかせっかくのトルン観光の印象が薄い。グルジア料理の写真もなんで撮らなかったんだろう。ヒンカリはもちろん頼んだスープも美味かった。
義実家で過ごす度、彼らの関係性を羨ましく思う。
会話がある。コミュニケーションがある。信頼がある。無条件の愛がある。
言葉の問題で馴染みきれてはいないのが毎度歯痒いが、彼らと一緒にいたいと思う。
自分の家族との距離も、彼らを見習ってほぐしていきたい。
その方法を近くで学ばせてもらっている気分になる。毎回それが目的で滞在しているような気がする。
仕事がうまくいけばまた冬にワルシャワへ戻る予定だ。次回も簡単に記録に残して、自分の考えたことをもう少しちゃんと言語化できたらなと思う。
もう少し抽象度の高い内容を。異国で過ごして、具体的にどんな変化を自分の中で感じているのかなど。
そして今はただワルシャワの湿度のない夏が恋しい。
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