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クスノキの下で、逢いましょう。

 最後に一度だけ逢えるとしたら、あなたは誰に逢いたいですか?

 ありふれた日常の中で出会った、紗羽と陽太。

 二人が出会い、恋に落ち、今はもう、隣には居ない理由―――

 そして、二人に起きた奇跡とは――――


 
 ――――紗羽。
 もう少し早く、勇気を出していたら。
 もう少し長く、一緒に居られただろうか…
 
 あの日、別の選択をしていたら。
 ほんの少しだけでも、運命は、変わっていただろうか…

 ピピピピ、ピピピピ、ピピピ―――――

 目覚ましのアラームが、朝を告げる。
 気怠い身体を何とか起こし、寝室のカーテンを開けると、呆れるほどの秋晴れの光が、部屋一杯に広がる。
 キッチンで珈琲を入れる準備をし、テレビの電源を入れると、ランキング順に、芸能人の結婚発表や、明るい話題のニュースが、アナウンサーの口から次々と発せられている。
 それと対比する様に、私は、空虚感にさいなまれている。

 電気ケトルでは、お湯が湧く音が大きくなり始め、あっという間にレバーが跳ね上がる。
 私は、ニつのマグカップにセットしたドリップ珈琲のパックに、お湯を注いだ。

「おはよう、陽太」

 精一杯の明るい声でそう言って、リビングのキャビネットの上に飾ってある陽太の写真の横に、グァテマラの香りと湯気を漂わせながら、両手に持ったマグカップのうちの一つを置いた。


 
 陽太と出会ったのは、六年前の春だった。

 私は大学を卒業した後、医療機器メーカーの会社に就職した。
 新入社員研修で、隣の席に座った男性が、陽太だった。
 新入社員研修では、社会人のマナーについては勿論、特殊な場面で扱われる機器であるため、人体の基礎についての研修も多数あった。
 自分にとっては未知の内容で、学生気分も完全に抜け切れていなかった私は、一日目で、既に折れてしまいそうだった。
 その日の研修が終わり、会社を出てすぐ、
「あの、すみません――」
 と、後ろから、声を掛けられた。
 振り向くと、隣の席に居た、陽太だった。
「お疲れ様です、すみません、呼び止めて」
「あ、お疲れ様です。大丈夫ですが、何でしょうか…」
 何かあったのだろうかと疑問に思いながら返事をした。
 返答しながら、私に向けて伸ばしかけている陽太の右手に目をやると、スマホを持っていた。
「これ、忘れてましたよ――」
 陽太はそう言って、スマホを持った右手を、今度は完全に私のほうに差し出した。
 気付くと、陽太は僅かに息が上がっていた。「あ…ありがとうございます!助かりました」  
 いつの間に落ちたのかな、そう考えながら、スマホを受け取りつつ、頭を下げた。
「いえ、間に合って良かったです。それより…研修、疲れましたね」
 そう言って、陽太は少し笑った。
「本当、疲れましたね」
 私も少し笑って、答えた。
 
 そこから、駅までの道を一緒に歩いたが、駅に着いてからは、乗る電車も同じだとわかり、どちらからともなく、お互いの、他愛もない話が始まった。
 何故だか、話が止まらなかった。今乗っている電車が、帰宅ラッシュだという事も苦にならない程。
 勿論、周りの迷惑にならないよう、声のトーンなどにも配慮していたが、それでも、終始会話の止まらなかった私達は、おおよそ、迷惑な乗客だったかもしれない。
 
 お互いに驚いた事は、同郷であったことだった。
「こんな、ドラマみたいな事って、あるんですね」
 同じような考えが浮かんだが、口にできなかった私と、口にした陽太。
 一瞬、間があった後、陽太と私は笑い合った。
 
 陽太は知らないだろうけれど、この時、私が本当に驚いていた事は、高校も大学も女子だけの、異性と関わることの少なかった私が、自分の降りる駅が近付く頃には、もっと、陽太と話していたい、と思った事だったんだよ――

「スマホ、本当にありがとうございました。じゃあ、また明日」
 そう言いながら私は、研修資料などがぎっしりと詰まった重いバッグ全体を抱え、電車内の乗客の隙間を潜る準備をしつつも、陽太の顔を見上げた。
「うん、また明日。帰り道、気をつけて」
 そう返してくれた時の陽太の、人懐こそうな、優しい笑顔が、社会人一日目で既に折れかけていた心に、温かく、沁み込んでいった。


 
 社会人一年目は、中々に忙しかった。 
 OJT研修のため、先輩と共に医療現場での製品説明、保守対応、その他業務で、毎日が目まぐるしかった。

「紗羽、お疲れ様―――」
 昼休憩に入るため、社員食堂へ向かう廊下を歩いていると、同期の琴葉ことはが歩み寄って来た。
「さっき紗羽が戻った所を見かけたから、一緒にお昼、どうかと思って。ラインしようとしていたところだったのよ」
 そう言いながら、スーツのポケットにスマホをしまった。
「琴葉もお疲れ様。一緒に会社で食べるの、久し振りだね」
 琴葉は同い年だが、同年代の私よりも、とても落ち着いている子だった。
 社会人になってからは、学生の頃のような友人はできない、と、心の何処かで思っていた。皆、仕事を抱え、自分の生活があって、沢山のやるべき事に追われ、どこか一線をおいて。
 そんな考えは的外れであった様に、琴葉とは、学生時代から一緒に過ごしてきたような錯覚を起こす程、親しくなった。
 
 私達は、社員食堂で人気のある生姜焼き定食、ハンバーグ定食をそれぞれ注文し、席へ着いた。
「いただきます」
 ほぼ同時にそう言って、社員食堂の定食を堪能した。

「ーーそういえば、陽太くんとは最近どう?」
 琴葉は長い指の華奢な手で、カップとソーサーを綺麗に持ち、食後の珈琲を飲みながら微笑んだ。
 
 陽太と付き合い始めるまで、そう時間はかからなかった。
 寧ろ、その方が自然だった。
 私達は、大抵同じだった。
 同郷という共通点から始まり、お酒は苦手なこと。
 その代わり、珈琲が好きで、休日には時折、カフェ巡りを楽しんだ。
 趣味も、インテリアなどの家具を始め、雑貨なども、惹かれるものがとてもよく似ていた。
 そういえば、この間行ったお店では、色違いだったけれど、同じデザインの深皿を持って、レジへ向かおうとしていたっけ――

「紗羽、ニヤけすぎ。聞かなくてもわかったわ。二人共、よく似てるものね」
 琴葉は穏やかに微笑み、ゆっくりと、珈琲を口へ運んだ。



 付き合い始めて二年近くが経つ、八月の終わり――――

「ねえ、紗羽。今度の日曜日、ここ、行ってみない?」
 とある情報誌を読んでいた陽太は、記事の一部を指で囲いながら、キッチンで珈琲を入れている私に見せてきた。
 そこには、一軒の古民家を改装したカフェが掲載されていた。
「わあ……素敵な雰囲気だね」
 一見、京町家の様な造りの、間口は狭いが、奥行きのあるそこは、奥には小さな庭が見えていて、写真だけでも、十分に素敵なカフェだった。
「この記事見つけた時、凄く惹かれてさ。少し前の雑誌なんだけどね」
 確かに雑誌は、半年以上前のものだった。
 入れたての珈琲をゆっくりと飲み始めた陽太は、
「――仕事も慣れてきたし、ここだけは、紗羽とゆっくり、行きたかったんだ」
 そう言って、いつに無く、深く、真っ直ぐ、私を見た。
 
 九月に入ってからも、暑さは変わらず続いていたが、雲はすっかりと高くなり、空気はしっかりと、秋をまとっていた。
 約束の日曜日。
 目的の場所は、電車を降りて徒歩十五分程の場所にあった。
 写真で見るよりも一層、趣のある外観には、入り口の白暖簾がよく映えていた。
 入り口を潜ると、奥からすーっと、心地の良い風が抜けてきた。
 
 すらりと伸びた手足と、バランス良く整った顔立ちに、ショートヘアがとても良く似合っている女性は、
「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」
 と言い、私達に笑顔を向けた。
 開店して間もなくであったため、まだ席には余裕があり、私達は少し奥の、店内を見渡せる席を選んだ。
 メニューを見るよりも先に、私は店内をじっくりと見渡し始めた。
 
 レジ下は行灯のようになっており、客席のテーブルや椅子はバラバラだが、「色」、「形」、「素材」、「質感」、素人目線からしても、どれも調和がとれていて、居心地の良さを感じさせる、魅力的な空間に仕上がっていた。大きな窓際には座椅子席もあり、ちょうどよい目線の高さで、庭を眺められるようになっていた。
 次に来た時はどの席に座ろうかと選ぶ楽しみもありながら、自分の中で、お気に入りの一席を決めたりするのもよい。

「紗羽、口元緩んでるよ」
 思わず両手で口元を覆ったが、そういう陽太も、テーブルに両肘をつきながら、口元を覆っていた。
「陽太もじゃない」
 お互いのその姿に、笑わずには居られなかった。
 
 十六穀米がドーム状に型どられ、メインのチキンのトマト煮、サラダや小鉢などが彩りよく盛り付けられたワンプレートランチを頂いたあとは、珈琲を注文した。

「お待たせ致しました」
 注文した珈琲がテーブルに運ばれてきた。
「ランチは、お口に合いましたか?」
 ショートヘアのよく似合うその女性は、トレーを小脇に抱えながら、言った。
「とても美味しく頂きました。それに、お店の外観も、店内も、どこも素敵で。御夫婦で営まれてるのですよね?」
 と、陽太は答えた。
「そう仰って頂けて、嬉しいです。オープンして、一年近くになりますね。元々、夫婦共にカフェ経営が夢で、主人と共に脱サラしました。四十になるまでには、始めたいなあ、と、思っていたので、思い切って――」
 振り返り、視線を向けた先には、洗いたての食器を丁寧に拭き上げている御主人が居た。目の合った二人は、穏やかに微笑み合っている。そんな二人を見て、とても温かい気持ちになった。
 ここは、二人にとって、大切な夢の証――「素敵な、御夫婦ですね」
 御世辞ではなく、心からそう思った。
「――ありがとうございます。お客様も、お似合いで、素敵な御夫婦ですよ」
 夫婦――
 一瞬、返答に迷っていると、
「ありがとうございます。嬉しいです。…まだ、良い返事が貰えるか、分かりませんが――」
 陽太は、すかさずそう言って、私を見た。
 女性は、満面の笑顔で、
「では、ごゆっくり」
 何故か嬉しそうに、その場を去った。

「――ねえ、紗羽」
 陽太は真面目な表情で、居住まいを整え、私に向き合い直した。
「手を、出してくれる?目を瞑って――」
 え?何、この雰囲気…
 手って、どっちの…?両手…?
 ぎゅっと目を瞑り、恐る恐る、両手を差し出した。
 すると、陽太は、差し出した私の手に、そっと、何かを置いた。

「目、開けて――」
 目を開けると、綺麗にラッピングされた、正方形の物が、私の手の上にある。

「紗羽、僕と、結婚してくれますか?」
 
 陽太の口から、はっきりと聞こえたその言葉は、私をとても驚かせた。
 
 予想外の出来事が、目の前で起きていた。
 中々、言葉が出て来なかった。
 私も、陽太を真っ直ぐ見た。

「―――はい。宜しくお願いします」
 
 秋の、心地良い風が、店内に流れてきた。



――少しだけ冷めた珈琲を飲み始めた時。

「おめでとうございます」

 カフェの御夫婦が足を運んできた。
 どうやら、一連の流れを見られていたようだ。
 すると、私達のテーブルの上にプレートが二つ置かれた。
 運ばれたプレートには、カットされたケーキやフルーツがお洒落に盛られ、粉砂糖やチョコレートで綺麗にデコレーションされていた。

「あの、これは…」
 そして、御夫婦は、ゆっくりと頷いた。
「差し出がましいのですが、これは、私達からの、ささやかですが、感謝の気持ちです。この様に、お二人の、幸せな人生の一部に、私達も居合わせられた事、嬉しくて…。宜しければ、召し上がって下さい。あ、もしかして、甘い物は、苦手――」
「いえ!とても大好きです!あっ…」
 思わず遮りながら答えてしまった時、三人は、笑い始めた。
 一番気持ちが高揚していたのは、勿論、私だったのだから。

 CLOSEのプレートが掛けられ、ランチ時間も過ぎたカフェを出る頃には、既に十五時が回ろうとしていた。
 随分と、御夫婦と打ち解けてしまった私達は、御礼を伝え、必ずまた来ることを約束した。約束などしなくても、私達は、そう思っていた。
 帰り道、駅へ向かう途中にある公園からは、子ども達の楽しそうな声が聞こえた。
「久し振りに、公園、寄ってみようか」
 陽太は、繋いだ私の手を引きながら、公園へ向かった。

 大きな公園では、犬の散歩をしている人や、家族でレジャーシートを敷いて休日を楽しんでいたり、年配の夫婦がベンチに座って、その景色を眺めていたり、様々な過ごし方をしていた。
 私達は、ベンチには座らず、大きな木の下に座る事にした。日差しが眩しく、木陰になっていたから。
 陽太は、バックパックからレジャーシートを取り出し、それを敷いた。
 どこかへ出かける時は、こうして景色を眺めたり、のんびりする事も好きだったので、常に持ち歩いている物の一つだった。
 ある日、琴葉はそれを、「何だか、若い二人のデートじゃないみたいね」と言っていたが、確かにそうなのかもしれない。
 そう言う琴葉は、勿論、嫌味などの感情で言っている訳では無く、私達らしい、という、温かな気持ちから言っていたことは、ちゃんとわかっている。
 陽太は、景色を一通り眺めてから、目線を私に向けた。
「実は、さ。紗羽に、聞いて欲しい事がもう一つ、あるんだ。実はね。俺……俺も、何れ、カフェ経営、夢なんだ」
 力強い、目だった。
 でも、これに関しては、陽太には予想外だろう。私は全く、驚かなかった。陽太は仕事ができて、周りからの評価も、訪問先からの評判も、とても良い。真面目に仕事に向き合っているし、見ていて心配になるほど、手を抜く事もない。
 でも、いつも、もっと違う先を、違う何かを見ているような、そんな雰囲気を、陽太から感じていた。
「これだったんだ……」
「え?………」
 陽太は、私の返答に、驚いたようだった。「あ、ううん、違うのよ」
 陽太が勘違いをしないように、私は、思っていた事を伝えた。

「―――紗羽は、俺の事、ちゃんと見ててくれてるんだね。何だ、今は、俺が驚いちゃったよ」
 陽太は照れ笑いをした。
「私だって、驚くのが自分だけじゃ、悔しいよ」
 少しだけ、意地悪に笑い返した。
「陽太の夢はね、陽太だけの夢じゃないよ。私にとっても、同じ夢になったんだよ」

 そう。
 これからは、それが、二人にとっての夢になる。
 私の左手の薬指は、木々の間から、時折差してくる光を反射し、キラキラと光っていた。


 
 結婚するということが、これほど大変だとは思っていなかった。しなければならないことが山のようにあり、毎日があっという間だった。

 そんな日々も、今はもうすっかりと落ち着き、穏やかな日々が続いていた。
 たまに、琴葉がふらりとやってきて、陽太と三人で過ごすこともあった。
 カフェの御夫婦とも交流は続いていて、一緒に食事をしながら、時折、カフェ経営についての話を聞かせてもらっては、夢への希望をどんどん膨らませていった。
 自分達なりに、経営についての情報収集をしたり、体験セミナーにも二度ほど参加した。
 休日に家でいれる珈琲は、お気に入りの豆をミル挽きしたり、ちょっと奮発して購入した珈琲マシンを使い始めた。
 結婚後の日々は、どんな小さな変化でも、とても幸せだった。

「今日、仕事、早く終わりそうだから、食事して帰らない?」
 医療機器の問い合わせ対応依頼が入ったため、向かう準備をしながらスマホを確認すると、陽太からメッセージが入っていた。
 スケジュールを確認したところ、今のような依頼が入らなければ、時間には終わる予定であった。
「私も多分、時間であがれると思うから、行くね」
 送信し、少し足早に会社を出た。

 対応は思ったよりも時間がかかったが、このままならば予定通り退社できそうだった。スマホを見ると、陽太からニ件、メッセージが入っていた。
「わかった。会社の玄関出た所で、待ってるね」
「ごめん、急遽、機器対応入ったから、遅れる」
 ニ件目は、十五時過ぎに届いていた。
 少し考えた後、急ぎではないが他に少し残している仕事もあったため、待ち時間を使うことにした。
「うん、わかった。少し残してる仕事あるから、待ってる間終わらせることにする。気をつけてね」
 返信し、会社へと戻った。

 一旦手をつけ始めると、思いのほか集中でき、あと少しで終盤に差し掛かろうとしているところで、スマホのバイブが鳴った。陽太からだった。
「ごめん、今終わった!そっちはどう?終わりそう?」
 もう少しで終わるけど、どうしようかな…
 少しだけ、待っててもらっちゃおうかな…
 時計を見ながら考えた後、返信した。
「あと、三十分だけ、待たせても良いかな。ごめんね」
「わかった、急がなくて良いからね。玄関出た所で待ってる」
 早く終わらせて、行こう。
 キーボードを打つ指が速まる。

――外では、今年初めての雪が、はらはらと、舞い始めていた。



 随分と、冷え込んできた。
 会社に戻って来た時よりも、一段と。
 そういえば、朝のニュースで、今日は、今季一番の冷え込みって言ってたな―――
「食事、今日にしたの、不味まずかったかな」 
 寒さでつい、声に出してしまった。
 空からは、ハラハラと雪が舞い落ちてきた。
 雪と一緒に視界に入ったのは、目の前を横切った女性だった。
 女性が、というよりも、女性が抱えていたもの。
 紗羽が好きな花だった。
 近くに、フラワーショップはあったかな――
 コートのポケットからスマホを取り出し、検索してみると、フラワーショップが五件ほど表示された。中でも、大通りから一本奥の道にある店が一番近いようだ。少し急げば、待たせずに戻って来れる。
 
 僕は、フラワーショップへ向かった。

 到着すると、男性客は僕一人だけだった。何度か周りから視線が感じられ、少し居心地が悪い気がしたが、レジの近くに、その花を見つけた。
 プレートに「ネリネ」と書かれているその花は、白やピンク、紫など、綺麗に揃えられていた。
 色、迷うなあ…こういう時、優柔不断さが出てしまう。
 
 決めた――――白と、紫。
 紫は、余り見かけることが無かったからだ。 
 早速店員さんに声を掛け、花束にしてもらった。
 腕時計を見ると、遅れずに戻れる時間だった。外に出ると、まだ、雪が降っていて、地面に落ちては溶け、また落ちては溶ける、粉雪。大人になっても、雪が降ると、わくわくするのは何故なんだろう。そんなことを考えていると、大通りが見える場所まで差し掛かった。
 すると、白いボールのようなものが見えた。  
 よく見ると、それは、雪のように真っ白な子猫だった。子猫は、反対側の歩道を歩いている人の大きな笑い声に驚いたのか、道路の真ん中に飛び出したと思うと、うずくまってしまい、動かなくなった。

危ない――――
 そう思った瞬間、身体が勝手に、動き出していた。

 そこに、バイクが近付いてきていたことも、知らずに。


 終わった――
 待ち時間に、と思って始めたが、返って陽太を待たせることになってしまった。
 帰り支度をして、エレベーターで一階へと急いだ。ロビーは、人の出入りと共に冷気が流れ込み、外の寒さを容易に想像できた。私は少しだけ身構え、外に出た。
 外に出ると、陽太の姿は無かった。
 周りを見渡しながら、少しばかり歩いてみたが、やはり陽太の姿は無く、スマホを見るが、着信などは入っていない。
 やけに、救急車やパトカーのサイレンが騒がしく、近くで事故でもあったのかな?と、考えながら、スマホを操作する手は止まらなかった。

 あの時、陽太から連絡があった時、すぐに切り上げていれば――

 そんな、後悔ばかりの日々が続くなんて、この時の私は、考えもしなかった。



 温かな日が続き、日中は少し、汗ばむ程だった。
 だが、ここ数日は一気に冷え込みはじめ、やはりもう、季節は冬なのだと、思い知らされる。

 ――あの日も、寒い日だったな…。
 
 会社へと向かう電車内で、流れゆく景色をぼんやりと眺めながら、蘇る、記憶。

 あの日、私が別の選択をしていたら、今とは違った未来が、あったのだろうか。
 今もまだ、幸せな日々が、続いていたのだろうか。
 今もまだ、陽太が隣に、居てくれただろうか。
 皆それぞれ、傷みを抱えて生きている。
 それでも、向き合い、乗り越えているだろう。
 でも、この傷みと、どうやって向き合えば良い……?
 もう、何度繰り返しただろうこの問いに、答えるのは他でもない、自分だとわかっているのに。

「紗羽。お昼行こう」
 仕事が一段落し、廊下に出ると、琴葉が待っていた。
「うん、行こう」
 琴葉と休憩時間をとるのは、すっかり当たり前になっていた。琴葉にも、随分と心配をかけたし、迷惑もかけた。
 そらはきっと、今でも…。

「そうだ、紗羽。これ、見て」
 食事をしなから、琴葉は、ある情報誌を私に見せてきた。
「紗羽に見せなくちゃって、思ったの」
 そのページには、かつて陽太と行っていたカフェの近くの、大きなクスノキのある公園が掲載されていた。
「この公園、陽太くんと、よく行っていた場所じゃない?」
 確かに、カフェの帰りは、よくこの公園に寄っていた。あの日以来、足を運ぶことは無くなってしまったけれど。公園以外の場所も、全てそうだ。
 陽太が居ない現実を、痛い程、感じるから。
 クスノキの写真と共に書かれた文章を読み進めると、近々、マンション建設予定により、予定地内にある公園も、閉鎖することが決まったと書いてあった。
 無くなってしまうんだ、あの場所……
 胸の奥が、キリキリと痛くなり、スーツのジャケットの襟を、無意識に、ギュッと掴んでいた。
「紗羽。行ってみたら…?」

 琴葉の、柔らかい声と手が、私の固く握った手の上に、重なった。


 
 家に帰ってから、久し振りに陽太の荷物が収まっているクローゼットの扉を開けた。
 まだほんの少し、陽太の匂いがした気がして、苦しくなる。

 最後に、一目、見ておきたい――

 陽太との想い出の場所へ行くという事は、陽太が居ないという現実を受け止めなくてはいけない気がして、避けていた。
 でも、想い出の場所が減ってしまう事のほうが哀しかった。
 陽太がよく使っていた、バックパックを取り出した。
 忘れないように、私に刻むために。

 滅多に、出掛けることも無くなっていた、休日の午後。公園のある街へ向かう電車に乗っていた。
 しばらく足を運ぶことも躊躇っていたカフェにも、久し振りに行ってみようと思った。

 カフェに着き中に入ると、所々、クリスマスの飾り付けがされていたが、同時に、変わっていない、という安堵感に包まれた。

「紗羽ちゃん…!」

 時間的に空席が目立ってはいたが、まだ、客が居るにも関わらず、調理場から御夫婦がかけ寄ってきた。
 長い間心配を掛けてしまっていた申し訳なさや、またここに来ることができて、久し振りに会えた嬉しさ。
 同時に、自分一人がここにいる現実が合わさり、涙が溢れ始めた。

 冬の日の入りは早く、カフェを出ると、既に外は黒々とした、澄んだ空気に変わっていた。
 街灯は青白く、等間隔に浮いてともり、満月も手伝って、周りの建物は普段の夜よりも存在感が増している。
 通る人はまばらで、それもすぐに途絶えた。

 その時――
 一本の街灯の下に、シルエットが浮き出ていた。
 近くなるにつれ、それは猫とわかった。飼い猫なのだろうか、真っ白で、毛艶の良い綺麗な猫だ。逃げる気配はなく、近くにしゃがんでみたが、猫は尾を、ゆっくりと一振りしただけだった。
 ゆっくりと手を伸ばそうとしたが、途中で、手が止まる。触れたいが、触れることに戸惑う。更に、白い猫ということで、戸惑いはより濃くなった。
 あれ以来、猫を、避けてしまっている。猫が悪い訳じゃない。わかっている。今でも、猫は好きだ。でも―――

 よく見ると、猫の瞳は綺麗なオッド・アイで、思わず吸い込まれそうになる程のブルーと、片方は琥珀色だ。
「綺麗ね…あなたは、どこからきたの…?」
 戸惑いつつも、猫に話し掛けていた。
 すると、猫はゆっくりと歩み寄ってきたかと思うと、しゃがんでいる私の膝に手をついて身体を伸ばし、顔を近付けてきた。
 同時に、私のひたいと、猫のひたいが触れた。
 
 その瞬間、

(クスノキの下に、いるよ)

「……えっ……?」

 今のは、一体……

 我にかえり、辺りを見回したが、猫はもう、どこにも見当たらなかった。
 思考が停止するということは、こういうことをいうのだろう。
 きっと、一瞬だったのだろうけれど、時が止まっていたかのように感じた。
「クスノキの下に……いるよ……?」

 ハッとして、走り出そうとした。
 足がもつれ、コンクリートの冷たい地面に両手をついてしまったが、すぐに立ち上がり、公園へと急いだ。
 真っ先にクスノキに近付いて行くが、公園内にも、誰の影もなかった。
 呼吸を整え、バックパックから、レジャーシートとブランケットを取り出して、座った。
 それにしても、さっきの猫は、喋ったのだろうか?喋ったというか、頭の中に響いてきたような…でも、猫が喋るなんて…

 考えを巡らせながらも、今度は、暗い中、女一人で木の下に座ってるなんて、だいぶ滑稽だな、と、可笑しくなってきてしまった。
 そんな自分に、驚いた。陽太のことばかり考えていたのに、他のことに考えを巡らせ、そればかりか、可笑しくもなるなんて。
 空を見上げると、一段と輪郭を際立たせている満月が、夜に映えていた。
「今日、来れて、良かったのかな…」
 呟いた、その時。

「――紗羽」

――陽太の、声が聴こえた。

 聴き間違えるなんてことは、絶対にない。今でも、陽太の声は、ちゃんと覚えている。

「紗羽…?」

 でも、だけど、どうして……

「陽太……!!」

 後ろから聴こえた声を頼りに、振り返ろうとした瞬間、私の肩は、何かに包まれた。
 驚きと、それを上回るほどの懐かしく、温かい感覚。

 それは、陽太の腕だった。

「ねえ、陽太なの…?陽太だよね…?!ねえ、見せてよ…!見たい!陽太の顔が見たいよ…!」
 振り返ろうとするが、陽太は、優しいが強い腕で、それを許してはくれなかった。
「紗羽、聴いて。紗羽が振り返ったら、僕は、消えてしまうんだ。そういう約束なんだ…。ごめん、紗羽…」
 そう言いながら、私を包む陽太の腕に、また少し力が入った。
「紗羽…。一人にして、ごめん…。本当に、ごめん…」
 陽太の声は、震えていた。
「謝りたいのは、私のほうだよ!あの日…陽太から電話がきた時、すぐに陽太の所に行けば良かった…!そうすれば…陽太は…!!」
 今まで、何度押し寄せたかわからない後悔を、口にした。
 夢だとしても、例え、今誰かに見られていて、気が触れたのかと思われても、構わない。
「陽太っ……!!」
 陽太を、離したくなかった。
「紗羽。あの日、紗羽を待っている時、紗羽が好きな花を見掛けて、買いに行ったんだ。只、それだけだったんだ。でも、子猫が飛び出したのを見て、思わず、かけ寄った。俺のせいで辛い思いをさせて、紗羽が好きな物も、俺が全部、奪ってしまったと思う」
「…陽太のせいじゃない…。わかってる、わかってるの…」
 痛い程、わかっている。
 現実を、受け入れられない、受け入れたくないのは、自分。
「陽太は…今まで、どうして居たの…?陽太は…近くに居たの…?」
「…近くに、居たよ。どうしても、逝けなかったんだ。でも、こうして、紗羽に、逢えることが、できた――」
「あのね、紗羽。俺、本当は、入社する前から、紗羽のこと、知ってたんだ」
「え……?」
 初めて聞く話だった。
「知ってたっていっても、大学に通ってる時だった。大学三年の頃ぐらいかな…同じ電車で見かけるようになって。よく、本、読んでたでしょう?読んでる姿が、凄く綺麗な子だなって思ったのが、きっかけ。俺もたまたまその時、同じ本読んでて」
 大学三年といえば、ちょうど住んでいた所から、大学に近い場所に引っ越した頃だ。そのため、最寄り駅が変わった。
「それにね、気付いてないだろうけど、紗羽、本読んでる時、表情が、ころころ変わるの。それがとても可愛かったんだ。ブックカバー掛け始めてから、今、何の本読んでるのかな、って気になったり、話しかけてみようかって、何度も考えた。でも、変な人って思われたらどうしようとか、避けられたらどうしようとか、そんなこと考えて、話しかけられなかった」
 そういう風に見ていてくれたのかと考えながらも、そんな状況の陽太を想像できてしまうと、思わず笑ってしまった。
「きっと、変な人だなんて、思わなかったよ。話しかけてくれたら良かったのに」
 少し、笑いながら答えた。
「名前すら知らなくて、その内、電車でも見掛けなくなって…でも、同じ会社に就職して、紗羽が研修で僕の隣に座った時。神様って、居るんだって、本当に信じた」
 陽太も、少しだけ笑いながら、言った。
 私を後ろから抱きしめる腕は、上半身全体を覆うほどの位置に変わった。
 そして、二人の記憶をすり合わせながら、今までの思い出を遡った。
 
 抱きしめられた感覚も、陽太も、上半身にしっかりと実感するくらいの時間が経った頃。

「…もし、勇気を出して、紗羽に話しかけていたら、状況は変わって、もっと、紗羽と一緒にいられたかな…」
 そう言うと、苦しい程に、陽太の腕に力が入った。

――理解できた…もう、本当に、これで最後なんだと。

「――紗羽。短い間だったけど、凄く、幸せだった。一緒にいられなくて、ごめん……でもね、心から、愛してる」
 私も、精一杯の、想いを伝える。
「陽太、ありがとう…!私もだよ…!私も、とても幸せだった。ずっと、ずっと、愛してるよ――」
 私の頬に、陽太の手が触れた。
「紗羽は、紗羽を、生きて―――」
 私と、陽太の口唇が重なる。

 そして、もう本当に、陽太は居なくなった。


 
 部屋の、模様替えをした。

 久し振りに、珈琲豆も買った。

 キッチン横のパントリーから、袋を被ったミルや、珈琲マシンを取り出した。

 ――最後に、陽太と逢えたあの日から、数ヶ月が経った頃。
 休日だったが、急遽会社へ出向かなければならなくなり、その日、結局帰りは夕方になってしまった。
 スーパーで買い物をし、家の近くに差し掛かると、電信柱の下に猫が佇んでいた。
 すぐにあの子だとわかった。近付いてみたが、逃げる気配はない。あの日よりも、毛色は薄汚れていた。
 いや、初めて見た日も、そうだったのかもしれない。きっと暗い場所だったから、真っ白に見えただけだったのかもしれない。

「ニャー」

 猫は、オッド・アイの眼を細めながら短く鳴き、緩やかに尻尾を一振りした。

「あなた、お家は、あるの?」
 答えるはずはない。案の定、左手で、ゆっくりと顔を洗い始めただけだった。
 そもそも、家猫なら薄汚れてはいないだろうし、外にもいないだろう。

 一人なのか…。

 それが心境の変化なのか、只の気まぐれや思いつきなのか、自分でもよくわからなかった。
 もしくはあの日、陽太に再会できた奇跡が、決して夢でも嘘でも無かったという事を、唯一共有できる存在だと、勝手にそう思いたかったのかもしれない。
 
 そう思った瞬間。

「あなた、家に来ない?――ううん、家に、帰ろう」
 
 ゆっくりと手を伸ばすと、一頻ひとしきり顔を洗って満足したその子は、眼を細めながら、私の手に、頭を擦り寄せた。

 ――ピンポーン
 珈琲豆を挽いていると、ドアホンが鳴った。
 琴葉が来た。
 話したいことが、聞いて欲しいことが、山ほどあって、久し振りに、琴葉を招いた。
 きっと琴葉は茶化すことなく、聞いてくれるだろう。
 あの日のことも、今後のことも。
 そして、ソファの上で丸まっている、新しい家族のことも――


 車通りが途切れると、微かだか、波の音が聴こえる。
 程よく賑やかで、程よく田舎のこの街は、私と陽太の故郷だ。厳密にいうと、私の生まれ育った町は、三駅離れているけれど。

 緊張と期待と、少しの不安を抱えながら、オープンしたカフェ。

『Camphor tree(カンファーツリー)』

 オープンしてからすぐに客足は伸び、常連のお客様もできた。
 窓辺のカウンター中央に、身体を存分に伸ばして横たわっている白い家族の名は『コハク』。
 この子のおかげかもしれない。
 「コハク、気持ち良いの?」
 コハクを撫でようとした。

 その時――

 一瞬、温かく、優しい風が、店内を吹き抜けた。
 コハクは、ウィンクのように、ブルーの眼だけをそっとあけて、吹き抜けた風を見送っている。

 ねえ、陽太。
 見てくれてる?
 陽太との夢、叶えたんだよ。
 賑にぎやかだけれど、充実した毎日。

 あの日の約束は、これからも、ここで――

 陽太の生まれ育った街で、私は今、しっかりと、生きている。


 


 



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