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バレンタイン

深夜12時、ストーブの効いたリビングで机に向かい公立前期に向けた試験勉強中。
こうやって文字にすると大層に見えるけれどモチベーションは最悪。ソワソワした気持ちでペンを持っても落ち着かない。なんだか今にも電車に乗ってフラフラと街の中にでも足を運んでしまいそうな、そんな気持ち。でもこんな時間だからどこのお店も閉まってるんだろうな。それで勝手に寂しくて苦しくなるのだ。あァ嫌だ嫌だ。

そういえばnoteを始めたのもこのくらいの時期で、2年の冬は周りとも疎遠になって人との関わりに飢えていた様に思う。こうして事起こしすることで多少の精神安定も図れるんじゃなかろうか。

第一なにかを続けるということに私は滅法向いていない。集中力がないというのもある。飽き性というのもある。それでも一番の原因は突然水を差すように「私はなんでこんな事をしているのだろう」と思うからだろう。それだけで無性にやるせない、無益に思えて来て、段々と先のことが見えてくるのだ。器用貧乏で才能のある人間には勝てない。経験則か、それとも。
私は感というのが嫌に鋭くて気配というのが分かる。決して思い込みとかではなく。敏感の類で自意識過剰という。

クズはとてもいい。どれだけ人を不快にしても自分は罪悪感とか感じないで飄々と生きていけるのだから。羨ましい。
だから自信を持って言える。私は恐らくクズだ。いや本当は全ての人との関わりを消したいしいなくなるなら葬式なんてしたくない。あれは決め事や手続きなんかが沢山あって大変だから。パッとシャボン玉のように跡形もなく消えたい。居るだけで負い目を感じてなんて損な生き方してるのだろう。

過去問を解いていて面白い論述を読んだ。女学生が太宰治を読み耽りあたかも自分が存在してはいけない様に若気の至りの様に自分が孤独であると喚く、似非鬱に陥ることは実に厄介なのだと。
なんだか無性に腹が立った。お前ごときに何がわかるのだと。けれど腹が立つのは図星だから、心のどこかでそう思っているからだ、と言う話を昔何かで読んだ。そしその通りなら私はもう孤独でもなんでもないし、かつての寂しさに未練がましく縋っているだけなのかもしれない。奴への酷く取り返しのつかない仕打ちにはもう罪悪感も抱いて居ないということだ。

この世には本当に鬱だとか暴力だとかで苦しむ人がいて、その人から見れば私は幸せ者にしか見えないのだ。事実いつも友達に
囲まれて親兄弟とも関係は円滑。勉強してゲームして好きなところに行って。ほんの一瞬寂しくて仕方なくなったり自分が憎くて仕方なくて居なくなりたくなったり、何が楽しいのか分からなくなってもそれはたかが一瞬のことで、私は幸せなのだ。駄々捏ねて甘えてもいい歳はとうの昔に過ぎたし便り方も謝り方も分からない。それでいて取り繕うことだけは得意なんだからほんとうに救い様がない。

大丈夫って言うのは魔法の言葉だ、なんてよく言うけど。頑張れって言われるのも嫌。全然頑張ってないのを責められているみたいで。

本当にどうしようもない。