ソニー・ロリンズの思想実践 番外篇1 ロリンズの何が「天才」か

番外篇だと!?

 油売ってないで、さっさと「思想実践」を展開しろ、と(誰よりも自分に)叱られそうです。
 が、この「思想実践」、さすがに我ながらキツイです。誰か代わりにやってくれないかしらん、と思うくらいに。(と、「番外篇」ともなると調子も一段とだらけます。)

 キツさにはいろいろ要因があります。その比較的些細なもののひとつに、「共通認識の希薄さ」があります。
 ロリンズをめぐっては、毀誉褒貶、様々な夥しい言説がなされて来ました。それらに対し、納得し難い思いを抱いたり、異和感からフラストレーションに陥ったりする人も稀ではないだろうと想像します。世評高い『サキソフォン・コロッサス』を、期待に胸ときめかせて聴いてみたら、どこがいいのかさっぱりわからなかった、という人は少なくないでしょう。さらに、ロリンズについて読んだり聞いたりしたことはあっても、ロリンズの演奏に触れたことがない人、あるいはロリンズについてほとんど何も知らない人も、もちろんたくさんあるでしょう。
 ロリンズに関する雑多な言説の発信者・受信者の双方が、どんな事柄をどの程度どのように認識しているか、互いに大変おぼつかないという状況は、ネット社会の今日も何ひとつ改善されていないように見えます。(おそらく、ジャズミュージシャンの方々はツーカーで諒解しあえるのだろうとは思いますが。)
 ロリンズに関して(そしてやがてはジャズのみならず音楽全般に関して)内容のある検討をするために、私たちはジャズやロリンズを語る際の共通基盤としてどのような事柄を共有できるのかを可能な限り明確にしたいところです。

 『ソニー・ロリンズの思想実践』という論考は、筆者にとっては、わかる人にだけわかればいい、という性格のものではありません。現在の筆者には、このテーマについてはこれ以上平易な文章を展開する時間的・心理的余裕が残念ながらありません。(極力平易に書いてはいますが、もっとわかり易く読み易い文章を駆使できる方も多いことが、noteの各種投稿から察しられます。)しかし、ひとりでも多くの人に、ソニー・ロリンズの思想という問題を考えて頂きたい、というのは本当です。もし、ジャズに詳しかったりロリンズ通だったりする人々が、自論に縛られているせいでロリンズの思想を聞き取る能力が無いのであれば、むしろロリンズに疎い人々にこそ、ロリンズの思想を十全に汲み取って頂く希望を託したいところです。(そのような動機から、本編の「1   考察準備」には、1950年代限定ですが、ロリンズの参加しているアルバムのリストを註に掲載しました。)

 というわけで、この「番外篇」では、筆者が議論の前提に置いている事柄を、可能な範囲で確認しておきたいと思います。誤りに気づかれた方、異論のある方はぜひともコメント欄なり独立した記事なりでご指摘頂けると有難いです。(読まれる方は、面倒ですがコメントの有無をチェックし、筆者の誤りが指摘されていないかご確認願いたいです。なお、コメントによるご指摘のあったもので、修正可能なものは本文を随時改訂する場合があるでしょう。また、ご指摘に対して筆者から疑問がある場合は、コメントにてその旨表明致します。)

 プロアマを問わず、ジャズ演奏家の方々や、音楽教育機関や個人レッスン等でジャズについて学んでいらっしゃる方には、あまりにも基本的で概ね読むに耐えない内容だと思われます。ジャズ演奏のあり方に対する素人の理解をチェックして頂けるとありがたいです。微積分を語ろうとして、足し算引き算の意味から語るような今回です。

 以下、事実誤認があまたある惧れはもちろんですが、とりわけ、コルトレーンやマイルスに関する記述は私見や憶測の域を出るものではありませんので、ご了承願いたいです。

ソニー・ロリンズ天才説

努力の人コルトレーンと天才?ロリンズ

 興味深いことに、コルトレーンJohn Coltraneについて語られる折にほぼ限定されているように思われますが、ソニー・ロリンズを「天才」とする言説がまま見られます。「天才型のロリンズ」に対し、「努力型のコルトレーン」といった調子です。
 これに対する異論を、筆者はついぞ見たことがありません。
 しかし、これにすんなり賛同できる方はどのくらいあるのでしょうか。

 コルトレーンの演奏記録を(あるいは実際のステージでの演奏を)聴いて、コルトレーンを「努力の人」と納得できるか否かは、具体的に何を聴いたかが大きいように思います。『至上の愛』“A Love Supreme”や、『セルフレスネス』“Selflessness”または『アフロ・ブルー・インプレッションズ』“Afro Blue Impressions”収録の『マイ・フェイヴァリット・シングス』“My Favorite Things”、あるいは晩年のライヴ音源だけを聴いて、このサックス奏者を天才と思わずにいられるものでしょうか。少なくとも筆者はコルトレーンを「天才という言葉では片付けられない人」だと感じていました。「俺の出す音は、テナーの練習音にしか聞こえないんだよ」と親友のロリンズに愚痴っていたという逸話を聞いても、それを謙遜だとは思いませんでしたが、さすがに凄い人というのは自己観察が厳しいな、と思ったぐらいでした。

 コルトレーンが本当に「努力の人」だと納得するようになったのは、車を運転しながらジャズを聴く(聞く)ようになって随分経ってからでした。この偉大なミュージシャンの音が感動的なまでに「ダサく」聞こえることに否応なしに気づかされました。以前は「凄い」と思った『ジャイアント・ステップス』“Giant Steps”の演奏が何とも野暮ったく聞こえてしまうのは驚きでした。コルトレーンの活動がジャズ史においてとてつもなく偉大なものだったことは疑いようがありません。しかし、そのコルトレーンは、自分のサックスの音が練習音にしか聞こえないからこそ、精進に精進を重ねたのであろうことが、ようやく呑み込めるようになりました。それと同時に、コルトレーンについて言われてきた様々な事柄と、彼がチャーリー・パーカーCharie Parkerらのジャズを結果的に大きく推し進めることになる道行きがはっきり見えてくるように思われて来ました。

 自分の出す音がサックスの練習音にしか聞こえない、と悩んだというコルトレーンですが、この、サックスの音質という点では、結局これを克服できなかったと筆者は考えます。そして、克服し得なかったことが、一つには彼のサックスの音の独自性と魅力の所以となり(そのサックスの音色に関しては、唯一無二の素晴らしさだと感じる人も多数あり、実際に彼の引き締まった音色には一種の信頼感を寄せやすいことも事実でしょう)、また一つには、その音色と分かち難く結びついたような曲想なり演奏なりが開拓されることによって、余人の及び難い敏捷筋肉体操的音楽世界を構築し得ることになり、さらには、独自の価値を探究し認識することで、結果的にあの音色が生きて来るような荘重な音楽宇宙の創造に繋がったと言えるかも知れません。

 そのコルトレーンが活動の場に恵まれず不遇をかこっていた頃、彼より4歳年下の「坊や」(“Sonny”)ロリンズは、折しも台頭して来たビ・バップ・ムーヴメントの渦中に躍り込んでいました。ジャム・セッションに熱中している錚々たるミュージシャンのお兄さんらと、演奏を楽しみながら腕を磨いていたわけです。
 ロリンズはどうしてそのような現場に入り込めたのか?これには、そもそも住居からしてそんな活動に絶好の位置にあったことをはじめ、様々な事情があったでしょう。ひとつ確かなことは、そのような現場に混ざってサックスを吹いても、誰も彼をつまみ出したり邪魔者扱いしたりしないのみならず、むしろ彼の演奏を育み、その行く末に期待するだけの、サックスの技能(伸びしろを含めて)がこの小僧っ子に具わっていた、ということです。なぜそんな技量が彼に身についたのかは、ここでは考えないことにしましょう。ともあれ、ロリンズは10代のうちからファッツ・ナヴァロやバド・パウエルのレコーディング・セッションのメンバーに入るという、きらきらしいプロミュージシャンとしての活躍ぶりを見せます。

 ソニー・ロリンズは、先輩ミュージシャンたちから何を評価されていたのでしょうか?ロリンズは天才だ、と言われる、その天才の内容は何でしょうか?

ジャズ・ミュージシャンの技能 

 バップと呼ばれるジャズ(いわゆるモダン・ジャズ)に普通に見られる演奏形態では、まずバンドのメンバー全員で曲のテーマを合奏し、その後、各楽器の奏者(全員とは限りません)が順に交代でソロを取って即興演奏(アドリブ)を繰り広げ、最後にまた全員でテーマを合奏して終わります。あるミュージシャンを聴く、というのは、とりあえずはこのソロ演奏を聴くことが中心になります。ソロでのアドリブにおいて、例えば管楽器奏者は何をやっているのでしょうか?

 それを教えてくれる好著の一例として、菊池成孔・大谷能生の著書『憂鬱と官能を教えてくれた学校』が挙げられるかと思います。筆者自身はこの内容を、十全にどころか大略さえも把握しているには程遠いのですが、今や楽器を演奏する人々にはごく当たり前の部分が多いのかと推察します。
 同書の中で菊池は、「即興演奏をやっているジャズ・ミュージシャンは、何も無いところから全く新しく曲を作り出すなどという神がかったことをやっているわけではない」と当たり前のことをちゃんと言ってくれています。(当たり前のことであるにも拘らず、筆者などはジャズを聴き始めた時にこういうことが全くわかっていませんでした。最初は即興演奏をしていることさえ知らず、知ってから後も、この即興はどこからどうしてこんなふうに出てくるのだろう、と思っていました。そういうふうに聞いている限り、アドリブの面白さや真価は逆に捉えにくいのだと言えます。ジャズを楽しむにはある程度の知性がいる、などと言われるのは、この辺りの事情が関連しているでしょう。)

 音楽に関する素養を完全に欠く筆者の、バップのアドリブに関する理解を記してみると、以下のようになります。

 音楽超劣等生の筆者などは、ある曲を聴いた場合、これをひと繋がりの「メロディー」としてのみ聴きます。これに対し、バップミュージシャンらは、そのメロディーを「コードに分解する」、すなわちメロディーを、曲という形に構成された「ひと連なりのコード配列」と見做すわけです。(あるいは作曲をする場合もしばしばメロデイー以前に「コード進行」を考えたりするわけです。)自分がソロを取る時は、そのコード進行に沿い、次々に直面する各コードに含まれる音から一音を瞬時に選択してそれらを連ねて行くわけです。つまり、バップの即興演奏が可能になるのは、瞬間瞬間に使える音にコードという制約があるからです。制限内からしか音を選べないからこそ即興が可能なわけです。(漢詩の定型詩が対句や押韻の規則が定まっているからこそ使う文字を決められるのに似ています。)
 この作業は、もともとは聴き手など眼中に無く、そのスリリングな瞬間瞬間の判断と技を自分で楽しむ技法として生まれたと言えるかも知れません。(「自分のソロを面白くしたい」という意味では、一種の「ひけらかし」技能の練磨という側面があったかも知れません。)
 ジャズは、「スイング・ジャズ」と呼ばれる様式から「モダン・ジャズ」すなわちバップ・ジャズに中心が移った、と言われます。そしてこの推移は、聞き手のための(または踊りの伴奏としての)音楽から、ミュージシャンが自分自身を表現するための音楽に変わった、と説明されたりします。この「自分自身を表現する」という言い方は、語弊があるのかも知れません。少なくとも文学や美術などで言われる自己表現と同様に解釈できるかどうかはかなり議論の余地があるでしょう。(チャーリー・パーカーやコルトレーンの音楽に関しては、問答無用で自己表現と言い切っていいように聞こえますが。)モダン・ジャズのアドリブ技法というのは、要するに設定されているコード進行に寄りかかり各コード内の音を連ねて好きなように演奏する、という、「みんなで作った取り決め」に乗っかって即興演奏する様式です。コード進行が定まり、リズムとテンポを決め、“one ,two, one two three four”とやれば演奏を始められる、ということになります。(ロリンズの「ヴィレッジ・ヴァンガードの夜」では、“one, two, one two ur, ur”((どう表記していいのか知りません。わかる方、ぜひご教示を笑))みたいなセクシーな掛け声が聞けますね笑)

 したがって、コード内の音の瞬時の選択を連ねる、ということは、モダン・ジャズ奏者の基本技能ですが、この技能をもう少しはっきりさせておきましょう。
 当たり前のことですが、頭の中で(あるいは心?の中で)出そうと思った音を、(その音の強さ大きさ響き具合も含めて)思った瞬間に出せることは、(ジャズに限らず)奏者の最低以前の(または理想とされるべき)条件でしょう。
 これに加えて、アドリブをやるジャズの場合、瞬間瞬間に自分のアドリブに必要な音を見つける(または出したいと感じる、または思ったり感じたりする前に出してしまう)能力が必要なのでしょう。そして、ここにはミュージシャンにより(そして時には楽器により)ある程度のばらつきが出るようです。

即応能力 コルトレーンとマイルス

 コルトレーンが努力型であったと言われる理由の一つは、もしかするとここにこそあったのかも知れません。彼は、即興能力という点でもかなりの努力を要したように思われます。

 ロリンズに比べると、早くから(年齢の低いうちから)ビ・バップの形成に参与することができなかったせいが大きいかも知れませんが、コルトレーンにとっては、バップはかなり難しい技術だったように見えます。特に初期の彼の演奏を聴くと、楽しんでいると言うよりは一生懸命に吹いている、という印象を強く受けます。(「僕ら、コルトレーンが出て来た当初は、別にそんな凄いミュージシャンだと思ってなかったからね。なんだかえらくクソ真面目な奴が出て来たな、と思っただけで」と、渡辺貞夫は言っています。)
 しかし、コルトレーンの恐ろしいところは、自分の音楽的短所に気づくと、それをムキになってどこまででも諦めず克服しようとし続けるところです。レコーディングの時には何度も何度も執拗にテイクを重ねて録り直そうとし、ライヴではこれでもかこれでもかと毎回同一曲をとりあげるのは、もっと完璧に、というこだわりの現れに他ならないでしょう。
 彼の特徴の一つに「シーツ・オブ・サウンド」と呼ばれる、16分音符を敷き詰めるような奏法があります。これはバップで想定される音列に対してさらにバップ的技法を施す、いわば「バップのバップ乗」と言えるのではないでしょうか。そして、有名な『ジャイアント・ステップス』“Giant Steps”のいわゆる「コルトレーン・チェンジ」(これは楽理に無知な筆者には内容が把握できていません)は、コルトレーンの開発した最も美しいコード進行として世評高いものです。
 この種のコルトレーンのいわば発明を、筆者はジャズを聴き始めた頃、音楽を批評的に捉え直してメロディーや情感を抜き去り純粋音列の運動とする試み、と理解していました。結果としてはそれに近いような純粋音楽の類がもたらされたかも知れませんし、コルトレーンにはそのような展開をもたらす近代的資質があったとも言えそうです。しかし、実態はそうしたいわば批評的行為としてあれらが生み出されたのではないかも知れません。むしろ、もっと難しいことを、一番難しいことを、と、絶えず難しさを希求して練習を重ね突き進んで行くプロセスの中から生じている、という仮説の方が説得力があるように思えます。そんな難しいことを、あの重たいサウンドで懸命にゴリゴリ全力疾走することで、汗飛び散る迫力のコルトレーン・ジャズが展開することになります。(「シーツ・オブ・サウンド」に関しては、コード内から音を選んで音楽たり得るフレーズを作るのが難しいから、いっそコード内の音を片っ端から全部並べてソロにならないだろうか、と考えた可能性は無いでしょうか?)

 そして、バップが難しい技術であった、という点で、もうひとり忘れることのできないのは、マイルス・デイヴィスでしょう。

 あるTV音楽番組で、故・坂本龍一が「マイルスは、バップが出来なかった」と言っていました。これは、初めて聞く内容で、筆者には衝撃的なものでした。しかし、確かに、マイルスは、チャーリー・パーカーのバンドにいた頃「バードのバンドでやっていると吐きそうになった」、と言っていたそうです。
 バード(チャーリー・パーカーの愛称)の超絶バップ技巧は余人を寄せつけぬものでしたが、トランペッターのディジー・ガレスピーは、苦も無く、というよりは好んで、バードとセッションを重ねたように見えます。ガレスピーの技巧の確かさは、どんな素人でもその演奏記録から察しられるものです。しかし、若きマイルスには、バードの早い演奏に即応してアドリブを繰り出すことはかなり難しいものだったかも知れません。何しろ、トランペットはわずか3個のピストンを片手だけで操作しながら、唇と呼気で音の高低を確定する必要があります。この点では、クリフォード・ブラウンがマイルスより技能の優れたバッパーだったというのはすらすら納得できるでしょう。そして、マイルスはそもそもそのようなスポーツ的技巧勝負のようなことを競うために音楽をやりたかったわけではなかったと思われます。

 バップが煮詰まって来た頃、さらに自由な即興演奏法を求めてモード奏法やフリー・ジャズが生み出された、という類の説明をわたしたちはしばしば目にします。その通りかも知れません。しかし、その「自由」の意味が、マイルスと、たとえばコルトレーンやロリンズとでは異なると考えるべきかも知れません。
 バップの演奏を、コルトレーンは課題と捉え、難しければ難しいほどムキになってやってのけます。(しかし、そんなことをしている限り、音楽はスポーツ技能に終始します。モンクがコルトレーンに教えたのは、音楽の面白さを忘れるな、ということだったかも知れません。)コルトレーンといえども、そもそもミュージシャンになりたかったのは、美しい(とはどのようなことかは今は問いません)音楽を奏でたかったからでしょう。こんな約束ごとで決まっている演算的方法ではなくて、もう少し音楽美を追求できる方法を採るべきかも知れない、というのが、コルトレーンがモード奏法を受け入れる所以ではなかったでしょうか。
 しかし、もしかすると、マイルスは違っていたのかも知れません。こんなに難しいと、ちっともジャズを楽しめないし、そもそも仲間に入れてもらえなくなりそうだ。こんなめんどくさく難しくウザったい、やたら音符がピャラピャラ多くて小うるさい割にみんなおんなじ様になっちまうようなことやらずに、気持ちよくリリカルな本来の音楽を演奏したい、だって、それが音楽じゃないか。…つまり、マイルスは縛りのきつい「バップ」から、楽な「モード」へ「逃亡した」、という解釈が可能ではないでしょうか。

ロリンズの「天才」

アドリブの技能

 先に述べた基本技能を、ロリンズは非常に早い段階で身につけたと言えそうですが、その習得過程が天才的であったか否か、筆者は明確な資料を持ちません。そして、彼が技能習得の天才であったか否かは、私たちが問題にするところではありません。

 しかしいずれにしろ、ロリンズはアドリブ技能に関してコルトレーンともマイルスとも異なった所に立っていたと思われます。なぜなら、彼にとってバップは何ら難しいものではなかったように見えるからです。彼は、トレーンのように難しいものに挑もうと自らハードルを上げる必要はなく、マイルスのようにバップ以外に道を探さないと自分のやりたい音楽表現ができない、と困る必要もありませんでした。ほとんどの演奏記録において、ロリンズのソロは余裕綽々という印象を与えながら、しかもプロミュージシャンによれば裏コードを使うなど難しいことを難なくやってのけていると言います。
 1980年代だったでしょうか、ある時、「エリック・ドルフィーをどう思うか」と尋ねられて、ロリンズは答えました。「ドルフィーは好きだった。俺たちのジャムセッションにドルフィーが参加したことがあったんだ。どんなに速くやってもドルフィーは脱落せずについて来た。」と。ここでロリンズの言う「どんなに速く」ても、と言うのは、もちろん指遣いがもつれたりしくじったりしない、と言うことではなく、「瞬時に自分の欲しい音を見出してアドリブを持続する」意味でしょう。
 ドルフィーについてのこのコメントは、急速調で演奏すると脱落するミュージシャンがごく普通にいたことを物語るように思います。

 では、どんなに速くても誤りなく適切な音を発し続けて長尺のアドリブをやれれば、その奏者は天才と言えるのでしょうか。もちろんそんなことはないでしょう。それは単に技量が秀でている、つまり上手いだけです。
 ロリンズの天才はその先を指して言われたもののようです。すなわち、どんな曲にでもどんな速さででもアドリブに困らないのですが、出て来るアドリブの内容が、余人には真似のできないものだったわけです。

バップの問題点

 モダン・ジャズの任意の演奏(できればよく知っている曲の演奏)を、管楽器奏者のアドリブ・ソロ部分だけ聞いてみると、容易に気づくことがあります。それは、何という曲を演奏しているのかわからない、ということです。そればかりではありません。A の曲のアドリブと、それとは別のBの曲のアドリブは、どこがどう違うのかよくわからないのです。もし、曲Aと曲Bが同一コード進行の曲だったりすると、ますます違いがわからなくなります。
 これが同一ミュージシャン内の話ならまだしもですが、何と、ミュージシャンが違っても、音色その他の違いはあるものの、出て来る音を記譜すれば、ソロの概形は大同小異であることも決して稀ではないのです。それもそのはず、バップミュージシャンたちは曲を演奏しているわけではなく、リズムやテンポに則ってコード進行に沿ったアドリブをしているだけなのです。こうなると当然、このコード進行ならこんなフレーズに続けてこのフレーズを、と、演奏前に手持ちのフレーズが蓄えられることはごく当たり前の成り行きです。

 このとき何が置き去りにされているかといえば、メロディーでしょう。そして、メロディーが置き去りにされているということは、そのメロディーが顕ち現れ形をなす瞬間の音楽の感動が置き去りにされているということにならないでしょうか。何しろ、ジャズ・ミュージシャンのソロは、コードの連続であってメロディーの展開ではないのです。

ロリンズのアドリブ・フレージング

 ソニー・ロリンズが名声を得たのは、ソロを取ると独創的なアドリブを繰り出したからです。そのアドリブは「テーマに基づく即興演奏」(thematic improvisation)などと呼ばれたりしたようです。(インプロヴィゼーション、という言葉がここで適切かどうかは筆者には判定する資格がありませんが、そう言っても遜色無いほどの演奏があるとは言えそうに思います。)

 「ロリンズはなぜいいか?いま曲のどこを吹いているかがわかるじゃないか」と言った人があるそうです。ロリンズのソロを聴いて、曲のどの部分をアドリブで吹いているかがわかる、という人には、筆者は畏敬の念を抱きます。筆者はまるでわかりません。その程度の聴き手です。
 (いや、どの部分かがわからないどころではありません。特にバラードの演奏になると、しばしばテーマそのものが捉えられなかったりします。『サキソフォン・コロッサス』収録の“You Don’t Know What Love Is ”を、筆者は何回聞いたかわかりませんが、他の様々な演奏でこの曲を聞いても、それがこの曲だと全く気づかないこともしばしばです。以前はそんなことはなかったはずですが、ジャズを聴き始めてから、遅いテンポの曲ではメロディーが捉えられない、という現象が頻繁に生じました。)
 アドリブ中にテーマのどの部分を吹いているかが聴き取れる、ということは、要するに、ソロがテーマの変奏になっている、ということになるでしょうか。(「変奏」とは、どのような意味で、どう定義されるものか、まるで考えずに言っていますが。)

 如何にも「変奏」だ、とはっきりわかる典型的なソロを、わたしたちはアルバム『ロリンズ・プレイズ・フォー・バード』“Rollins Plays for Bird”(註)に聞くことができます。このアルバムの“Bird’s Medley” と題されたメドレー中、『誰も奪えぬこの思い』“They Can’t Take That Away from Me”という曲で、ロリンズのソロが露骨に曲のテーマをなぞります。その部分は、音楽の先生になら厳しく叱られてしまうような、曲の持つメロディーのクセを悪趣味スレスレに誇張するものでありながら、テンポとキイとアクセントの付け方で他では決して聴くことの叶わない音楽世界の魅力を生んでいます。これならば誰の耳にも「今どこを吹いているか」がわからないと言うことはあり得ません。
 しかし、ソロがここまではっきりとテーマをなぞった演奏は、さすがのロリンズにも滅多にありません。(テーマを意識させ続ける演奏例の一つは、アルバムなら『ザ・サウンド・オブ・ソニー』“The Sound of Sonny”でしょうか。)他の演奏のほとんどは、そのアドリブから曲のテーマを聞き取ることは、少なくとも素人には難しいのではないかと思います。
 ただ、たとえテーマを彷彿とさせることはないにせよ、ありきたりの「間に合わせフレーズ」の羅列が極めて少ないことは強調されていいでしょう。それどころか、好調な時のアドリブは、その曲に全く新しい光が射し新たな次元が開かれたかのような瞬間をもたらします。手持ちのフレーズを曲のテーマと無関係に羅列するのではなく、テーマのコード進行を辿る自然な流れでそんなソロが湧き出して来るわけです。さらに加えて、ソロの中でアドリブの形態が発展し、あたかもそのソロの中で一つのメロディーのようなものが構成されたような印象を生むことさえあります。こうなると、もうテーマに基づくと言うよりは、テーマから羽ばたく即興演奏、と言っていいでしょう。そして、それは、チャーリー・パーカーがバップの手法を引っさげてシーンに現れた時の聴衆の驚きと感動を想起させるに近いほどのものだったと言えるのではないでしょうか。これがロリンズが「天才」と呼ばれた最大の所以でしょう。
 そんな天才的フレージングはなぜ生まれるのでしょうか?
 そこには、メロディーの発生に虚心に耳を傾けるミュージシャンがいます。ロリンズはモダン・ジャズのスタンダード・ナンバーを幾つも生んだメロディー・メーカーですが、それらの曲の誕生と彼の独特のアドリブ・ソロは、おそらく同じ音楽精神からもたらされるものではないでしょうか。

リズム感覚/タイム感覚

 ロリンズの特質の一つに彼のリズム感覚・タイム感覚を挙げることができると言われます。
 この点に関して、筆者は未だ言葉で語る術を知りません。しかし、彼の独特のタイム感覚によるリズムへの乗り方が、ほとんど類例の無いものであり、そこにしばしば通常のビートからは得られない不思議で大きな波動感が生まれることは確かです。(その波動が大きすぎることが、もしかするとロリンズがわかりにくかったり、ロリンズを好めなかったりすることにつながっているかも知れません。)このリズム処理は、もしかするとロリンズに対する聴き手の好悪を決定的にしている大きな要因になっていないだろうか、と筆者は推測します。クラシック音楽の見地からは、ほとんどミュージシャン失格と判定されても仕方のないほどに、それは独特なものと言えるでしょう。
 「ロリンズの曲は言葉の真の意味でシンコペーションしている」と言われます。その作曲におけるシンコーペションぶりは、ロリンズにおける音楽の発生そのものが、特異なリズムという場での化学現象であることを物語るでしょう。彼のアドリブ・フレーズの不思議さは、このリズム/タイムの感覚抜きにはあり得ないものだと言えます。そして、このタイム感覚・リズム感覚が、ロリンズのメロディックなフレージングに独特のアクをもたらしていると筆者には聴こえます。

対和声感覚


 コードに基づく即興演奏をいささかも苦にしないロリンズですが、それは彼にとって和声が音楽の必然だったことを意味しません。通常、音楽の三要素としてリズム・メロディー・ハーモニーの3者が挙げられますが、ハーモニーは、ロリンズにとって必ずしも音楽の生成に必要とは思われていないように見えます。これは、少年時代にひとり「押し入れにこもって」(!?)サックスを練習し続けた、というエピソードに関係があるのかも知れません。既に1950年代のうちに無伴奏ソロ演奏を残している点や、同じく50年代にピアノレス・トリオというフォーマットを編み出す点から分かるのは、ロリンズがサックス演奏で音楽を成立させようとする際に必ずしもハーモニーを必要としていない、ということでしょう。それどころか、しばしばコード楽器を加えない演奏を好んで行うところからは、むしろ和声が時に音楽の自由な発生の妨げになると、いう認識が窺えます。

 これは西洋音楽的観点からはどちらかというと減点要素に近いでしょう。そして、ジャズにおいても、ロリンズのこの指向は重視される(または少なくとも歓迎される)ことは少なく、賛同者というほどのものを生み出すことはほぼありませんでした。つまり、この点に関する限り、ロリンズは天才の例外であったわけです。ジャズの巨人と呼ばれるミュージシャンたちは、ハーモニーのより深いあり方を追求し続けるか、またはハーモニーとの緊張感ある対決を強いられるかしたように見えます。1950年代にハード・バップ様式の頂点を極めながら、ロリンズが以後ジャズ史の主流を形成し得なかったのは、彼のこの不即不離の和声観に起因するところが大きかったかも知れません。

 筆者にジャズを聴くきっかけを与えてくれた友人は繰り返し言いました。「ジャズってのは、1人じゃやれないんだよな。1人じゃやれないんだけど、だけど、あんな孤独なものはないんだ。」
 孤独なものであった点は、もちろんロリンズも例外ではなかったでしょう。後に本編で考えたいのですが、むしろロリンズこそは最も孤独であったジャズ・ミュージシャンのひとりかも知れません。しかし、1人じゃやれない、だからグループ表現をどうやってどこへもって行くか、そこを模索する必要を感じなかったロリンズは、その時点で以後のジャズ史の本流を成さないことを約束されていたと言ってもいいでしょう。どうやらロリンズにとっては、自分が感じるがままに演奏するように、グループのメンバーは各自自分の技能に則して感じるがままに演奏すればよい、それがジャズという音楽の素晴らしさだ、と感じられていたようです。
 かつて油井正一は「ロリンズには日本人の血が入っているのではないかと思う」と言ったことがあります。ロリンズのメロディーに日本文化的な感性を聴く思いがしたのかも知れません。しかしそれ以上に、単旋律楽器にすぎないサックス一本で音楽に興じ続けられる彼の姿が、一管の笛だけで自由な旋律を奏でることを以て至高の楽の遊びと感じ得た日本の音楽文化に通じる思いがしたのではないでしょうか。

この回のまとめ

 ロリンズはなぜ天才と目されたか。それは、①その場その場でのソロのフレージングが独創的で闊達自在であり、演奏している曲に思いがけない光を当てることがしばしばであったこと ②そのフレージングに独自性を持たせる要因の一つが独特のリズム感覚・タイム感覚であり、これが演奏に独特のグルーヴ感をもたらしたこと 以上2点かと思われます。
 一方、必ずしも和声を必要としないロリンズの感性は必ずしもミュージシャンたちの共感を呼ばなかった、と言えます。



 本稿本編の「1 考察準備」の註にも記しましたが、“Rollins Plays for Bird”のこのメドレーは、かつて(1990年代?)ロリンズ自身が、自分の1950年代の演奏のうち評価できるものとして2つだけ挙げたトラックのうちのひとつです。(他のひとつは『サキソフォン・コロッサス』中の『モリタート』。)特にロリンズの「思想」を云々する場合には、重要なアルバムだと筆者は考えます。アルバムの半分を占めるメドレー演奏は、何ひとつトンガッたところの無い、地味で穏やかでおとなしげな、BGMに最適で環境音楽としてもいいような演奏です。ジャズ愛好家の多くにとっては、いささか覇気に欠ける退屈めの演奏かもしれません。

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