魅惑の街へ 鬼りんご


魅惑の街へ


毒の雨降る街角へ
少女も入ってゆくのである

児童に紛うだらだら歩きは
かつて自らを非としなかった傲慢の証
引き緊められていない足首は
かつて脱出を決意しなかった怠惰の証
十五歳の後ろ姿を烟らせて
細かい銀の毒の雨は いっそうあかるく
錯奏する建築の舌を紫に青に光らせる

ざわめく毒の雨の街へ
少女が魅かれてゆくのである

模倣の模倣へ足掻くスカートは
美の顕現を覚らぬ鈍感の証
背を襲う苦い髪の色は
好き嫌いで世界を片付ける無知の証
最も失格した花影を滲ませて
放射性の毒の雨はいちだんとしぶき
あれら建築の唇を緑にも紺にもひらめかす

にぎやかな毒の雨降るまちを
少女は流されてゆくのである

安売りの媚を見せびらかす背中は
女王でなければ気の済まぬ卑しさの証
そして 華奢な雨傘の桃色が
あくがれる処女の想いの気球なのである

香りも無く堕落したその花を絞り散らすために
あらゆる看板は計器と性器とを奥深く秘めて

毒の雨降る街の谷間を
さもしい桃色の気球がただようのである


(「こどもだま詩宣言」対応  原文縦書き)
 作者付言:鬼りんごにこんな古びた作品があっていいのか、偽作ではないのか、と疑われても不思議ではないと思います。かつて、もっぱら散文を事としていた10年ほどの空白期間の後に何故かおずおずと行分けの文章を再開した頃、何編かの素朴作品のうちでも異様に小学生作文的なこの作が現れました。
 ここに語られたような「少女」像が今日でも何ほどか共感を持たれうるものか否か、作者は詳らかにしません。これが女性蔑視であるとの指摘も大いにありうるかと思います。当時は未だネット社会出現以前で、「街」が今日よりはるかに総合性をもって人々の消費意欲を刺激していたように思われます。作者は多くの思春期の少年少女たちに親しく接する日常の中で、人間にも社会にもやりきれない悔しさを覚える日々を重ねていました。今にして思えばまだ悔しがって反撃を構想できるだけましな社会であったと言えるのかも知れません。ともあれ、作者の悔しさは、端的にそれを諦めの言葉で吐露する以外の余裕を持ちませんでした。そのような資料としてこれを公表してみるものです。

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