七、蜥蜴の尻尾と双頭の封魔
関を西に越えた京の都。
京を南に坂ノ国も越えたところに若山と言う国があり、そこの黒山に一匹の獣がいた。
名を中蔵と言う。
中蔵は流れの一匹獣でどこからか来たのかを知る者はいない。
そもそも流れ獣に興味を持つ者などいない。若山の黒山の頭目はもちろん中蔵などと言う獣を信頼することは無かったがそれは全ての獣同士がそうだ。
何れにせよ中蔵は若山の黒山に居つくことになった。
銭と飯以外に繋がりなどなく信頼などない黒山でもさすがに流れの獣の扱いは他に劣る。中蔵は黒山の中でも特に陽の当たりが悪くいつもジメジメしている沼地の脇にあったあばら家に居を構えた。
若山の頭目は中蔵と言う貧相な獣を見て大して役には立たぬだろうと思い、居ても居なくとも変わらぬ流れの獣に与えた疾走りは過酷な物だった。
それは最近勢力を拡大し始めた坂ノ家。それに付き従う封魔の偵察だ。
坂ノ家は関を東に越えた地である東の坂である坂東で石ノ家が勢力を拡大しつつあるという知らせを受け、ならばこちらもとばかりに関西平定に乗り出したのだ。
坂ノ家はまずその勢力を南に向け始めており城井の南三山である若山、羽二重、南良の三国は坂ノ家の動向が何よりも重要でそこにある三つの黒山が恐れているのは当然、坂ノ家に付き従う封魔の動きだ。
特に若山は坂ノ家からはもっとも近く、海路も陸路も易いのだ。
当然、若山の黒山からは封魔の勢力下に多くの獣が送り込まれたが帰ってこれるのは少なかった。
これもまた当然の事なのだが封魔からも多くの忍びが若山へと送り込まれていたからだ。敵の監視の下に敵地へと忍び込んでいるようなものだ。
中蔵は死ぬことなくしぶとく辛うじて帰ってくるのだが持ち帰る情報は少なかった。
多くの配下を失った若山の黒山はすぐに封魔に食われることとなり、若山の国も坂ノ家に落とされその支配下となった。
封魔の双頭、小太郎と大子郎。彼らに首を垂れた若山の獣は多かったが逃げ延びた者も少なくなかった。その中には中蔵もいた。
中蔵は羽二重の黒山へと逃げ込みそこでまた流れの獣として疾走るようになった。だが羽二重もまたすぐに封魔に襲われ中蔵も封魔忍びの一人に襲われたが盲滅法に下手糞な苦無を打ちまくりそのうちの一本が運よく追手の膝に突き刺さり運よく逃げ延びた。
中蔵が次に逃げた地は南良の地だ。ここも長くは持たないだろう。封魔と坂ノ家が若山を落とし、その次の矛先を隣の南良ではなく羽二重に向けたのは南良の地が海はなく、そして山深く攻めるに難い国だからだ。
しかし若山、羽二重、そして坂ノ家の本拠地である大坂の三面から同時に攻め込まれては深山難攻の南良の地と言えど防ぎようがない。
封魔と坂ノ家の脅威が目に見え始めた頃に城井の南三山の三つの当主、それに三つの黒山の頭目達もそれぞれが坂ノ家、封魔に対抗する術を模索してはいたが、それぞれの小さな利に囚われ坂ノ家、封魔に対抗し拮するという大きな利を得られなかったのだ。もう少し時間があればなんとかなったやも知れぬが封魔の動きは早かった。
三面攻撃により南良の地も落ちた。
中蔵ももう逃げようもなく封魔に首を垂れる事になった。
中蔵は一匹の獣として封魔の為に疾走った。瀬ノ内の荒波を渡り四石の地へと行くこともあったほどだ
首を垂れた獣に下される疾走りは戻りを期待されない過酷な物ばかりであったが背に腕にと傷を受けつつもいつも中蔵は戻った。
今日も傷を受け封魔の地へと逃げ帰った中蔵を陰に見て怒り震える一人の忍びがいた。
数刻の後、家で傷を癒す中蔵であったが「中蔵!出ろ!」そう叫ばれ何事かと中蔵が家を出ると五人の忍びが囲んでいた。
「なんでっしゃろ」
五人のうち杖を突く一人の忍びが叫ぶ。
「お主に打たれたこの膝の恨みを晴らしに来たのだ」
「なんでや」わけわからんとばかりに中蔵が言う。
「なんでも糞もあるか!羽二重の地でこの膝を打たれたのだ!覚えておるか!」
「そうは言ってもやな、あん時は敵同士、しゃあないやろ」
「うるさいだまれ!」
「覚えてるか言うたり黙れ言うたりなんやねんな、阿呆かい」
「許さん!」
「封魔では獣同士のやりあいはいいんでっか」
「馬鹿が!我は封魔の忍び、おぬしは首を垂れた獣、死ね!」
杖を突いた忍びが合図をすると四人が刀を抜いた。
黒山の獣どもの一番大事な財産は足だ。飛んで跳ね走るからこそ獣の仕事は疾走ると言われるのだ。それを失っては出来る事はせいぜいが按摩か商人の振りでもして流言飛語を撒くくらいの物しかない。
お門違いとはいえ恨みを持つのも当然ではある。
しかし中蔵とてこんなことで殺されては堪ったものではない。
「ま、ま落ち着いてえな。ほれこれをやるさかい」
そう言って革袋を投げてよこした。革袋は杖を突いた忍びの前に落ちチャリンと音がした。
「なんじゃこれは」銭だという事は分かっている。中身を確かめようと身をかがめると中蔵は言った。
「目潰しや」
革袋が破裂し五人は白い煙に包まれた。四人は一歩進むだけで煙から出たがそれ以上は動けなかった。
目から涙が溢れ鼻の奥は焼けるようで咳が止まらなかった。
「中蔵!卑怯な!!」杖を突いた忍びが白煙に巻かれるままに叫んだ。
「卑怯て、阿呆かい」中蔵はその隙に一目散に逃げだした。
毒が混ぜてあるわけではない。附子の粉は混ぜてあるが獣は殺せない。黒山の獣は幼子の頃より死なぬ程度に様々な毒を少しずつ混ぜられている飯を食わされているからだ。多少は身体の動きを鈍らせる効果はあるが死にはしない。
それよりも焼いた紅芥子の粉、これは別だ。これで死ぬことはない。しかしほんのわずかな間だがその目と喉を焼く。紅芥子は鍋に入れることもあるがこれは中蔵が特別に育てた紅芥子で楊枝の先ほどでも口にすれば舌を焼くほどの紅芥子だ。
中蔵は封魔の双子の屋敷の戸を叩き窮状を訴えた。
実につまらぬいざこざを持ち込んだものだと双子の兄である小太郎は思ったが、五人に襲われながらも逃げ来る中蔵に逆に興味が湧き目通りを許した。
中蔵が命乞いをするかのように之之其其とまくし立てているところに五人の忍びがやってきた。
杖を突いた一人が恨み辛みを述べ立て中蔵を殺させろと息巻いた。
封魔の忍びが頭にこんな下らぬ揉め事を持ち込むのか。あきれ果てた封魔の小太郎は「良いぞ、殺せ」と告げる。
杖を手にした忍びは嬉しそうに顔を上げ周りの四人を見たが四人は自分を見ていた。中蔵までもが自分を見、そして封魔の小太郎までもが自分を見ていた。
「なぜ!!」そう叫ぶ忍びに小太郎がもう一度言った。
「殺せ」杖を突いた忍びは四人の刀で突き殺された。
「下がれ」小太郎がそう言うと四人の忍びと中蔵は去ろうとするが「待て、中蔵と言ったか、そこにおれ」と言った。
「お主、南良の下り獣よな?」
「へえ」
「羽二重でヤツの膝を打ったと言ったな」
「へい、ですが逃げる時に襲われたもんでそれは儂だって・・・」
「黙れ。羽二重から南良に逃げたのか」
「へえ、ですからそん時に苦無を打ってんな・・」
「黙れ!羽二重から南良に逃げた。その前はまさか若山におったのか?」
「へい。と言うのも儂は・・」
「黙れ!余計なことは言うな!ふーむ、若山から羽二重に逃げ、更に南良までも逃げたか。お主ここでの疾走りはどこへ」
「えーと、そうでんな。色々疾走りましたが・・・そうそう四石へも行きましたな、あん時はえらい大変で伊代でこれがもう・・」
「黙れ!!!首はいくつ取った」
「へい、首は・・まだやけど、盗みとか・・」中蔵は土に頭を付けた。
「黙れというに。ふーむ、面白いな」
小太郎は腕を組みしばし思案した。
「面白い。蜥蜴の中蔵だな」
「蜥蜴?」
「そうだ、お主は尻尾を斬ってまで逃げる蜥蜴よ。面白い、使ってやる」
そうして中蔵は小太郎の覚えめでたい一風変わった蜥蜴となった。
蜥蜴に坂ノ家の次の標的となった国の地形や城を調べさせると、どの獣よりも詳細な情報を持ち帰るのだった。
山を調べさせれば縄張りの狩人でなければ分からないような道までも調べ上げ城の構造はもちろん、城兵の数から攻めるに難い場所から補給路に隠し通路までをも詳細に調べ上げてくるのだった。
これはただ身体のみを鍛え上げ敵を斬るためだけに生きる獣には到底できない芸当だ。
その図を元に城攻めが決まれば蜥蜴は盗みの技で忍び込み、代わりに兵糧に毒を混ぜてくるという事までやった。
城は難なく落ちたが信康は不満を小太郎にぶつけた。
「兵糧に毒を入れたというが、城兵どもは立ち向かってきたではないか!」と。
小太郎は屋敷に戻ると蜥蜴を呼びつけそれをそのままぶつけた。確かにこの蜥蜴、使えはするが命惜しさに毒を入れずに逃げてきたのだと思い、斬り捨てようと心に決めていた。
「蜥蜴、毒を入れたというのはまことか」
「へい、もちろん乾し赤茸に曼陀羅華の粉をですな、こう・・・」
「黙れ、お前はいつも言葉が多い。信康様は城兵が立ち向かってきたとお怒りだ」
「そらあ、なぁ」
「毒を入れたと謀ったのか!」
小太郎は語気を強め刀に手を向けた。
「いやいや、毒は入れましたが死んだら困るやろ」
「何を言っておる」
「あんな、毒飯食って死人が出たらそれ以上誰も食わんがな。そしたら残りはピンピンしとるやろ。それじゃあせっかく命がけで忍び込んだん馬鹿らしゅうなるわ」蜥蜴は喋りすぎたかと小太郎の顔を伺う。
「続けろ」と小太郎が言う。
「赤茸は耳鳴りがして遠うなり喉が渇くんや。曼陀羅華の根は指先が痺れてな、蕾は寝付きが悪うなる」
「寝つきなど、毒と言えるか」
「死ぬばっかりが毒やないんや、これから戦いう時によう眠れず喉が渇いて居ったら城の水も減るばっかりやろ。まあこれも今日明日いうもんでもない。三日四日と食べ続けて何か身体がおかしいと思ったところで毒は十日は抜けん。毒は強すぎず弱すぎずなんや。儂は城攻めはいつかと何度も聞いたやろ?しっかし教えてくれんからこっちは毒の調合に悩むわな、でも・・」
「黙れ。ふむ、城攻めは四日が良いという事か」したり顔で納得するような小太郎に蜥蜴が失礼にも舌を打ち返す。
「チッ、ちゃうがな、四日には毒に気が付くわな。そうなったらもう恐ろしゅうて飯は食えんやろ。そこでまた三日や。腹は空いて力も入らず毒で指は痺れて刀は杖にしかならん。攻めるんは七日。十日なんて毒は抜け始める頃やし、代わりの兵糧も届き始めて毒飯を捨てた頃やろ。それなのに信康はんは十日目に攻めたやろ、そらあ・・」
「控えろ!信康様だ!」
「へ、へい!」調子に乗り喋りすぎたと中蔵は許しを乞うように土間に額を付けた。
「下がれ」
粗末な薄半纏を着て背を向け部屋を出る蜥蜴を見て小太郎は当然の懸念を持った。
蜥蜴は裏切らぬか?あやつに毒を盛られたらという懸念だ。
その懸念を拭い払うのは簡単だ。尻尾ではなくその身を斬ってしまえばいい。しかしあの盗みの才能は惜しい、実に惜しい。
十日。蜥蜴はそう言った。毒が抜け始め飯を食い始めた時に信康様は攻めたという。だがそれでもやはりまだ毒は抜けきってはおらず、飯はまだその身に力を戻す前だった。
城攻めは信康様の圧勝だった。これが蜥蜴の言うように七日だったら刀は杖にしかならず城はもっと易くに落ちたという事か。
「ふーむたった一匹の蜥蜴如きが・・・恐ろしい」
刀はろくに扱えず、盲に苦無を打つような蜥蜴が一城の命運を左右したというのか。
小太郎はこの懸念が払えるとは思えなかったが蜥蜴にまた疾走りを任せた。
とある金蔵から金を盗んで来いと命じた。
蜥蜴には敵方の金蔵と伝えおいたが実際は封魔の隠し金蔵の一つだった。
金蔵には守りを厳重にしておけと命じておいたが蜥蜴は両箱を持ちかえった。
見張りは盗まれたことにすら気が付いておらず小太郎はその者たちを切り捨てるように命じ肝心な両箱の中身を改めた。
小太郎はもちろん金蔵から盗まれた額を知っている。大判五十六両に小判が七両だ。
小太郎は中蔵の持ち帰った両箱の中身を数えさせた。
きっかり大判五十六両に小判が七両。
小太郎が蜥蜴を睨みつける。すぐに蜥蜴は言い訳を始めた。
「いや、少ない言うんでっか?黄金は重いんでそないに持ていう・・・」
「黙れ!」
「へ、へい!」
蜥蜴は土間に額を付けたが上目使いにニヤ付いた顔で小太郎を見ていた。褒美の銭を期待している卑しい顔だ。
小太郎は両箱から小判一枚を蜥蜴の前に放り告げた。
「褒美だ、よくやった」
蜥蜴は反射的に土間に落ちた小判を右手で抑え左右を見てから誰も奪おうとはしていないことを確かめてから下衆な笑いを浮かべて小判を懐にしまった。
「下がれ」
「へい!」蜥蜴はたった一枚の小判を守るように襤褸の薄半纏を押さえながらに立ち上がると実に卑しい顔で頭を下げ出て行った。
銭にニヤける欲はあるのに両箱からくすねるほどの知恵は無いのか。
それが小太郎が蜥蜴に与えた判断だった。
蜥蜴の盗みの技で城は実に簡単に落ちた。信康本人は大軍を率い陰陽の道を西に突き進み、蜥蜴は坂ノ家の配下の者に従い四石へと渡りその地に毒を撒き坂ノ家の別動隊は軽々と四石の地を平らげた。
残るは陰陽の道の果て九国の地のみだ。
しかし蜥蜴は暇になった。四石の地では毒を撒き城が落ちるたびに褒美に小判の一枚を貰えたが信康公が九国の地へと渡ると蜥蜴が呼ばれることは無くなった。
京は南の城井、瀬ノ内に浮かぶ四石、西に延びる陰陽の道を平らげた坂ノ家の前に九国は最早風前の灯だ。
その九国の火を揉み消せば坂ノ家は関西の覇者だ。
信康は関西の覇者となるにあたり、獣の盗みの技などに頼らず真正面から力で踏み潰すことこそが覇者たる資格だと考えたのだ。
そうして九国の火もまた坂ノ家によって踏み消された。
坂ノ家信康は関西の覇者となり、関西坂ノ家と坂東石ノ家の決戦は目前となった。
そんな時に陰陽の道の大雲の地で残党が反旗を翻した。
蜥蜴はその大将首を取ることを命ぜられた。
「いやいや、無理やて。な、盗みならなんぼでもやれるけどな、知っとるやろ、首は・・・」
「黙れ、行け。行かねば斬る」小太郎は無情にも言う。
「いや、なぁて。儂はな・・・」
「ここで斬られるか、それでも良いぞ」小太郎がそう言うと近習が刀に手を伸ばす。
「待ってえな行くさかい。いやでもな、あんまり期待せんで頼むわ」
やれやれとばかりに蜥蜴は立ち上がるが小太郎は念を押す。
「首を持ち帰らねば斬る、逃げても斬る」
「そんな!なんでや!儂はこないに疾走ってきたやないか。なんでまたそないな・・・」
「黙れ、行け」
蜥蜴は今にも泣きそうな顔で出て行った。
「信康様、蜥蜴を大雲の地へと向かわせました」小太郎は信康の前に両膝を土間に突き言上した
「切って捨てれば早いじゃろうに」信康は既に将軍か法王にでもなったかのような言葉使いだ。
「いえ、蜥蜴なりに役には立ちました故」
役に立ったどころの話ではない。四石の地は蜥蜴の盗みの術で平らげたと言っても過言ではない。たとえ元は下りの獣とはいえそんな者を用済みだと斬り捨てるは他の忍びに示しがつかない。
殺すにはそれなりの理由と場所が必要なのだ。
「戻ると思うかえ?」
「いや十中八九は」
「そうか、哀れよな。まあ良い仮に戻ったら目通りを許すぞ」
「はっ!」
小太郎は思う。蜥蜴のあの盗みの技は稀有の物だ。いや、逃げの技と言った方が良いだろう。あの技は確かに惜しいがもう必要の無いものだ。
信康様が天下を取れば要らぬ技どころか厄介ですらある。
もうすぐ坂東石ノ家と関西坂ノ家が雌雄を決する時が来るだろう。それは城攻めなどと言う小さな戦ではなく山野で両の大軍がぶつかり合う大合戦となるはずだ。
小太郎は大雲の地へと向かう蜥蜴に特に手練れの忍びを付け逃げたら切れとだけ申し付けておいた。
蜥蜴の技は確かに惜しい。惜しいがもう要らぬ技なのだ。
だが蜥蜴はまたも生き延びた。
小太郎は止めたが信康様は見事に首を持ち帰った蜥蜴に目通りを許した。
蜥蜴に付けた者は逃げ遅れ斬られたという。蜥蜴に与える仕事はもう無いが配下の者の手前、斬るわけにもいかぬ。
おかしな素振りを見せればその時は容赦なく斬る。小太郎はそう思いひとまずは蜥蜴を放っておくことにはした。
今は石ノ家との決戦を控えた大事な時なのだ。
両者の決戦の地は関の南の国、名児耶であった。名児耶は大平原であるが二つの山がある。天候山と王覇山だ。名児耶で戦とするならばこの二山を取った方が勝つであろう。
名児耶は関の東であり石ノ家の勢力圏ではあるが本拠地である幸御霊の地からは遠く、坂ノ家の大坂からは近い。すでに名児耶には封魔の忍びが多く入っておりその地をよく見ている。
決戦の地を名児耶と定めた時点で坂ノ家の勝利は確定している。
天子様が京に住まう以上、決戦の地を関より西に定めることは出来ず、かといってわざわざ坂ノ家が坂東の地まで赴くこともない。
だが火の源の国の戦火を消し均すなどと言う大言壮語を吐く石ノ家はなんとしても坂ノ家を潰したいのだろう、決戦の地を名児耶と通達してきた。
当然信康様はそれに応じた。
数万に及ぶ坂ノ家の先軍勢は既に関を東に越えており容易く二山を取るであろう。それで勝ちだ。おそらく東に遠い坂東石ノ家はそう言った名児耶の地勢に疎かったのだろう。
信康様は名児耶の決戦に忍びの技は要らぬと言い放ち見張りに徹しよと厳命した。
石ノ家義経は一騎当千と噂に聞くが大言壮語を吐く者のどこまで真実か。仮にそれが事実だとしても二山を取る我、坂ノ家信康の勝利は既に決まっておるのだ。
石ノ家は破れ坂ノ家が天子様に仕える唯一の華となるのだ。華となるからにはそれを決める戦も華々しい勝利で飾られなければならない。
坂ノ家はこの大戦で火の源の国の覇者となるのだ。覇者には覇者の勝ち方があるのじゃ。
信康様はそう言っていた。
信康様が、いや坂ノ家が将軍と法王を兼任するのか。それとも坂ノ家に従った関西の者の中から新たな横八華を選ぶのか。
一介の忍びである小太郎には想像もつかない政の世界だ。
何にせよこの戦のあとに火の源の国は坂ノ家信康様の下に統一され、二千年に及ぶ戦火は消えるのだろう。
戦火の無い世とはいったいどんな世なのか。小太郎には想像もつかない。
小太郎は忍びなのだ。忍びは戦火の中でのみ生まれ出る存在。
忍びとは首に値を付け首を売ることを生業にしている獣なのだ。
戦火が消えたら首の値は上がるのか下がるのか。
「大子郎、これで火の源の戦火も消えるのだな」小太郎は傍らに立つ弟に声をかけた。
「あー、消えるなー」野太い声で大子郎が答える。
「戦火が消えたら首の値は上がると思うか、それとも下がるのか」
「上がるだろう」大子郎は迷いなく答えた。
「ほう何故じゃ」意外な即答に小太郎も少し驚いた。
「上がれば飯一杯食える」
「そうか、そうだな」やはり弟に聞いたのは無駄だったな。
小太郎の弟である大子郎は身の丈も膂力も刀術も人一倍を誇っているが、知恵だけはそうではなかった。
蜥蜴がいた。
信康様の御目通りを終えたか。薄半纏の胸を手で押さえて足早に帰ろうとしているのは褒美を貰ったのであろう、どこまでも卑しい男だ。
「蜥蜴!」小太郎は声をかけた。
蜥蜴は周囲を見回しながら胸の銭を両手で抑えてゆっくりと歩いてきた。実に嫌そうな顔で早く銭を隠したいという気持ちが見てとれた。
あの盗みの技があればいくらでも銭を盗んで来れそうなものなのにたった一枚の小判を必死に守ろうとしていたのを思い出す。銭を得る欲は持つのに銭を掠め取るほどの知恵は持ち合わしてはいない卑しい蜥蜴。
だが小太郎は何か鍵になればと思い聞いた。
「蜥蜴、戦火が消え戦の無い世とはどんなものだと思う」
「そうでんな、女子がえぇモンを自分で選べる世とちゃいますか」
小太郎には蜥蜴のいう事の意味が分からなかった。小太郎はあくまでもこの先の世で忍びはどうなるかと言う事を聞いていたからだ。
「女子が、どういうことだ」
「そのままや、女子が銭で売られることもなく政の添え物にもならん言う世や」
女子が銭に売られぬ世?それが戦火と関係があるのか?小太郎にはわからない。蜥蜴はそわそわと周囲を見渡し胸を抑え、早く銭を隠したいと言うあさましい思いが溢れ出ている。
「信康様に褒美を頂いたか」小太郎が意地の悪い顔を覗かせ聞くと蜥蜴は吃驚して胸を強く抑えた。
小判の音が鳴った。
「へい、ありがたく」
「いくら頂けた」
「いや、それは小判の一両で」
「嘘をつくな、銭の音がしたぞ。一両ではあるまい」
「いや、ほんまに一両で、その一両は傷代で。首代としてはまた別やって、その・・」
封魔の双頭を前に銭の心配か。女子だなんだと所詮知恵の足らぬ者の戯言だという事だ。
「よい、下がれ」
蜥蜴はすぐに背を向け少し駆けるように歩き始めた。
小太郎はみすぼらしい薄半纏を着た蜥蜴のその背を見て違和感を感じ再び呼び止めた。
「待て」
「なんや、もうええやろ」
「蜥蜴、背を斬られたと聞いたぞ。その薄半纏は切れておらぬな」
「はえ、まあこれは儂の一張羅さかい斬られるような時には着ていかんで」
「しかし、血も滲んでおらぬな。深く斬られたと聞いたぞ、それゆえ傷代を頂けたのではないのか」
「血止めしたんや」蜥蜴は逃げるように走り始めた。
「止まれ!誰がだ、お主は一人で戻ったであろう。背の傷を自分で血止めしたとでもいうのか!」
蜥蜴は走るのを止め、そしてゆっくりと振り返った。
「この半纏を斬るわけにはいかんからな、うっかりしとったわ」振り向いた蜥蜴は笑っていた。それは銭を欲する下衆な顔ではなく、銭に向ける卑しい笑みでもなく、小太郎に向けた不敵な笑みだった。
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