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意地の悪い猫 後編

何一つ見落とさないようにと近所の道路を見渡しながら歩き続けた
見つけることも見つけないことも安堵にはならないのだがやはり杞憂であってほしい

このまま探し続けても何も見つからず家に戻れば数年過ごした家ではなく庭の草むらの奥で大事に子供を守っている親猫の姿があって欲しかった

しかし見てしまった
道路脇の植え込みに半ば隠れるように黒猫が横たわっていた
進みたくなかった
だが見ないわけにはいかない
逃げてくれと心の底から懇願しつつ歩み寄った
あれは野良猫だ、足音に気が付き次の瞬間にも振り向き逃げ去ってくれと思った
しかし歩みを進めても横たわる黒猫はピクリとも動かなかった
触れたくはなかったし確かめたくもなかった
だが黒猫を手に拾いあげた
真っ黒く艶やかな毛並みを見てもまだあきらめられなかった

違う、違うよ・・と誰にともなく祈りつつ黒猫の顔を見ると鼻先の周りだけ赤く血に染まっていた
黒猫の身体は弛緩しきっており今にも手から滑り落ちそうで寝ているわけではないことがわかる
なにか変な薬か何かを口にし気絶しているのか?
そうではない、車に撥ねられたのだろう右の後ろ足がまともではないし、しなやかだった肋骨が不気味に凹んでいる
死んでいるのだ
数分の間、猫の亡骸を手に立ちすくんでいた
認めたくなかったからだ
歩き始めたらそれを認めることになるような気がしたからだ
だが黒猫は動かなかった

………。
涙が溢れ出た、そして歩き出した
認めたくないまま諦められないまま亡骸を抱き家へと向かった
すれ違う人々が猫の亡骸を手に歩く気味の悪い人から目を背け距離を取る
だが何も目に入らない、手に抱いた猫に涙を落としながら歩いた

黒猫は今にも何をしているんだ?と顔を上げて早く帰ろうと鳴き手を舐めて汚れた鼻を掻くんだ
後ろ足は脱臼していただけ
肋骨も似たようなものだろ

黒猫は咳をして血を吐く
慌てて動物病院に走ると医者は手遅れになるところでしたよと言うんだ

黒猫は……

黒猫は……

だが猫は微動だにしなかった

動かない黒猫を抱きしめて胸に押し付けた
ほら寒いんだろ
温めてやるよ
なあ

黒猫は動かなかった
抱きかかえた指が砕けた肋骨にめり込むだけだった
死んでいるんだ

色々な奇跡が頭を過っていくがそれが叶うことは無い
奇跡というのは叶わないからこそ奇跡なのだ

黒猫は妙に気高く実に意地が悪かった

いたずらな子供の手の届かない塀の上や屋根樋を歩き道行く人を見下ろすような黒猫だった
ドアを叩きチー!と呼ぶ
前はそれを見られるのが恥ずかしく通行人を気にしていたが近所のオバサン連中にチーちゃんのお兄さんと呼ばれるようになっては最早どうでもいい
黒猫が草むらから嬉しそうに勢いよく飛び出してくる
あの黒猫は意地が悪いから呼ばれるまで姿を隠しているのだ

しかしある時期から黒猫は草むらから飛び出すことは無くなりついにはゆっくりと歩み出てくるようになった
始めはオバサン連中からよほどいい食事を貰っているのだろうと思っていた
太ったのだろうと思っていたが違った
黒猫は子供を宿していた

ドアを開けるとゆっくり中に入ってくるのだが前のように何かと絡んできたり布団の中に忍び込んでくるようなことは少なくなり捨てなかっただけのタオルが敷かれた段ボール箱でジッとしていることが多くなった

すっかりお腹が大きくなり家の中に留め置いておこうとドアを閉めると黒猫はナーナーと泣きドアをカリカリと引っ掻いた
仕方なく黒猫を外に出し仕事へと向かった
それを何度となく繰り返したある深夜、黒猫はドアを掻き鳴いた
何事かと思ったが猫がいつまでもドアを掻くので仕方なく開けてやった
黒猫はノソノソと外へ出て庭を進み放置され雑草の生い茂った草むらへと姿を消した

翌朝、仕事へと行こうとするのだがやはり気になる
庭の草むらの奥から小さな鳴き声が聞こえてきた
そこには親猫と三匹の子猫がいた
家の中に入れてやろうとしたが親猫は疲れ切っている様子にもかかわらずそれでも顔を上げ警戒するように子猫を守るためにその前に立った
仕方なく仕事へと向かった

その後も親猫は家の中に入ろうとはしなかった
もちろん食事は与えた
初めて猫用の缶詰を買った
シーチキンより高いものだとは知らなかった
いつもの皿に盛ってやり親子の前に置いてやろうとしたが子猫に手が届きそうな範囲に入る前に親猫は牙をむきフー!と唸る
だが親猫は疲れ切っておりそれはとても弱々しかった

少し離れた所に置いてやるが親猫は警戒を解かずこちらを睨んでいた
家へと戻り自分の食事をし椅子に座りテレビを見ていた
もちろん、何も頭には入らない
暫くしてから庭に出て皿を確認すると半分ほど減っていた
親子は寝ていたようだったが親猫はすぐに侵入者に気が付き警戒の顔を向けてきた
諦めて放っておくことにした

翌朝も玄関を出て庭を覗いた
親猫も子猫もかなり弱っているようだった
後ろ髪を引かれる思いでトラックへと乗り仕事へと向かった

また缶詰を買い求め帰宅し庭を見た
皿の中は空っぽになっていた
少しばかり安堵しまた皿を缶詰で満たしてやる
いや、三匹の子猫だけだ
親猫がいない
そして子猫は鳴くこともなく微動だにしなかった
慌てて近所の道をくまなく探し歩き始めた

猫は死期を悟ると飼い主の元を去ると言う
それはおそらくは迷信の類だ
勝手知ったる住処の近くでは問題ないが好奇心か何かでそこから出てしまった猫は慣れない場所で未知の危険に出会ってしまった時に命を落とすのだろう
チーはそれに出会ってしまったのだ
車に轢かれたのだろうが、誰の仕業なんだなどとは頭の片隅を過ることすらなかった
ただ辛く、涙が溢れた
亡骸を抱き家へと帰り庭に穴を掘りチーをそこに収めた
子猫に目をやると先ほど同じ姿だった
手を伸ばしても反応はなかった
一匹を手にしてみたがやはり死んでいた

キジトラと言うのだろうか焦げ茶に黒い縞模様が入っている
そっと撫でてやり母親の腹の脇に置いてやった
次の子猫も同じ模様だったがやはり死んでいる
顔が少し汚れていたのでシャツの裾で拭ってから優しく撫でてやりそっと息を吹きかけてみたが何の反応もない
産毛のような柔らかい毛が少しなびいただけだった
もう一度ゆっくりと撫でてやり二匹並べて置いてやった
それを見ていると二匹の子猫は今にも母猫の乳を飲み始め母猫はそれに慈しむ様な目を向けそうなのだが一匹の親猫と二匹の子猫は穴の底で微動だにしない

三匹目の最後の子猫に目を向けると一人ぼっちになってしまったことを恐れたのか這うように穴に近寄ってきた
まだ生きていた

辛うじて目が開いているようだがおそらくまだ何も見えてはいないだろう
それでも最後の子猫は家族を感じそして追い穴の淵まで這いより泣いていた
チーにあのタオルをかけてやろうと思い家に戻った

チーはよく布団にもぐりこんでくるのだが玄関の隅に用意してやったタオルの敷かれた段ボール箱で寝ることも多かった
すっかり古くなった元は汗拭きタオルの寝床を捨てて新品のタオルに変えてやった
しかしチーはせっかく用意してやった新品のタオルを段ボール箱から放り出しゴミ箱に収まった汗拭きタオルを咥え戻るのだ
まとわりついた毛を念入りに拭き洗濯してやってもチーはあのタオルが何よりも大事なようだった

埋める前にあのタオルをかけてやろうと思った
そうでもしなければあのタオルはあの段ボール箱と共にいつまでも玄関にあり続けるだろうからだ
洗っても洗ってもいつも毛に塗れていたタオル
他の洗濯物とは一緒に洗えないので面倒でしかなかったこのタオルを手にし匂いを嗅いだ
また涙が溢れてきた

あの最後の子猫は家族を追って穴に落ちているだろう
そうであってほしい
そこにタオルをかけてやりあとは土をかぶせるだけだ
そしていつかはこの辛さも和らぐだろう

だがタオルを手に庭に戻ると子猫はまだ穴の淵で泣いていた
この手でまだ生きている子猫を穴に入れたくはない
だがタオルをチーにかけてやると子猫はそれを追うように穴へと落ちた
母親と最後を共にした方が良いだろうと思ったわけではない
穴の底で動かないチーを見ていると辛くまた涙が溢れる

冬の寒い日だけ布団に潜り込んでくる
夏の暑い日だけクーラーの効いた寝室へと涼みにやってくる
飲みもしないミルクを用意しろと皿を叩く
組んだ腕に乗り首のにおいを嗅ぎ喉をゴロゴロと鳴らし安らいでいるかと思えばいつまでも首に顔をこすりつけ続け毛づくろいのブラシをかけろと要求してきた

そう言った思い出がこの辛さを癒してくれることはない
それこそが胸をより深く抉るのだ
思い出が大きければ大きいほど、大事であればあるほどそれを失った時に抉り取られる胸の穴は深く大きくなる

穴に入れたタオルを持ち上げてみた
子猫が必死にタオルにしがみ付いていた
この子猫をチーのように迎え入れたらまたいつか胸を深く抉り取るのだ
タオルを穴に放った
タオルでそっと親子を覆ってやった
何かの間違いであってほしいという思いはまだかすかに残ってはいたがタオルにそっと手をやり親子がすでに冷たくなっているのを改めて確認すると諦めざるを得なかった

ごめんな
そう思いながら土をかぶせていった
最後の子猫が必死に泣いていた
無理やりにでも家に閉じ込めておくべきだったのか
仕事を休んででも見守ってやるべきだったのか
そんなことは出来ない
仕方がなかったのだ
土をかぶせ終え家へと戻った

アイツを埋めたところにあの鼻の様に白い花をつける何かを植えてやろうと思いながら冷蔵庫から牛乳を取り出し椅子に着いた
コップに牛乳を注ぎながら枯れることが無くいつまでも白い花を咲かせる花はないかとスマホで探してみた
いやいっそのこと血のような赤い花でも植えてみるか
白い花など見るたびに辛くなりそうだ

とてもじゃないが食事を作る気にはなれなかった
グラスを取り酒を注ぎテレビを点けた
相変わらずどうでもいいクイズ番組だったがもちろん頭には入らない
椅子に座り腕を組んでいると思い出す

アイツはいつも組んだ腕に乗り顔を首にこすりつけてきた
汗ばんだ首に猫の毛がまとわりつくのが本当に不快だったので帰宅すると直ぐに風呂に入る様になり特に首は念入りに洗うようになった
思い返してみるとアイツは寒い冬に布団に潜り込んできても、暑い夏に涼みに来ても首の近くに頭を置いていた
まるでその匂いを嗅いで安心するかのように

腹の前や足元に入られては寝返りを打った時に気が付かないままにその小さな身体に乗りかけたり蹴ったりせずに済むので都合がいいと思った
肉食のネコ科の特性として首を狙う習性があるのかなどと冗談紛れに思っていたが違うのだ
アイツは生まれて初めて触れてくれたあのタオルの匂いを覚えていたのだ
汗臭い首の匂いを忘れられなかったのだ

亡骸を見つけ土に埋めることが出来たのは幸いだったと思う
確かにその亡骸を見つけてしまったことで胸が大きく抉られたがもし見つけられなかったらいつまでも大きな不安に苛まされ続けただろう

亡骸を見つけそれを埋めたことでどこか一区切りついた気がする
ハッキリとアイツはもういないんだと諦めることが出来る
アイツはもういないのだと認めることが出来る

思い出が溢れ出れば出るほどそれが胸を大きく抉る
だがアイツはもういない
自分で土をかけ埋めたからこそそう思えるのだ

もういないからこそこれ以上抉られることはなく、この抉られた穴は少しづつ時間が埋めてくれることだろう

しかし見つけていなかったら
どこかで生きているのかもしれないという思いは胸の穴を深く抉ることは無いかもしれないが諦めきれない思いがいつまでもいつまでも少しずつ少しずつ胸を抉り続けるだろう
毎日毎日家に帰るたびにチー!と呼び何もいない草むらに無駄な希望の目を向けるたびに胸を抉られ続けただろう

アイツは死んだ
だから埋めた
子猫も死んでいた
それも埋めた
それで良かったのだ

グラスの酒をあおるように飲みまた注いだ
酒が喉を焼き空腹の胃の壁を伝わり行く感覚を覚えた
胃袋は今必要なものはこれではないと抗議をするが今本当に必要なものは充足感や満腹感を覚える事ではなく酩酊し少しでもこの辛さを遠ざける事だ

なぜこんなにも辛いのだろうか
たかが猫の一匹が死んだくらいで
元々死にかけていた猫なんだ

そう思い込んでこの辛さから出来るだけ早く逃げ出したかった

だが分かっている
アイツはとうの昔に拾ってきたたかが死にかけている一匹の猫ではなくなっていたのだ
アイツを引き取ってから二日か三日で死んでいたとしても「ああそうか」と思い埋めただけだっただろう
だがアイツは実に意地の悪い猫に育ったんだ

いつまでも首に顔を擦り付けブラッシングを要求したいして飲みもしないミルクを要求し名前を呼ぶまで草むらに隠れている
アイツを失って分かった
いや認める
分かっていたよ

アイツは意地の悪い猫なんかじゃなかった
ため息をつきながらブラッシングをしてやった
うんざりしながらミルクを注いでやった
舌打ちしながら名前を呼んでやった

アイツは意地が悪かったんじゃない
相手をしてくれていたのだ
ブラシをあててやると実に気持ちよさそうにするアイツにいつまでもブラシを当てていただろ
カタカタと皿を叩きたいして飲みもしないミルクを要求するアイツを見て苦笑いしていただろ
ドアを叩きチーと呼ぶのは恥ずかしかった
だがそれに答えてくれ嬉しそうに飛び出してくるアイツを見て嬉しかっただろ

グラスを満たしている酒をあおりまた注ぐ
テレビに目を向け腕を組んだ
だがもうこの腕に乗り首のにおいを嗅いでくるアイツはもういない
更にグラスを口に運び中身を飲み干したが今度は酒瓶には手を伸ばさずにコップの牛乳に指を突っこみ軽くかき回してから引き出した
それを少しの間だけ眺めチーをつれて来た日を思い出した

震えている小さな子猫に冷たい牛乳を飲ませるのは良くないという事くらいはわかる
だからせめて指に雫を溜め少しは温めてやろうと思ったのだ
指を舐めると生温い牛乳に少しばかり塩気があった
そういえば今日はまだ風呂に入っていなかったな
どうでもいいか
そう思ってまたコップの牛乳に指を深く突っ込んだ
指を引き出しまた雫を眺めた

もういいか
そう思って十分に温まったであろう雫を子猫に差しだした
子猫は指についた雫に舌を伸ばした
それはすぐになくなりまた次の雫を十分に温め差し出してやる
子猫は両手で雫の付いた指を必死に抑えながら飲んでいた
それを何度か繰り返すうちに指を抑えたまま動かなくなった
分かっているよ寝たんだよな
あの段ボールを持ってきてそこに新しいタオルを用意してやり子猫を入れてやった
どうせすぐに起きて次の雫を欲しがるんだ
牛乳の入ったコップと子猫を納めた段ボールを手にし寝室へと入った
子猫の腹を指で軽くこすってやると子猫は起きてニーニーと鳴きまた牛乳を要求した
また指で温めてやり子猫に差しだした
それを何度か繰り返すと子猫はパタリと倒れた
寝ぼけているのか夢でも見ているのか子猫は時折前足で何かを掴むような動作をした
軽く優しくそっと撫でてやると子猫は安心したかのように静かに眠った

子猫はチーと同じ黒猫だったが後ろ足が白く、顔は耳より前が白かった
まるで真っ黒なコートを羽織り黒いフードを耳まで被っているようだった

フード
そう呼んでやった
子猫はやはり寝ぼけていたのかそう呼ばれかすかに反応し顔を回した

子猫はチーと同じようにいつか胸を深く抉るだろう
だが今この深く抉られた胸の穴にこの子猫を納めておくことが何よりの癒しになる

明日猫用のミルクを買ってやろう
忘れることはない
明日もあの日と同じようにこの箱ごと子猫を連れて行くのだから

フー
子猫にそう名前を付けた

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