第五十話 心友

勤務を終えた田中はスマホに届いていたショートメールに気が付いた、花藤からだった。
中学時代からの30年来の親友が送ってきたメールは「久しぶり」その一言だけ。相変わらずだなと田中は思う。
電話嫌い故のメールなのだが無駄な話は一切しないどころか最低限以下の事しか打たない男、それが田中が江東区の辰巳の団地に越してきてからの親友である花藤と言う男だ。

田中はすぐに花藤に電話を掛けた。
花藤はすぐに電話に出た。

「久しぶりだな」
「ああ、どうした?」
「今度な、練馬の駐屯地に用事が出来てな。ちょっとどうだ?」
「いいな。いつだ?」
「まだはっきりとはしないんだが来月の初めだろう」

花藤とはもう何年会っていないだろうか、そんなヤツががいきなり来月だと言う。断る理由は何一つない。

「分かった。時期がハッキリしたらなるべく早く連絡をくれ」田中は警察官と言う職業柄、五時以降なら大丈夫とは言えないし、気軽に「明日は休みます」などとも言えない。それは花藤も分かっているし花藤としても同じはずだ。
「ああ、そうする」
用事は終わった。

「東京はどうだ?寒いんだろうな」

田中にとって日本の最北端は幼少の頃に行った那須の別荘までで、その記憶すらもはや薄い。
そんな田中には花藤のいる北海道が日本で一番寒い所だと言う認識なのだが東京の寒さはまた別なのだそうだ。実際、警察機構内部にも多い東北の豪雪地帯出身の者に言わせるとやはり東京の方が寒いと言う。

彼らは地元の雪より東京の石が冷たいと言い、故郷の静かに降り積もる雪よりも東京の空気を斬り裂くような音を立てて吹きすさぶ風の方が寒いと言う。

しかし冬には氷点下20度以下を記録するような地域から来た者達が、氷点下5度になったら気候変動だ天変地異だと大ニュースになるであろう東京の方が寒いと言う一番の理由は家だ。雪国では一般的なセントラルヒーティングなどの十分な暖房器具や外気を完全に遮断する超高気密構造の家は東京にはない。

若い警察官の住まう寮など実に粗末な作りだ。市井の人は税金を無駄に使いさぞ贅沢な作りをしているなどと思うだろう。田中はそこの世話になったことは無いが寮に住まう同僚を訪ねたことはある。思わず辰巳の団地を思い出す作りだった。壊した方が早くて安上がりだろうと思える築30年を軽く超える物を中途半端に壊してリフォームしているのが現状だ。税金を無駄に使っていると言われたら否定はできないかもしれない。

「まあ、こっちは雪は降らないからな」
「それはいいな」花藤が軽く笑った。

電話越しに二人の間にしばしの沈黙が流れる。

「お袋さん元気か?」
「今、ヨーロッパに旅行に行ってるよ」
「一人でか!?」
花藤が珍しく驚いたような声を上げた。

「まあな、俺はそうそう海外には出れないからな。お袋には執事みたいな高級ガイドを付けて楽しんでもらっているよ」
「そうか・・」花藤は少しばかり安心したような声だ。
「お前はどうなんだ?転属ではないよな?」田中が聞いた。
「ああ、俺は相変わらずしがみ付いていいるだけだ。ただの雑用だよ」花藤はまた軽く笑った。今度は自虐的に。
「そうか」
「お前こそどうなんだ?」
「俺もまあ似たようなもんだな」

当然、田中はもうすぐ警部補に昇進できそうな状況にあることは口にしない。
「俺はともかく田中、お前はもったいないよな」
もったいないのは俺ではなくお前の方だろう。田中はそう思うがもちろんそれも口にはしない。
「まああれだ、時期が分かったら早めに連絡をくれ」
「そうだな、じゃあな」花藤はそう言って電話を切った。

花藤廉也。
田中が母と辰巳の団地へと逃げるようにやってきたころからの親友だ。
親友。ベストフレンド。最高の友。
花藤とはそんな言葉が安っぽく思えるほどの仲だ。

田中が辰巳の団地へと越してきた時、辰巳の何棟も立ち並ぶ巨大な団地を見て驚いた。杉並ではこんな建物は見たことが無かった。

こんな大きな家に住むんだと期待に胸を膨らませたのは一瞬だった。ドアノッカーの付いた重厚なローズウッドの扉ではなく、ペンキの禿げた金属製のドアの向こうのたったの二部屋と、コンロが二つしかついていないしチキンを丸ごと焼けるオーブンすらないとても狭いキッチンだけがこれから田中と母が暮らしていくスペースなのだと直ぐに理解した。

杉並の屋敷には田中のオモチャを置いておくだけの部屋があったがここにはそんな部屋は無いし、置いておくオモチャもなかった。田中が唯一持ってきたのは遊び飽きたテレビゲームといくつかのカセットだけだった。プールは無く、それどころかバスケットゴールを据えた庭すらない。

しかし団地にはバスケットコートやサッカーゴールまである広い公園があった。田中は自分と母が置かれた状況を理解したつもりだったがやはりまだ子供だった。かつての杉並の豪邸で友人たちをプールに招いたようにその公園がまるで自分の庭であるかのように振舞った。サッカーボールの一つも持っていない子供のそのような振舞は他の子供からすぐに煙たがられ田中はイジメられるようになった。

団地の子供は皆同じ学校に通っている。学校でも、そして団地へと帰ってきても田中の心が休まる時は無くなった。素直に団地の狭い部屋にこもってテレビゲームに興じながら母の帰りを待っていれば良かったのだろうが、田中はイジメに屈せずに団地の公園へと向かう。

プールやバスケットコートのある自宅や、母が友人にふるまう大きなカップに入ったアイスクリームのおかげだったとしてもそれまで田中は常に輪の中心にいたのだ。
そんな強気な田中にも少ないながらも友人は出来たがイジメが止まることは無かった。
そのイジメの中心にいたのが花藤だった。

花藤はいわばガキ大将だった。時代錯誤な感はあるがそれは団地と言う特殊な閉鎖空間では昭和が終わってもまだ存在していたのだ。
花藤は足が速くサッカーが上手かった。子供たちの間では、少なくとも男児の間では何か一つ取り柄があればヒーローに成れるものだ。誰よりも早く逆上がりが出来たとか学校のプール授業で誰よりも早く25メートルを泳げたとか、バットを持てばホームランを打ったとかそんな些細なことで誰もがヒーローに成れた。
そんな中で一番わかりやすいのは足が速いことだ。花藤は誰よりも足が速かった。
そしてJリーグ発足の気運が高まっていた当時、子供たちの間ではサッカーの人気は野球に追いつき始めていた。
そして花藤はサッカーも上手かった。花藤はヒーローたる要素を二つも持っていたのだ。
田中もバスケットは上手かったが周りの子供はまだそれをヒーローの要素と受け入れることが出来るほどバスケットを知らなかった。しかし田中はもう一つヒーローたる要素を持っていた。
それはテレビゲームだ。田中の家には団地の子供たちにはおいそれとは手が出ない最新鋭機だったテレビゲームがあった。それを飽きるほどに遊びつくしていた田中はまさにヒーローだった。

田中の周りに集まる子供たちは徐々に多くなり、今日は誰が田中の家に遊びに行けるかがバスケットよりもサッカーよりも重要な要素になっていった。

花藤とサッカーに熱を上げる子供は一人減り二人減り、花藤と一番仲の良かった川田少年までが「今日はちょっと」と言って公園を去るようになった。
花藤は分かっていた。川田は今日、田中の家に行く権利を勝ち取ったのだと。
花藤は田中に決闘を申し込んだ。サッカーとバスケットでだ。
まずはサッカーで1オン1の勝負だった。1対1で相手を抜きゴールを決めると言うもので田中もそれなりに善戦したが5対4と言う僅差で負けた。
花藤は確かにサッカーは上手かったがそれは足の速さと子供の割に強力なシュートによるところが大きく1オン1ではあまり生かせなかったのだ。
だがバスケットとなれば俄然田中が有利だ。サッカーのゴールに比べたらバスケットのゴールはとても小さい。経験者でなければ妨害の無いフリースローであってもそう簡単にはゴールを決められないだろう。
それでも花藤はまぐれではあるが1ゴールを決めた。だが田中は既に4ポイント先行していた。
田中が花藤をかわしシュートを放った。

「入れ!」田中がそう叫んだ瞬間に負けを悟った花藤は田中を突き飛ばした。
取っ組み合いの喧嘩が始まった。殴ると言うより叩き合いの子供の喧嘩だったが田中は唇を切り花藤は鼻血を流した。
決闘を見守っていた周りの子供たちに引き離されたが二人は罵りあった。
もちろん事はそれでは収まらなかった。

結局はズルをした花藤が親に連れられ田中家のドアを開ける事となった。
田中はあいつが謝るはずないと思っていたし、実際、猫の様に首根っこを掴まれてドアの向こうにいた花藤は顔を合わせようともしなかった。
花藤の親が平身低頭に謝る前で田中の母は子供達の事ですからと言い逆に田中にも謝るように言った。
「なんでさ!あいつがズルしたんだ!」そう憤る田中を母は叱りつけて、花藤の親も息子に頭を下げさせようと、顔を背ける花藤の頭を無理やりに前に向かせると花藤は田中が想像もしていなかった言葉を口にした。

「田中くんごめん!」
そう言って頭を下げた花藤は顔を真っ赤にし、田中はそれを悔しさの表れだと思っていた。
「ほら、カナも!」母にそう言われ田中も仕方なく頭を下げた。
「こっちこそゴメン・・・」
「じゃあ、もう仲良くできるよね?」母はそう言うが田中は冗談じゃないと思った。
しかし花藤は違った。
「はい!すいませんでした!」
「謝るようなことするんじゃないよ!まったくもう!」花藤は親に小言を言われ頭を叩かれて帰って行った。
田中はどこか負けた気がした。あんなにも顔を真っ赤にしてまで頭を下げた花藤にだ。それは布団に入ってもまだ田中の中でもやもやとした悔しさを残していた。

次の日、田中が朝食のトーストをかじっていると呼び鈴が鳴った。

母がこんな朝早くから誰かしらと言いながら玄関へと向かったがすぐに嬉しそうな顔で戻ってきた。
「花藤君が迎えに来てくれてるわよ、早く食べちゃいなさい」
母は驚く田中を玄関に押し出すようにして花藤に言った。
「ありがとね花藤君」
「いえ、友達ですから!」
気を付けの姿勢で母にそう言う花藤の顔はまた赤かった。

「なんだよお前、ズルしたくせに」
「ああ?じゃあ50メートル走で勝負するか」
「そんなのズルいだろ!」
「なにがズルいんだよ」
「だってお前が勝つだろ」
「だよな」

あ・・。
「なら!次のプールの授業でまた決闘だ!」田中は必死にミスを補おうとするが花藤は軽く返した。
「いいぜ、25メートルな!」
花藤と田中は団地でも学校でも輪の中心に位置するようになった。
誰よりも足が速く、キーパー役が気の毒に思えるようなシュートを放つ花藤。
誰よりも早くプールを泳ぎ切り、50センチに満たない輪っかにボールを収める田中。
二人はまさにヒーローになった。

それは実に気分のいいものだった。自宅のプールやテレビゲームのおかげではなく、自分達の実力だったからだ。
花藤と田中はすぐに中学生となり運よく同じクラスになり、当然二人はそこでも輪の中心に位置することになった。
田中は花藤の強い誘いを受けサッカー部に入った。バスケットボールよりサッカーの方がよりヒーローになれると言われたからだ。

田中は花藤から基礎的なボールの扱いから強烈なシュートまで叩き込まれた。ドリブルは苦手だったが身長の伸び始めた田中は足元寄りもその高さで勝負できるようになり中学二年の頃には花藤がアシストし田中の豪快なヘディングシュートでゴールネットを揺らすと言うのが辰巳三中サッカー部の必殺技とまで言われるようになっていた。

今でならそんな二人がいたらJリーガーを目指すと言う夢を抱いただろうが当時はまだJリーグは無かった。だが二人は充分にヒーローとしての立場を満喫していた。

そんな二人は高校も同じくした。公立の進学校だった。

中学時代の花藤は意外にも成績が良かった。田中は常に学年で5番以内をキープしていたが花藤も10番から下に落ちることは一度もなかったのだ。

しかし二人は高校では徐々に距離を置くことになった。クラスが別々だったという事もあるが部活動も花藤はその足を生かし陸上部へと入り田中は柔道部へと入部した。

そこまではまだ二人の関係は通学を共にしていたしもちろん親友のままだった。

だが花藤が高校の授業にまるで付いていけなくなり落ちこぼれのレッテルを張られる様になると、高校でも常に学年上位をキープしていた田中とは少しずつ接点が減り始めるようになった。

花藤は試験のたびに散々な成績で補修を受けることが常だった。それでも花藤は何とか二年生となったがその成績は悲惨なものでついには留年さえ覚悟しなければならないまでに落ちぶれており、さすがに田中が付きっきりで勉強を教える事にした。

二人で何とか三年へと進級しても田中は花藤の専属の家庭教師であり続けた。

花藤に時間を割く田中の成績までもが落ち始めると花藤は罪悪感を持つようになり田中に頼ることを拒否し始めた。それでも田中はお構いなしに花藤の家庭教師を買って出た。

ある日、田中の家で二人でいつものように勉強に励んでいた時だ。突然に花藤が涙を流した。
「もう止めてくれよ」
「何がだよ」
花藤の心の内は成績が落ち続けている田中に対する申し訳なさでいっぱいだった。
「なあ、自分の勉強をしろよ」
「してるさ」
「どこがだよ!どんどん落ちてるじゃないか!俺、お前の足を引っ張ってる・・・」

田中は花藤が涙を流すほどに追い詰めていたことにようやく気が付いた。田中はどこかで成績が落ちている言い訳に花藤を使っていたことに気が付き本心を打ち明けた。

「俺は大学には行かない、警察官になる」
「俺のせいで・・」涙をぬぐう花藤に田中は言った。
「違う!!元からだ、警察官になるために柔道部にも入ったんだ。中学を卒業するときに決めていたんだ」

花藤にはそう言ったが田中の本心は少し違った。中学を卒業するときにはまだ大学への夢は諦めきれてはいなかった。だから公立の進学校へと進んだのだ。
だがやはり大学へは進めないと思いいたり花藤の家庭教師を買って出る事で成績が落ちていく言い訳を作っていたのだ。

「なんでだよ、お前あんなに成績良かったじゃないか」

田中はその理由を語った。母を一日でも早く助けてやりたいという思いを。花藤も納得した。

そして花藤は留年することなく無事に高校を卒業し自衛隊へと進み、田中は警察学校へと進んだのだ。

その後の田中は巡査部長どまりの万年ハコヅメ警官だったが、自衛隊へと進んだ花藤はすぐに陸曹にまで昇進しレンジャー課程へと進みその後も驚くべき速さで昇進を続け尉官となり、ついには佐官にまでも手に届くかというところであれが起きた。

東北大震災だ。

当時レンジャー教官として北海道の第七師団にいた花藤のところまで派遣要請が来た。
その時の事は花藤から聞いた。

自衛隊で唯一の機甲部隊であり三個戦車連隊を核とし自衛隊が所有する戦車の三分の一が集中的に配備されている北の第七師団は災害派遣には向かないのだが隊員だけでもと派遣されることになった。米国政府までもが地震発生のその日に災害派遣に協力を申し出て日本政府も正式に支援要請を出したほどだ。ただ事ではない。それは現地に着く前から理解していたつもりだった。

だが花藤が到着したそこはまさに、百聞は一見に如かず。その言葉通りだったという。
ここには生存者はいない。それが一目見て分かったと言う。
事実、花藤は一人の生存者も助け出すことは無かった。数えきれないほどに犠牲者に手を合わせていく中で花藤は一枚の写真を撮られた。
犠牲者を抱き笑みを浮かべる顔を。
この写真が世に出ることは無かった。自衛隊の上層部が何とか抑え込んだからだ。
長い震災派遣が終わった時、花藤は降格処分を受け北海道の山奥の備品保管庫の管理係となり佐官にまで手を掛けていた男は降格に次ぐ降格で今では陸曹だ。窓際どころか窓すらない極寒の地で廃棄処分されるのを待つだけの装備品を眺める男。それが今の花藤だ。

花藤は最初は田中をイジめるガキ大将だった。
それが高校へと進むと田中が落ちこぼれの花藤を救うようになった。
次には花藤は自衛官のエリートとなる。
そしてまた落ちぶれた。
こうしたお互いの転落が二人の仲をより強め、二人は親友というよりも心の友、心友となっていったのかもしれない。

田中はビルの間の細道に立つとスマホをポケットにしまい進む。

道路にビールケースやパイプ椅子を並べた外人が田中に目を向けた。そして松もすぐに田中に気が付く。
「あ、お巡りさん」松のその言葉で道路にいた外人たちは納得し自分たちの酒へと視線を戻した。
松は田中にジッポライターを差しだした。
田中が忘れて言った物だ。田中はそれを受け取ると用事は済んでしまった。
田中は「どうも」と礼を言うが本当の用事は別にある。しかし今日はこのまま帰るべきだろうか。そう思いつつ逡巡する田中の様子に気が付いた松は「うちのルール、お忘れですか」そう言って木箱に目を向けた。
「は、はい」田中が返事をし財布を取り出すと木箱に千円札を一枚収めた。
松は外から三つ目の椅子に手を向け田中をいざなった。
「どうも」田中は礼を述べて椅子に付く。
「お食事は」
「いえ、まだです」
「今、ちょうどおにぎりを作っているんで。味噌は大丈夫ですか」
味噌?ダメな日本人がいるだろうか。
「ええ、もちろん」
不思議そうな顔をする田中に松は苦笑いをし一人で納得するように頷いた。
「ナオキのヤツは好き嫌いが多くて」松がおにぎりを作りながら舌打ちを
した。
「そうなんですか?」意外だった。蕎麦の食べ方にまでうるさく水の違いまで分かるというのに好き嫌いが多いとは。メニューの無いこの店ではだいぶ不便そうだが・・。
「ユズに漬物、酢の物もダメ。寿司で言えばシンコに雲丹は嫌い、カレーを出してやったらラッキョウは食えない。果物なら柿は要らない、シャインマスカットもですよ。ナオキに言わせると皮ごと食える?皮なんか食いたくないってね。もう今じゃアイツのお袋さんよりアイツの好き嫌いを知っていますよ」松は全く面倒くさいヤツだとばかりに首を振った。
「彼らの親御さんもいらっしゃるんですか?」
「いや、あいつらには家族がいないんです」喋りすぎたか、と松が顔を伏せた。

家族がいない?気にはなったがさすがに田中もそれについては深く聞けないことは分かる。
「漬物がダメって、さすがに梅干しは」
松が焼き台を濡れ布巾で拭いた。ジュー!という音と共に湯気が立ち上る。
「茶漬けに梅干しを乗せてやったら食えないって言われましたよ」
「じゃあ梅干しのおにぎりも?」
「ええ、おにぎりって言えば昆布の佃煮に明太子もダメ、寿司のイクラは食うくせにおにぎりのイクラはダメ、筋子もダメと。そのくせタラコの煮つけは美味そうに食うんですよアイツ」松が焼き台におにぎりを並べていくとパチパチと音がしてすぐに香ばしい焼き味噌の香りが漂ってきた。

松と後藤のやりとりを思い浮かべると田中は思わず笑ってしまう。
「カレーに乗せたラッキョウが食えないと言ったかと思えば福神漬けはたっぷり乗せてくれ、ですからね」
「大変ですね」
「ホントに、アイツはね」松は笑みを浮かべながら鼻で笑った。

あのエビス屋の二人と松がどれほど仲が良いのかが分かった。
後藤。面白い男だ。
「岸くんの方は?」
「あいつは何でも食いますよ」松が答えおにぎりをひっくり返していく。
そう言えば岸は蕎麦よりピザが好きだとか後藤が言っていたか。

田中はここか?と思うが松の焼くおにぎりが気になり口を閉じたままにした。
二人は口を閉じ、松は黙々と焼きおにぎりを作っていった。

松が「上がったぞ!」と声をかけると道路にいた外人たちの中から一人がすぐにやってきた。黒人だった。田中は、披露宴?の時には見なかったなと思った。その黒人はわざとらしいくらいに恭しく頭を下げて松のおにぎりが盛られた皿を両手で受け取った。松は更に鍋をカウンターに置き汁椀を横に重ね置いた。味噌汁だ。

松から田中にまだ湯気の立つ二つの焼きおにぎりが差し出されそれを受け取ると次は実に熱そうに湯気が立ち上る味噌汁が差し出された。

田中の前に置かれた焼きおにぎりは二つ。一つは赤味噌のようで海苔が巻かれ、もう一つは白味噌のようで海苔は無し。味噌汁は白味噌のみで具はアサリだった。そこに松が手を伸ばし刻んだアサツキを散らした。

「どうぞ」松が言う。

田中は軽く頭を下げ松のおにぎりと向かい合う。まずは海苔の巻かれた赤味噌の焼きおにぎりから挑むことにした。

パリッとした海苔の食感を楽しむと直ぐに香ばしい焼き味噌の味が広がった。味噌は焦げる寸前くらいで焼いてあったのだが米自体は程よく焼かれている。焼きおにぎりを作ってから味噌を塗りさらに焼いたのか。たかが焼きおにぎりに手間をかけるものだ。もちろん旨い。

川風が吹き田中は思わず身体を震わせた。ふと道路を見ると半袖シャツの者が二人ほどいた。北欧系だろうか、高い身長の白人男性だった。田中は少しばかり呆れながら汁椀を手に味噌汁を啜った。

貝を摘まむ。アサリではなくハマグリか。途端に豪華に感じる。しかし旨い。白味噌の焼きおにぎりに手を伸ばしこちらもあっという間に食べ終えてしまった。味噌汁を飲み干し身体も温まった。

「一本つけますか」松が聞く。
「いえ、まずはこっちを頂きます」田中はそう言って席を立つとジョッキを取りだしビールを注いだ。

松に皿と汁椀を戻すと変わりにまた一皿を渡された。タコキムチと言ったところだろうか、薄くイチョウに切った大根とキュウリがも入っている。これが意外と辛くビールによく合った。

「そう言えば、後藤くんは山葵がダメだとか」
「ええ、そうですよ」
「じゃあ辛い物がダメ?」
「いや、それがまた面倒で唐辛子は大丈夫でカレーは辛い方が良いっていうんですけどね。和辛子は嫌い、でもウナギには山椒が無いとダメだってね」

いや、これは松も大変そうだ。

松の焼きおにぎりを堪能し終えた先ほどの黒人が手にした古びたカセットテープを松に見せて懇願するように頭を下げた。松はカセットテープを見て軽くため息をついてから頷いた。

黒人は嬉しそうに奥のドアに向かい倉庫へと入って行く。

そしてすぐに出てきた。その手には倉庫にしまい込んであったのだろうこれまた古めかしくて大きなラジカセを手にしていた。

「あまりうるさくしないでくれよ」松が忠告すると黒人は嬉しそうにサムアップを向けラジカセのコードをコンセントに差し手にしていたカセットテープをセットした。

黒人は若い。何を聞かされるのかと田中が訝しんでいると流れてきたのは「め組の人」だった。

しかも鈴木雅之の物ではなくバックコーラス付きのラッツ&スターの物だ。

どこかラテン風を感じさせるミュージックが流れはじめバックコーラスを率いながら鈴木雅之が歌い始めた。

田中がこれを聞いていたのはいつの頃だったか。そうだ、杉並の家でだった。するとこれは40年くらい昔の曲という事だ。

杉並の家には音響部屋がありマントルピースがあった。もちろん煙突があって焚火が出来るわけではなくそれはストーブを置くためのスペースだったのだろうがそこにはレコードプレイヤーが置かれており、部屋の四隅には大きなスピーカーが設置されていた。

レコードプレイヤーすら珍しかったのだが、それに繋がる4つのスピーカーから出る音楽はステレオタイプだった。これを持つ家庭はほとんどいなかったのではないだろか。当時の田中は今でいうところの環境音声のようなレコードをよく聞いていたものだ。

それは森の中にいるような感覚になるモノだった。クラシックが流れる部屋の中を風が吹き通り木々の葉が揺れ、鳥が飛んでいくのだ。今でならステレオ、立体音響など当たり前の物だがそれがCDですらない黒いレコードで実現できていたのだ。

それはすぐにラジカセに取って代わったが田中は森の中にいる気分になれるステレオレコードが好きだった。

プレイヤーにレコードをセットし静かに針を置いてから部屋の真ん中に座って目を瞑ると前から後ろに風が吹くの感じられ右から左へと鳥が鳴きながら飛んでいくのが感じられた。

今時のロックやポップミュージックならエレキギターが前面に出てくるものだが桑マンのトランペットが絶妙に間をつなぐと周囲の客たちがこれは何だ?という顔を若い黒人に向けた。

若い黒人は松に掴むような仕草の右手を向け、松はそれに対し「ほどほどにな」と返す。

若い黒人はさっそくボリュームを上げ、曲に合わせながら実に楽しそうに身体を揺らしている。本当に好きなんだろう。

しかし、これは……と田中は思う。

鈴木雅之ならいいのかもしれないが、これはラッツ&スターだ。

日本のコメディアンが顔を黒く塗っていたら叩かれるご時世なのだ。

あの若い黒人はラッツ&スターの容姿を知っているのだろうか?

幼少の頃の田中はアレを見て少なからず黒人に憧れを抱いたものだ。

そういった想いは当時の日本人にもあっただろう。

しかし時代が違う。

今はブラックフェイスはステレオタイプだとネガティブに捉えられてしまう。

田中が戦々恐々としていると当の黒人が「オマーリさん!これ知ってるか!?」と聞いてくる。

田中が頷くと黒人はさらに嬉しそうにして自分の顔を両手で叩き言う。

「ラッツ&スター!ブラックフェイス!」

田中が、あぁ知っているよと曖昧に頷く。

別の外人が「なんだこれ、日本のブルースか?」と聞く。

若い黒人は声をかけてきた者にサッと振り向き熱弁を始めたようだ。

ラッツ&スターが顔を黒く塗っていることは知ってるようだが、それに対してネガティブな感情は抱いていないようだ。

「アレはビーディーの父親の形見のカセットテープだそうで」

松が若い黒人を見つめながら言った。

「ビーディーってのは彼?」

「そうです。なんでもヤツの父親はトランペットが趣味らしくてね、ビーディーに言わせればプロ顔負け。近所の酒場に行けば皆にせがまれてビーディーの父親がペットを吹いてその親友が歌ってたとかでね、二人がきた日のバーはチップが飛び交いヤツの親父さんとその相棒は酒場で飲み代を払ったことがないとかなんとか。で、その二人の十八番がめ組のひとだったとか」
「形見と……」
「そう、死んじまったらしいです。ヤツは親父さんに、ラッツ&スターは黒人に敬意を持っている日本のミュージシャンだって教えられたって言ってましたね」

曲が終わりるとビーディーはすぐにラジカセに飛びつき巻き戻し始めたようだ。

また曲が流れ始め松が釘を刺す。

「そのへんにしておけよ!」

そういう松にビーディーは勢いよくサムアップで答える。

「ホントに分かってんのかアイツは」

松は舌を打つ。

「まぁお酒の場ですし少しは」田中が軽くビーディーをフォローしてみる。
「………確かに、もう苦情を言いに来る人もいなったか」

苦情を言いに来る人。佐河の事だ。

田中は一歩踏み込んでみる。

「その、亡くなった佐河さんの部屋のですね、整理などは……親族か誰かいらっしゃるのですか?」

田中はわかっていて聞いた。砂場に血を分けた家族はいない。盃は別だが。

「砂場さんが来るでしょう。大したものも無いでしょうし衣服やら細かいものを処分して終わりでしょう」
「砂場さんというのは、あの時の?」
「ええ、そうです砂場さんについて何か?」
松は警察官である田中が何か探りたいことがあるのだろうと既に勘付いている。
だから面倒は避けて単刀直入に聞いたのだ。
それに田中も気がつきストレートに言った。

「あの日、ジッポを忘れたことに気がついて戻ってきたんですが店は閉まっていましたが、その……駒形堂を曲がっていく後ろ姿が見えたんです」
「後ろ姿」
「はい、顔は見ていません。髪型と服装だけです」
「なら砂場さんとは……」
「はい、確証は持てません」
「田中さんは交番勤務ですよね」
「はい、私の仕事ではありません」

松は佐河組の構成員ではないが何かしらの繋がりがあるのは確かだ。
松は佐河に、家出少年の時に面倒を見てもらった恩はあるが、その後に多額の借金を背負わされたと言っていた。
松に佐河をかばう気はもう残っていないだろうが、砂場との関係はわからない。

どう来る?
ここで松が一切の協力を拒むのならば交番勤務の田中にはもう手が出せないだろう。砂場との繋がりはここしかないのだ。
そもそも田中は砂場を追い詰めようという気もない。ただ、できることならハッキリさせておきたいだけだ。
それも無理ならそれでいい、この件は終わりでいい。
だが松は言った。
「大したものは残っていないでしょうが砂場さんが整理に来るでしょう。その時は連絡しますよ。まぁ私がいる時になりますかね」
松がいる時間。店の仕込みを考えると午後から先という事だろうが、おそらく松めは田中のためにその時間を夜に設定してくれるだろう。

田中と砂場の関係は切れなかった。

ここで砂場との関係が切れてさえいれば後藤直樹、照間瑠偉とこれ以上関わることもなく、そして山井那奈と関わることもなかっただろう。

だがあの日、エビス屋という酒屋のトラックを止めた時からの選択の全てが田中を小さな青い箱に収めることに繋がっているのだ。
たった一つ、どこかで別の選択をしていれば田中の運命は変わっていたはずだ。
だが全ての選択は成されたし、これからもそうなるだろう。
田中は、その身を小さな青い箱の中に押し込められる運命なのだ。

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