第四十話 ギャルカフェ111(トリプルワン
那奈と谷は友人となっていた。
九時五時勤務の週休二日で土日が休みの那奈と、365日24時間営業の警察官である谷が時間を同じくする機会は多くはなかったが、それでも二人は流行りのカフェに連れだったり、谷の数少ない日曜の休みには二人でショッピングへ行くこともあったし、那奈の通う空手教室に谷が見学に来ることもあった。
「グーテンモルゲン!」
調べてきたのだろう、谷がドイツ語のつもりで挨拶をするが残念ながらそれは朝の挨拶だ。
那奈が仕事を終えてから訪れるような時間では「グーテンダーク」か「グーテンアーベント」と言う方が良いだろう。
谷はもはや老齢と言えるドイツ人師範代と那奈やドイツ空手教室の生徒たちが稽古する姿を眺め、時には自分も横に並んだりもした。
その結果わかったのは、やはり那奈の空手は凶器であるという事だった。
風の音が鳴るような蹴り。空気を貫くような拳。このドイツ空手教室での那奈の立場はもはや師範代代理と言っていいものだった。小さな子供に道場での作法を教えたり、中学生に英単語と共に突きの型を指導している姿は可愛らしい空手好きの女の子に見えるのだが、その女の子がまな板のようなブ厚い木の板を拳で割るのを見た時は「那奈さん?」と言いかけたほどだ。
引くほどに驚いている谷を見て那奈は慌てて説明をした。
「これは割れる板なんですよ、リューさんにもできます」
勘弁してよ、一緒にしないで!と両の手を向け後ずさる谷を見て那奈はさらに焦る。
「本当に違うんですよ!ほら見てくださいこの板、木目が綺麗に並んでいるでしょう?こういう板は簡単に割れるんです!」
那奈の言うように割れた板にはノートの罫線のようにまっすぐな木目が綺麗に縦に並んでいる。これが乱れていたり水面に広がる波紋のようになっている板は割れないのだそうだ。板が割れるのはあくまで木目に沿ってであって、そうでない板は割れないのだそうだ。
確かに那奈の割った板は木目をまたぐことなく綺麗に真っ二つになっているし、十分に乾燥しているようでかなり軽い。それに、受け手が板を持つ方向も大事だそうだ。木目が縦になる様に持たなくてはならないらしい。なるほどーと谷が思いかけた瞬間に那奈は墓穴を掘った。
「簡単ですよ!私は八歳の時に出来たんですから!」
「ホント、部長で良かったぁ」谷は心の底から安堵した。
チビ木の奴だったらどうなっていたか?それを考えるだけでも恐ろしかった。
もちろん一番は「私でなくてよかった」だったが。
那奈と谷は友人、いや親友・・・いや、二人は姉妹と言って良い仲となっていた。
谷は那奈を警察機構の外で出来た可愛らしい女の子の友人いつしかを妹のように見て、那奈はどこまでも優しく時に少し意地悪な物言いをする谷にどこか夏奈の代わりを見ていたのかもしれない。
二人の間で数少ない休日を同じくするある日、谷は渋谷に行かない?と言った。
確かに那奈は学生の頃は入りびたる様に渋谷に行き、一日中ショップを巡り歩き服やアクセサリーに踵の厚いブーツを見て回っていたものだ。
もちろん安くはなかった。だからこそ慎重すぎるほどに数日かけて悩み、大事なバイト代を差し出して一枚のシャツを買ったものだ。渋谷のショップで売っているTシャツが特別な品質を保っているというわけではないし、似たようなTシャツを近所の量販店で見かけることもある。だが大事なのは「渋谷のあのショップで買ったシャツを着ている」と言う事実なのだ。あの頃の那奈にとって渋谷は自分の足で訪れることが出来る憧れの地だったのだ。
だが今更渋谷に行っても、今の自分が買う物は無いだろう。
だがそれは言うまでもなく谷とて同じだ。いや、警察官である谷にとって今の渋谷はより遠くなっているはずだ。
だが谷は渋谷に行こうと言った。
「昔の格好でさ!」
もちろん、その意図は分かる。ノスタルジーと言うほどではない。それほど昔の話ではない。
昔の憧れを少し思い出そうというところだろう。
那奈は舌を出した髑髏があしらわれたガンズのTシャツを着て下はハイフレアのデニムにミドルブーツは当然レザーブーツだ。少しばかり悩んだがまだ春先という事もありお気に入りのデニムジャケットを一応着ていくことにした。ボタンは下から二つ目と三つまで。それ以上は胸が邪魔で締めるのはきついだろうが、もともとそのつもりで敢えて小さめのサイズを買ったのだ。那奈はそういった格好で谷が待つ場所へと向かった。
そこにいたのはあの時、スマホで見せてもらった姿そのままの谷だった。濃い色のジーンズに襟の付いた鎧のようなライダーズジャケット。ジェットヘルに首元に巻かれたバンダナはブルーだったが当然、バイクはスマホで見たものそのままでやはり直に見ると谷とは不釣り合いなほどに大きかった。
「スマホで見せてもらった画像そのままですね」
「そう?いいっしょ!?」谷はそう言って身体を揺らし見せた。
しかし予想外の那奈の反応に谷は少し意外だったようだ。
「え?ダメかな?カッコよくない?」
「いえ、カッコいいんですけど・・」
「けど?」
「どんなスタイルで来るのか楽しみにしていたんですけど、スマホで見せてもらったままだから」
「え?ちょっとがっかりって感じ?」
「ええ」
「うーん、でもバイク乗る時はこれだからねえ」那奈の期待を少しばかり裏切ってしまったという事だろう。谷は少し申し訳なさそうに言った。
「でもカッコいいですよね」フォローするかのように那奈が言うと谷は嬉しそうに「でっしょ!?」と微笑んだ。
「私の分のバンダナはあるんですか?」
「あるけど、那奈ちゃんには必要ないよ」
そう言って那奈にフルフェイスのヘルメットを手渡し、自分は愛用のファイヤーパターンの施されたジェットヘルを被り首元に巻いたバンダナを引き上げ口元を覆い隠した。
「いこ!」
谷はバイクにまたがり後部シートを叩き、那奈を手招いた。
ヘルメットにはマイクが内蔵されているようでシートを伝わり内臓まで響くような巨大なバイクのエンジンの咆哮の上でも二人の会話にそれほど問題はなかった。
「代々木公園でさー!カフェフェスやっているみたいなんだよね!それがアタシの知り合いがさー!出てるって言うのよー!ぜひ来てくれって!」
「えー?カフェとして出店してるんですかー!?」
「そー!ギャルカフェなんだけどねー!」
「リューさんも前はギャルだったんですかー!」
谷はその問いにはすぐには答えずアクセルを捻りバイクに更に大きな咆哮を叫ばせながら小さな声で「少しね」とだけ言った。
代々木公園に着くと待ち合わせの時間は伝えてあったのだろう。一人の女性が二人を待っていた。
「ヤル姉!」そう声をかけてきたのは、胸を強調しヘソの見える小さなシャツにデニムのホットパンツ。クビにはハートマークのペンダントが付いたチョーカーを付け、靴はもちろん凶器になりそうなほどの厚底ブーツ。ヘアースタイルは赤身の強いアッシュ系のツインテ。右目はカラコンを嵌めているようで緑色だった。
これぞギャルだと言わんばかりの風貌だった。
「リューさん、飛ばし過ぎですよ」谷はそう咎める那奈にいたずらっぽくウィンクを送りバイクを降りギャルに手を振る。「キミちゃーん!ひっさしぶり!元気してた!?」
(しかし、ヤル姉?)と那奈が疑問を心に浮かべる間もなく谷が二人を互いに紹介した。
「キミちゃん!こっちは那奈ちゃん」谷はそう言って友人に那奈を紹介し「那奈ちゃん、彼女はキミちゃん!ギャルカフェ111の店長さんだよ!年は那奈ちゃんが一個下だったかな?」そう言って那奈に友人を紹介した。
「初めまして、山井那奈って言います」そう言って会釈する那奈に答えることもなくキミと呼ばれたギャルは品定めでもするかのように那奈を見ていた。
「ダメだよキミちゃん、那奈ちゃんは今はこんなでも真面目なOLさんなんだからね!ねーねーバイク置くところあるかなあ?」
「バイクっスか?つーかヤル姉のバイクでけーし!」キミは谷バイクのシートを叩き言った。
「ごめーん!バイクで来るって言っておけばよかったよね!」
「じゃあ、関係者の駐車場にまだ余裕あると思うんスけど。カルちゃーん!!」
キミが声を上げ手を振ると一人の女性が走って近づいてきた。やはりそのファッションはTHEギャルと言った物だった。
「ヤル姉を駐車場に案内してあげて。ヤル姉、とりあえずここで待っているっスから」キミが指示するとカルと呼ばれたギャルは腰を折りながら「はーい!」と敬礼し谷はカルに先導されバイクを置きに行った。
那奈はキミと二人残された。しばしの沈黙が訪れるがキミは那奈に話しかけるつもりはないようだ。カルと呼んだギャルに付いてバイクを押していく谷を見つめていた。
「あの、キミさん。今日はよろしくお願いします」那奈は頭を下げるがキミは振り向くことすらせずに「北島っス」とだけ言った。
「ごめんなさい、北島さん」キミと呼ばれたギャルはどうも機嫌が悪いようだ。
「さん。はいらないっス」
「あ、はい・・」リューさん早く帰ってきてくれないかな・・。どうやら那奈は部外者のようだ。
公園を見渡すと様々なカフェが出店しているようだ。ギャルを売りにしていそうなカフェは見当たらなかった。
「北島さんはその、111の店長さんなんですよね?」
「さん、は要らないっス」キミは繰り返し言う。
「その、お店はどこなんですか?出店しているんですよね?」
「店はヤル姉がきたら行くっスよ。あと、敬語も使わないで欲しいっスね。ウチの決まりなんで」キミはようやく那奈を振り返りその顔を見て話しかけてくれた。
「えーと・・・うん・・」初対面の相手に丁寧な言葉使いを禁止されるのは実に難しい。少なくとも那奈にとっては。キミはすぐに那奈に背を向けた。
しかし、彼女はいつもこんな感じなのだろうか?カフェの店長なのに?ギャルカフェと言うのはこういうコンセプトなのだろうか。
それとも那奈のファッションが気に入らない?
那奈は自分なりにはパンク寄りで暗い目のゴスっぽいギャルと言った感じだ。自分が正当なギャルファッションをしているという自負はないが、まあギャルと言う物は一口に語れるようなモノではないと思っていた。
一言で言えば「人それぞれだ」
メイク一つとっても黒ギャル系だったり、嬢系だったりガングロやマンバと呼ばれる派手過ぎるメイクだってある。
そういった物をひっくるめて「ギャル系」という物だと思っていたのだが、那奈が数年渋谷から離れている間に時代は変わったのだろうか?
キミは一言も、口を開かなかった。
やっと谷が戻ってきた。途端にキミは笑顔を振りまき始める。
「カルちゃん!ありがとー!じゃあヤル姉見て回るっスか?」
「うーん?いいよ、キミちゃんの店に行こうよ」
谷は静かな様子の那奈を見て少し考える風に首をかしげたが何か一人で納得したように「いこ!」と言って那奈の背中を押した。
那奈は並んで歩く三人の後に付き従い、特にキミの後ろ姿を見て歩いて行った。
キミ、カルのギャル二人。谷と那奈は公園内に陣取ったギャルカフェ「111」のブースに着いた。
周りはと言うと、様々なカフェが並び、ドリンクや特徴的なバーガーや少し遅れてはいるがまだまだ流行っているチュロスなどの軽食を手に楽しそうに談笑している。別のブースではテーブルに乗ったランチを楽しむ人たちが多くいた。111のブースには客はあまり多くはなく、いくつかのテーブルに幾人かが座りそこにはドリンクが置かれているだけだった。店員は二人だけのようで、特に何をするわけでもなく席に着いた客と何やら談笑しているだけだ。
すぐ近くに大きなステージがありそこにややタイトな黒いパーカーに黒いパンツ、それにやはり黒の厚底ハーフブーツを履いた金髪の女性が立ちこのフェスのイベント進行を担当しているようだった。黒のフードから覗き見える緑色のメッシュが入った金髪に、全身黒のファッションに散りばめられたシルバーのアクセが時折キラリを輝いていた。
「何か食べるっスか?」キミが谷に聞くが何らかの事情を知ってはいるのだろう谷は「何か増えたの?」と聞き返す。
「いえ、BLTとホットドッグだけっス」
「うーん、フードはいいかな。ワタシはアイスティーがいいな。那奈ちゃんは何にする?」
那奈はそう言われてもメニューすらないので「同じもので」と告げる。
カルがまた「了解~!」と言いながら敬礼し席を離れた。
「最近、お店の方の調子はどうなの?」谷がテーブルに座り周りの見渡しながらキミに聞いた。
「いえー、特には無いっスね。カフェの方はまあ順調っスけど、最近は派遣の方をもっと力入れたいっスね」
「派遣ねーウケると思うけどな」谷はキミを見ずにステージを見ながら言う。
「まだまだっスね」キミもステージに目を向け難しそうな顔をする。
派遣という言葉は気になったが那奈は敢えて別の事を聞いてみた。
「あの、北島さんは・・」
だがすぐに谷が口をはさんだ。
「なによ那奈ちゃん!キミちゃんでいいじゃない?ねえ?」そう言ってキミに同意を求める顔を向けた。しかしキミはそれには答えずに那奈に難しいままの顔を向けた。
「ワタシが、なんスか?」
「剣道、やってるんですか?」
キミの難しい顔が一瞬で驚いた顔になり、谷は逆に嬉しそうな顔をした。
「は!?なんでわかったんスか!?」
「やっぱり・・」と言いかける那奈に谷が割り込んできた。
「那奈ちゃんはこう見えて空手の達人だからねー。キミちゃんより強いかもよ」
「は!?剣道三倍段って知らないんスか!?」キミが憮然と答える。
「えー?ここには竹刀も鎧もないじゃん。那奈ちゃんは強いよー。ウチの部長に一発食らわしたんだからね」
「え!?部長って!?マジっすか!?ええ!?マジすか・・・」警察官という谷の職業を知っているだろうキミは実に予想通りの反応を示した。平たく言えばドン引きと言うヤツだ。
「リューさん!!なに言うんですか!!」
「キミちゃん、空手ギャルとかどう?ウケると思うよー」
キミはポカンと口を開けたまま放心している。
「でも那奈ちゃん、なんでキミちゃんが剣道やっていたってわかったの?やっぱり達人は達人を知るってヤツなのかな?」
達人と言われたキミはまんざらでもなさそうな顔になり、自分も那奈の答えに興味を持ったようだ。
「それは、あの・・」
「あの・・?」先を促すようにキミが顔を寄せてくる。
「歩き方って言うか。スポーツを嗜んでいる人の身の動きと言うか格闘技っぽいかなって・・・なんて言ったらいいか」那奈が答えに詰まる。ハッキリと分かったわけではないのだ。なんとなく剣道じゃないかと思えたのだ。
「格闘技って言っても、ボクシングとかさぁ色々あるじゃない?剣道には行かなくない?」谷が不思議そうな顔で聞いてきた。
「その・・なんて言ったらいいのか・・スポーツとか、体を鍛えている人の動きって普通の人と少し違うんですけど。その、なんて言ったらいいかキミさんの歩く姿はスポーツや格闘技と言うより武道と言った物で・・・空手ではないし、柔道とも違うなって。そうなるとまあ剣道かなあ・・・って」
「さっすが!那奈ちゃん!」谷は嬉しそうに言うがキミはそうでもないようだった。
「那奈ちゃんは何段スか!?」
「いや、私は段とか取っていないです」那奈はすまなそうに答えた。
「ワタシは剣道三段っス!!」キミが自慢げに胸を張って答えるがまた谷が余計な一言を挟んだ。
「那奈ちゃんの空手は20年だよー?まな板みたいな分厚い板を簡単に割っちゃうんだから」
「剣道三倍段って…!」キミはまた言うが谷もまた言った。
「だからーここに竹刀は無いでしょ?それともこのストローでやってみる?」谷は意地悪そうな顔でアイスティーのストローを手にキミの前で振る。
「リューさん!!」思わず那奈が咎めるようにたしなめる。
「ヤル姉!バイクを少し動かしてほしいって!」そこへ客の応対をしていた別のギャルが手を振ってきた。
「え?マジで?勝手に動かせばいいじゃん」谷はそう言いながら立ち上がりそこにキミは「あんなデカいバイク誰も触りたくないっスよ!」と返す。
「ゴメン、ちょっと行ってくるね!」そう言って谷が席を立ち促されるままに走っていった。
「北島さん、剣道三段って・・・」そう言う那奈にキミは名刺を差し出した。
「キミでいいっス」
那奈は受け取った名刺を見るとそこには「株式会社トリプルワン代表 北島美憂」と書かれていた。派遣というのは、ギャルを・・という事だろうか?風俗の匂いがする。あまりいい匂いではない。でも谷はそれほど気にしている素振りではなかった。うーん・・。
「北島・・美憂で、キミちゃんですか」
「そうっス。出来ればタメ口がいいんスけど。ウチの店は、ギャルカフェ111はみんな友達ってコンセプトなんで」
那奈は少し考えて答えた。
「でも今日は、お店じゃなくてフェスじゃないですか」
「そうっスね!」二人は少しだけ打ち解けたように笑いあった。
「剣道はいつから?今も続けているんですか?」
「剣道は高校から初めたんス!インターハイにも出たんスよ!大学は国士館でやってたんスけど三段が取れて全日の女学にも出たんス」
「ええ!?すっごい!結果は?」キミが剣道に向き合っていたのはほんの5年ほどだ、空手歴20年の那奈とは比べるべくもない。だが那奈からは少しの嫌味も感じられず本当に素直な気持ちで言っているのが分かる。
那奈にしてみれば自分の空手はあくまでも近所のドイツの人のオジサンに習っているだけだと言う思いがあった。卑下しているわけでもないが、段位や大会と言った物に縁がなく、特に目を向けることもなかった那奈は純粋な興味から聞いてみたのだがキミの反応は那奈の期待とはまるで真逆の物だった。
「見事に一回戦敗退っすよ。何もできずにボロ負け。三段も取れたし大会に向けてがんばっていたんですけど、急に右目の視力が落ちてしまって大会の時にはほとんど見えてませんでした」
キミの無念や辛さと言う物が素に戻った口調から嫌でも伝わってきた。右目だけのカラコンがそれに関係しているのは間違いないのだろう。
那奈の心配そうな顔をよそにキミは話を続けた。
「片目がロクに見えないんじゃ剣道は無理だし、剣道はそこで止めた感じ。で、やることも無くなっちゃってブラブラしていた時に友達に渋谷に行こうって誘われて来てみたんですけど、もうハマっちゃって。それまで剣道一筋でやってきたからこういう世界があるって知らなくって。いや、そりゃあ雑誌とかテレビとかで見たことはありますけど、来てみると違うんですよね、全然。で、渋谷の街にハマりすぎちゃったって言うんですかね。ハマりすぎて毎日渋谷に通っていて、気が付いたらホストクラブで200万払えって詰められちゃってて・・」
「200・・万!?」驚く那奈にキミは続けた。
「そう、剣道一本でやってきてそれがダメになって渋谷に来てみたら何もかもが新鮮でハマっちゃってね。別に剣道を失って自暴自棄になっていたってわけじゃないんですど気が付いたら開店前のホストクラブで200万払えって詰められてました。ワタシは何が起きているのか分からなくて、そしたら担当の男に耳元で『売りでもやって稼げ』って言われて。200万なんて払えるわけないし、もちろん親には言えないし、その時ワタシまだ19だったしそうするしかないのかなって思っていたらヤル姉が来て・・・」
「来て・・?」
「ワタシは、誰?この人?って思ったけど、ヤル姉は『お前らハタチ前の女の子に酒飲ませて200万!?随分な商売だな!取れるもんなら取ってみろ!!』って言って。ここ、めっちゃカッコいいっスよ。『この子に飲ませたドンペリ持ってこい』って言ってドンペリが来たと思ったら『栓が開いてるじゃねえか!!』ってそれを手にしてブン投げて叩き割ったの。それでワタシの肩に手を掛けて店から連れ出してくれたの」
「200万って・・・」那奈は驚いたように聞くがキミは事も無げに答える。
「ホストってさ、そう言うもんなのよ。ボッタくりバーでさえ引くような値段のお酒を子供みたいな女のコに掛けでいいからってトイレに流すように飲ませてさ、掛けが溜まったら風俗で稼いでも金を持って来いって言うの。好きでもないどころかただの金づるだからそんなことを言うんだけど、女は分からないんだよね。ぶっちゃけワタシは担当の男の顔すら覚えていなかった。お酒なんてちっとも美味しくなかったし、ただ渋谷が楽しかっただけ。売り?売りって何すればいいの?ってビビっていたところにヤル姉が来てくれた。友達でも何でもないワタシのために。ヤル姉ね、ワタシの肩に手を掛けてくれたけど、その手はブルブル震えていた。そりゃあそうだよね、男しかいないホストクラブに女一人で乗り込んできたんだからさ」
「リューさんは、なんで・・」
「あの頃は渋谷で困ったことになったらヤル姉に頼めって風潮があったんですよね。ワタシはまだそんなこと知らなかったし助けを頼んでもいなかった。ヤル姉がなんでワタシを助けにきてくれたのかは分からないけど、ヤル姉がなんでホストクラブでそんな派手なことが出来るのかって言うのはある男のせい」
「え・・彼氏?」那奈は少しゴシップを期待するように聞いたがどうやら違うようだ。
「いや、違くて。ヤル姉の追っかけって言うか。富樫って男なんだけどヤル姉に惚れてたんですよ。まあクズの見本みたいな男だったし男っ気の無いヤル姉には相手にされていなくて、でもヤル姉を振り向かせようと必死になってて。ヤル姉は渋谷の顔って程ではないし正義の味方ってわけでもないんですけど、いっつも人助けみたいなことをしていたんで富樫はそれを必死にサポートしていたからヤル姉に手を出すと富樫に返されるって恐怖はあったんじゃないですかね」
「その富樫さんって言うのは?」
「死にました。結局はクズだったんですよね、あの男。ヤル姉が大学を出て警察学校に入ったらもう芽が無いって諦めたのかすぐにヤクザの下っ端になって本性をぶり返して暴れ始めてあちこちから恨みを買いまくった挙句、ある日詰めすぎた半グレに刺されて殺されました」
「リューさん・・」那奈の知らない谷の事を少しは知れたがあまり良い話ではなかった。
「あと!それっスよ!!なんスかリューさんって!」
「え?リューさん、名前でしょ?」
「そうっスけどー!ヤル姉はリューって呼ぶとキレるんスよ!?なんで那奈ちゃんだけリューさんなんて呼べるんスか!ズルくないスか!?」
先ほどまでキミが那奈に向けていた機嫌の悪さの原因が分かった。
「でもヤル姉って言うのは?」
「ヤル姉って言うのはシブヤのリューだからヤリュー。ヤル姉っス!ワタシが名付けたんス!」キミは今にも立ち上がって胸を張り腰に手を当てそうほどに自慢げな口調だった。
那奈はそんなキミに少し笑って言った。
「リューさん優しいよね」
「そうっス!ホストクラブで助けてくれた時、店を出たらヤル姉歩けなかったんスよ!?」
「え?怪我とか?」
「違うっス!ビビって震えて動けなかったんス!ワタシはすぐにでもクラブから離れたかったんスけどヤル姉は、ちょっと待って動けないって。足がガクガク震えていて、ヤル姉はそれでもワタシの事を助けに来てくれたんス!!」キミの言い草はワタシの方が愛されているとでも言いたげな口調だった。
「うん、リューさんは私の事も助けてくれた。たぶん、私はキミちゃんより弱そうに見えたんだと思う・・・だからリューさんって呼ぶのも許してくれたのんじゃないかな」
「何があったんスか?」
那奈はあの日の事をかいつまんで話した。銀座のデパートに行ったこと、場末の居酒屋で泥酔したこと、田中さんに正拳を見舞ったこと、リューさんから受けた優しさを。そして20年近く会えていない兄の事を。
「リューさん優しいよね」
「そうっス、ヤル姉は誰にも優しいっス!!でも那奈ちゃんはあの田中部長に食らわしたんスよね?グリーンベレーを秒でねじ伏せたっていう警察一の柔道の達人に!?いやあそれはどうかと思うっス!!」
どうやら田中部長と米兵の一件をだいぶ大きめに盛られて聞かされているようだ。谷の仕業であるのは間違いないだろう。
「キミちゃん?変な事広めたら私、怒るからね?」
「冗談!冗談っスよ!」キミが防御するかのように両手でストローを摘まんで構える。
二人は笑いあった。お互い友人が一人増えた。
そこへ谷が戻ってきた。
「なになにー?二人とも楽しそうにしてー」
谷は、険悪と言うほどではなかったが二人の間に漂っていた難しそうな雰囲気が消え去ったことを感じ取り安心したようだ。
そこへステージからはアヴリルのガールフレンドが大音量で流れ始めた。
黒ずくめのパーカーギャルがマイクを手にイベントを再開した。
「はーい!みんな注目ー!!楽しんでるー!?カフェフェスのフード部門の集計が来ましたよー!日本中どころか台湾とバンコクにベトナムからも来てくれてますからねー!三位から行きますよー!」
パーカーギャルが背後に合図を送ると同時にアヴリルが鳴りをひそめ代わりにドラムロールが鳴り響いた。周囲にいた人たちがステージに顔を向ける。
「第三位はー!!」
ステージの周りに集まっていたイベント出店者が注目する中、111の面々と谷は興味なさそうに談笑し始めていた。
まさにここがイベントのラストで周りには出店者たちと思しき人々が集まっている。
「ほら発表ですって!」那奈が促すがこのテーブルに座る111の面々と谷はやはり興味がなさそうだった。
「キミちゃん三位はどこなの?」谷が聞くとキミは思い出すかのように少しためてから答える。
「台湾のソリッドアングルカフェのイチゴタルト・・いや、台湾チーズケーキっスね」
「えー!美味しいそうー!台湾のチーズケーキって、ふわっふわのヤツだよねーちょっともらってこれない?」谷が唇を舐めながら言うがキミはそっけなく答える。
「ヤル姉、フードは要らないって言ったじゃないっスか」
「ええー、言ったけどさー」
「まあもう無理っス」キミは谷の要望を無碍に断ってしまう。
那奈が不思議そう二人を見ているとステージ上でパーカーギャルが第三位の発表をする。
「第三位はー!1312票で台湾のソリッドアングルカフェでーす!チョーふわっふわのチーズケーキが大人気でしたー!イチゴタルトもおススメー!!丸く凍らせたエスプレッソのアイスボールをミルクに入れたカフェラテは絶対飲んで帰ってくださいねー!じゃあ、代表の方ー一言お願いしまーす!!」
カフェの制服なのかセーラー調の可愛らしい服を着た若い女性が呼ばれおずおずとマイクの前に立った。
「ありがとです。カフェラテ飲むください」小さな声でそれだけ言うと真っ赤な顔を見られたくないかのように足早にステージの裾へと掃けようとしたが踵を返しパーカーギャルに両手を差し出して握手を求めた。
パーカーギャルがにっこりと微笑んで握手に応じる。
「いやーんチョー可愛いー!名前は?えーと、うん・・・はーい台湾から来たチョーかわリンちゃんでしたー!みんな拍手ー!」
ステージの上の台湾から来たという女の子は大きな拍手に包まれ先ほどよりさらに顔を赤く染めてステージを降りて行った。
「ほら、もう無理。ソリアンは今頃行列してるっス」
「キミちゃん意地悪ー」と谷が口をとがらせて言うがテーブルについていたキミとカル、そして那奈の軽い抗議の視線を受けることになった。
そんな光景をよそにステージ上ではイベントが進行していく。二位は埼玉のカフェ、デイジーのアーモンドケーキDCで、満を持した一位はバンコクからきたカフェ、クルアロイのキオムーパッカイだった。
「あれ、めっちゃ美味いっスよ。豚肉とワンタンの卵炒め」
「キオ・・えー何?辛そー」
「タイ料理?」谷と那奈が少しだけ興味を持って聞いてみた。
「いえ、味付けはシンプルに塩コショウだけっス。タイ料理って感じではないっスね」
「へー」と二人が相槌を打ったところで今日のイベントは終了のようだ。ステージ上でパーカーギャルが最後のマイクパフォーマンスで締めようとしていた。
「フード部門の一位はバンコクから来てくださったクルアロイでしたー!出店してくださったカフェの皆さんありがとでーす!明日も頑張ってくださーい!今日もまだ時間はありますからみんな帰る前にお気に入りのカフェを見つけてくださいねー!明日はドリンク部門になりますんでーみんなきてねー!じゃあ最後にー今日来てくれた人たち全員に拍手をお願いしまーす!」パーカーギャルがそう言ってマイクを掲げると万雷の拍手が沸き起こった。
「進行は私、ヤミちゃんでしたー!みんなありがとー!明日もよろしくー!」パーカーギャルが深く一礼するともう一度大きな拍手で包まれた。
パーカーギャルがマイクを置き、ステージから降りるとスピーカーからはグリーンデイのマイノリティが控え目なBGMとして流れ始めた。
谷がお疲れさまと言うとキミは満足げに頷いた。那奈には分からなった。カフェのイベントがあり谷の友人であるキミがそこに出店するからという事で今日はここに来たのだろう。しかし結果は箸にも棒にもかからないと言う物だったが、二人はその点には興味がないようだった。那奈は不思議そうに二人を見たがその理由はすぐに分かった。
ステージ上で声を張っていたパーカーギャルが近づいてくるとキミは直ぐにねぎらいの言葉をかけた。
「ヤミちゃんお疲れー!よかったよ!」
(お疲れ?)那奈は不思議に思ったがその疑問はすぐに解けた。
「いやー何度もトチったしまだまだかなー」パーカーギャルはそう言って席を同じくした。
「え?まさか彼女も?」那奈が驚いて聞くとキミはきょとんとして那奈に答えた。
「あれ?言ってなかったっスか?ヤミちゃんは111のナンバーワンっスよ」
それを聞いて那奈は即座に理解できた。
「ああ、派遣ってそう言う事?」
「そうっス、ギャルMCっス。結婚式とかイベントの司会進行にって売り込んでいるんスけどどうもイマイチで」
「このカフェフェスは大盛況じゃない?111の新事業としては大成功でしょ?」
「え?まさか、このフェス自体がキミちゃんの!?」那奈が驚く。
「あれ?言ったじゃない。ワタシの知り合いがフェスやってるって」
「じゃあ、キミちゃんがこのフェスを企画して・・?」
「そうっスよ。司会進行はヤミちゃんでギャルMCの売り込み企画っスよ」キミがそう言いヤミというギャルが那奈ににっこりと微笑んで可愛らしく小さく手を振った。
「ヤミちゃんは現役の青学生でアナウンサーを目指してるんでトレーニングがてらやってもらったんスよ」
キミの狙いはこのカフェフェスで111というギャルカフェを売り込む事ではなく、このイベント自体が売り込む対象だったという事か。なるほど、だからイベントの順位には興味が無かったのか。
「キミちゃんスゴいんだね!!ヤミちゃんもカッコよかったしギャルMCは絶対流行ると思うなー」那奈が素直な意見を口にするとヤミが混じってきた。
ヤミちゃん可愛かったなあ・・。
那奈は小さな火を見つめながら遠くもない記憶を必死に掘り出した。
ヤミは本名を矢崎美玖と言い、カルは苅野瑠美衣だった。111のスタッフはイニシャルのように苗字と名前の一字を取ってスタッフネームとしているとのことだった。
キミはギャルMCを売り込むために今が一番大事な時期だと言っていた。この事業のパイオニアになる必要があると。後発者が似たようなサービスを打ち出してきてもギャルMCのパイオニアと言えば111であると世間に認知されるまでのネームバリューを確立しておく必要があると。
そう熱く語るキミの顔は片目の視力をほぼ失った元剣士でも一人のギャルでもなく野心に燃えた起業家のそれだった。
「オーナー!ヤミが頑張るからー!」ヤミが笑顔でそう言ってもキミの顔は笑顔には程遠かった。
「ヤミちゃんに全部頼りっきりなんスよね・・」
「まあそう簡単には増やせないよねー」と谷が相槌を打つ。
確かにそうなのだろう。ある程度の台本、流れの段取りと言った打ち合わせがあったとしても先ほどまでのステージ上でのヤミは一介の女子大学生のそれではなかった。那奈はヤミをそういった職業訓練を積んだプロだと思っていたほどだ。
だからキミや谷が着くこのテーブルに来たときはフェスの参加者に対する挨拶に来たのかと思ったのだ。
「ヤミちゃんも今年は就職活動っスもんね」キミが難しそうな顔をする。
「えー!?ヤミはこのまま111で頑張りますって!」
「だめ!ヤミちゃんはアナウンサーを目指さなきゃだめっス」キミが強く首を振って答える。
ヤミのいう事もキミのいう事も分かる。ステージ上のヤミは1時間も見ていない那奈からしても類まれなる才能が感じられた。
ヤミはキミを慕いその手助けをしたいと心の底から思っているのだろうが、キミはキミでテレビ界での活躍が約束されているような才能を持つヤミにまだまだ先行き不透明な事業の手助けをさせようとは思えないのだろう。
もちろん、パイオニアになるためにヤミの才能は大きく貢献するだろう。ヤミがいれば111はギャルMCのパイオニアにはなれるだろうことは間違いない。だがそれまでだ。ヤミ一人では「パイオニアだった」と認知されるだけで終わるだろう。そうならないためには第二第三のヤミを産み出し続け市場に供給し続けていかなければならない。キミの懸念はまさにそれだ。だからこそ喉から手の出るほど欲しいヤミの才能を、ヤミ自身のために使って欲しいと願っているのだ。
それは、親心と言ってもいい。親子と言うほど二人の年は離れてはいないが起業家として軌道に乗りつつあるキミの考えと、まだ学生であるヤミの考え方にはそれほどの開きがあるのだろう。そしてそれは谷もキミと同じ考えのようだった。
「ヤミちゃんはアナウンサーになった方がいいと思うよ。ヤミちゃんならなれるしねー。アナウンサーになってそれでも合わないと思ったら111に帰ってくればいいじゃない」
「なにヤル姉まで!」ヤミはそう言って口をとがらせた。
「那奈ちゃんはどう思うー?」
那奈はヤミに問われたがどちらの気持ちも分かる。同意するとしたら・・・。
「うーん、まずはアナウンサーを目指した方がいいんじゃないかな」
味方がいないことが分かったヤミはぷっくりと頬を膨らませた。それが実に可愛かったのもあり那奈は話題を変えた。
「ヤミちゃんのそれ、アヴリル?」
ヤミのふくれっ面は瞬時に消えて心底嬉しそうな顔に変わった。
「マジで!?なんだと思う?」
「それはまあ、ベストダムでしょ?」
ヤミの服装はアヴリルの「ベストダムシング」のミュージックビデオそのままだった。
パーカーかと思っていたがフード付きのワンピース、ハイフレアと言うほどではないパンツ。そしてブーツ。全てブラックだ。
「さっすが!分かる人には分かるよねえ!」
「でもその緑のメッシュはどっちかって言うとスマイルじゃない?」そう那奈が言うとヤミはさらに
嬉しそうに言う。
「那奈ちゃん最ッ高!」
キミは顔を逸らし舌打ちをしてもおかしくないほど苦々しい顔をしていた。
「この子、アヴリル狂いなんスよね」
「アヴリルこそギャルの見本でしょ!!これ!ほら!」ヤミは思わず立ち上がりこれを見ろと言わんばかりに真っ黒なファッションを見せつける。
「この子ね、ウチの店にアヴリルが来たって言い張るんスよ」キミがため息交じりに言う。
「きーまーしーたー!!アレ絶対アヴリルでしたって!!」
キミがため息をついて那奈に言った。
「うーん、ウチの店はまあ外人さんが来ることも少なくないんですけど一度ね、小柄な白人の女性が来たんスよ。サングラスをかけてパーカーのフードを被ったままの」
「あれは絶対にアヴリルでした!!」ヤミが強く言うがキミは少しウンザリしたかのように答えた。
「アヴリルがボディガードも付けずに一人で来るわけないっス」
「ぜっっったいアヴリルでした!!!」
那奈は二人の考えていることが分かった。
キミはアヴリルが日本が好きだと言ってもギャルカフェに一人で来るわけがない。
だがヤミは、111だからこそお忍びで来てくれたと思っているのだ。
ヤミちゃん可愛かったな・・・。
那奈はか細く燃える火を両手で覆いながら楽しかったあの日に思いを寄せていた。
火は今にも消えそうだった。
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