これは私が体験した不整脈の一種で発作性上室性頻拍と言うすぐには死にやしないけど頻繁にドコドコドコドコと心臓が超絶早撃ちになり自分では制御不能な心臓がめちゃくちゃ気持ち悪い「なんだコレ」な病気の闘病の記録です。 自覚→勘違い→発作が止まらない→緊急搬送→入院→手術→退院までの記録を残そうと思います。 心臓の動きが時々不自然な動き方をすると気付いたのは11歳の時ですからざっと33年は放置されていました。 時々過呼吸出るな…とか若年性更年期かな…とか勘違いしているうちに44歳
反抗期真っ只中の14歳の頃の話。 その日は母が迎えに来てくれる日だった。私は日中にあった嫌な事と折り合いの悪い母の迎えと言うことに鬱々としていた。 迎えに来た母の車は白い小さな軽自動車で丸く不格好で古くて狭く、乗り心地も悪いガタガタ言う車だった。 何故か助手席に嫌味な曾祖母さんが乗っていた。 後ろの席は一応あるが足も置けない程狭い車たった為、中学校の大きな鞄はドコに乗せるの状態だった。 乗り込むには曾祖母さんを一度降ろしてシートを前に倒し座席を前に目一杯移動させて乗
子供の頃、父と祖母と祖母の妹の大叔母と私で山形県からの帰り道、車の中から落ち穂拾いをする猿の大群を見たのだ。 今はもう田んぼではなく何かイベントをする為の大きな建物が立った場所がまだ田んぼだった頃、西日が綺麗に指す田んぼに猿の大群が落ち穂拾いをしていた。 それはさながら幾つもの家族連れがピクニックをしているようだった。 「○○お猿さんがピクニックしてっから見てみろ」 父が笑いながら言った。 お父さん私もそう思った(笑) あんなにも西日が綺麗でのどかで楽しそうな自然
あれは小学校2年生くらいの夏休み。 お中元を配るために父と仙台と多賀城辺りの親戚をまわり終え県南に向かって走行中だった。 暑い暑い夏真っ盛り。当時父の車にはクーラーが無く窓全開で走行していた時だった。 暑い暑いとお互いに言いながら帰路についていた。 不意に父が現イオンの当時サンコアの看板を見つけ 「○○アイスでも食ってくか?」 と聞いてきたのだ。 サンコアは子供会の帰りにみんなで寄って買い物をした事があった。山奥の農村に住む私達はサンコアは子供会かお正月の初売
遠い遠い記憶の片隅、多分私の中で一番古い記憶。 なんとなくセピア色で古い家屋があって干し柿が吊るされた軒下と田んぼ仕事用の古き良き作業着を着た老人達と、猟友会が仕留めたであろう真っ黒な熊。 高い所から見下ろしたそれは鼻先がビョーンと出て真っ黒でとても怖くて、恐ろしくて。大泣きしてしまった私をみんながニコニコ笑ってる。 「なんだおっかねが?よぉし、よし」 ほれおっかねど んだやおっかねべやぁ 次々と声がする。 背中を擦る大きな手。 それは誰だったか。 「○○さ
2023年12月3日ゼビオアリーナ仙台LUNA SEA DUAL ARENA TOUR2023 私は実に25年振りにLUNA SEAのLIVEに参戦した。 中学3年生の夏ぐらいに当時大好きだったXJapanを通してLUNA SEAに出会い、それから20歳を迎えるまでの5年間をLUNA SEA一色で生きていた。 アルバイトに明け暮れチケット争奪戦には授業を抜けてまで参戦しライブ用の小物や洋服を作ったりLUNA SEAを考えない日は無いほど濃密な時間を同じくLUNA SEA
父と2人で参加した子供会。 理佐ちゃんと理佐ちゃんのお父さんと私と父で波打ち際でパシャパシャ水の冷たさに慣れた頃、もう少し深い所までゆっくり進むと大きく白波の立つ所まで来た。 海の動きが足に伝わって目の前で巻き寿司を巻くような動きで白い波ができる。凄い迫力に暫く父にしがみついてその様子に呆然と見惚れた。 そして思った程、海の水は冷たくなくてむしろ温水プールのような温かさがあった。 波が来るたび父に持ち上げて貰い何度も何度も波を乗り越えた。持ち上げて貰った一番高い瞬間は
小学校に入学して初めての夏休み。 黄色い帽子も重いランドセルも嫌で嫌で仕方がなかった小学校1年生のあの頃。ある日突然同じ年に生まれたと言う理由だけで入学してクラスメイトになった幼い男女。 小さな小さな小学校にその年入学したのは私を含め8人。担任は来春定年になる威圧的な大きな声でがなり立てる大西(仮名)先生だった。 入学初日からその先生の大きな声と香水臭い大仏パーマと婆ちゃんと似たような歳の先生と言う事にびっくりして大声で泣きそうにつつ母に諌められ涙目で帰宅しみんなを心配
あれは暑い暑い夏の事だ。 夏休み真っ盛り。朝から早起きしてラジオ体操に行き、帰り道に雑木林でカブトムシを捕まえては持って帰っていた小学校中学年辺り。 その日も朝早くに叩き起こされラジオ体操に行き、帰り道のカブトムシスポットのチェックを行い今日はカナブンしかいなかったとがっかりして帰って来た1日の始まり。 豆腐と納豆と冷し味噌汁と言う何とも大豆塗れの朝ご飯を食べた後、ジリジリと気温が上がる茶の間に寝転んで曾祖母の小言を漫画を読みながら聞き流していた。 母は仕事へ行き祖母
私が子供の頃、私の住む街は台風や梅雨の末期の大雨でよく水害に見はまわれた。 桃畑で書いた農家さんも近くの川が反乱し桃の木の背丈の半分まで水に浸かったのを覚えている。 そして持ち上がったのが上流の街を集団移転させてダムを作る計画だった。 子供だっただけに内容までは聞いてはいないのだが一つの街が丸々集団移転、川を堰き止めダムを作り町が水に沈むと言う事を父から聞いて凄く驚いた。 家は?人は?車は?畑は?犬は?牛は? 「全部ダムから上にみんなで移るんだと。政府が家も納屋も新
小学校入学前の私はとても人見知りだった。 翌年の4月に小学校入学を控えた人見知りの私を父は非常に心配し、度々私を仕事である大型トラックで福島県の桃農家への堆肥輸送に連れ出した。 父の本業は米農家だったのだが田んぼが落ち着くと友人宅の畜産業を手伝いアルバイトをしていた。 その畜産農家は堆肥販売もしていてそのトラック輸送を父が行っていたのだ。 大型トラックで1日に何往復も福島県と宮城県を片道約1時間の道のりを行ったり来たりした。 その日の朝も祖母に起こされて朝ご飯を食べ
あれは小学校低学年頃の夏休み。 8月の半ばでお盆の期間中だった。 その年は同じ県内に住む父の妹のおばちゃん達に加え神奈川に住む父の弟であるヒロシ叔父ちゃん(仮名)も帰省して来ていてそれぞれ親戚のいとこ達も合わさりだいぶ賑やかなお盆休みとなっていた。 いとこ達や叔父、叔母達と岩魚捕りやバーベキューや花火など夏休みらしい事を沢山し笑い転げ夜になり遊び過ぎて眠くなったいとこ達は次々に帰って行った。 帰る一家を見送るたびに、日中の大騒ぎを思い出しちょっと寂しくなった。帰りたく
父と見た彗星。 高校生の時だと思う。反抗期真っ只中の10代半ば。世の中の中心が自分で自分さえ良ければそれで良しと考えていた今となっては封印したい黒歴史時代。 子育てを一通り終えた今は恥ずかしさと後悔でひたすら反省してしまうあの時期のこと。 夕飯の後にテレビで彗星のニュースを見ていた父が何気なく、その彗星を見てみようと私を誘ったのだ。 多分、百武彗星だと思う。Googleで調べたら時期と見え方がとても似ていた。あと長い長い周期。 薄っすらとぼんやり明るい頭部と長い尾。
ここに何かを書こうと思ったことの発端は、去年の初夏に父が亡くなった事が大きな理由です。 大好きだった祖母も兄弟同然に育った従兄弟も亡くなりついには父も亡くなり私の幼少期を知る人間が少なくなりつつあるのがどうにも物悲しく遣る瀬無い気持ちになったからです。 今は限界集落気味の山間部の集落に生まれ 実家を出るまでの私の幼少期の記憶が、このまま私だけの中で生きて、私が忘れれば全て無かった事になるのがものすごく悲しかったのです。 母は田舎の例に洩れず嫁として子供を取り上げられひ