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エッセイ~言語化について~

以前どこかのエッセイでも同じような事を書きましたが、
私は感情を言葉にする瞬発力が乏しいと思っています。
それもあって積もり積もった感情の塵を
詩に反映させたり、代弁させたりしているのでしょう。
そういった表現方法によっての補完は望ましい事かもしれません。
しかしその場で伝えきれない「悔しさ」「もどかしさ」が常につきまといます。

ではなぜ伝えられないのでしょうか。
単純に語彙力がないとは思います。
ですがよくよく考えると、伝えなければいけない項目が多すぎることに気が付きました。
例えば自分が「〇〇を始めた」と言う事を誰かに伝えたいと思った時、伝えるべき項目を羅列していくと、
①○○を始めるきっかけ
②○○を始めるまでの経緯
③〇〇を始めたことによっての効果、変化
④○○を始めるに関連して△△についても触れたい

等々、物語として全てを知ってもらいたい、説明したいモードになるため端的にまとめられるわけがないのです。
これは思考の根底として結果よりも内容や繋がりを重視している弊害とも言えます。
全てを伝えることは不可能ならば優先順位をつけること、また割り切ることが必要になるのではないでしょうか。


もうひとつのポイントとして、当たり前ですが相手(時間)依存であること。
毎日顔を合わせている家族と、たまに会う友人ではお互いに関しての情報量が違います。
元々持っている情報量の差によって伝達の難易度が変化するのです。

私で言えば今一番近い存在として妻がいます。ですので仮に上記の①~④を全て話そうとすれば問題なく話せるのです(相手が嫌でなければw)。
また近い存在であれば、例え伝え漏れがあったとしても修正、挽回のチャンスを作れます。
(ちなみに私と妻は時に5~6時間ほど感情の起因、過去の出来事など酒も飲まずに語り合うことがあります)。

個人的に注意が必要なのは、元々距離感が近かったけれど現在距離を置いている相手。昔のような感覚で話そうとすると上手くいかなかったり、また焦って埋め合わせようとして空回りするパターンがあります。これは自分で想定する伝達の難易度について見誤っているとも言えるでしょう。


総合すると相手との距離によってどこまで伝え、どこまで割り切るかというバランスを測る必要があるという事。
誰にでも全て伝えようとする必要はないのです。
また伝達の難易度という観点からも、身近にいる人達の有難みを再確認することができました。感謝。

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