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エッセイ~偽善について~

「他人のために何かすることが、そのまま自分のためになるのだということが心底腑に落ちて、自分と他人の区別が気にならなくなると、偽善はきっと消え去るんでしょうね」 ~星空の谷川俊太郎質問箱~


「偽善」、難しい言葉ですね。
私も人のために何かすることが好きです。
でもそれは無償ではあり得ない。
やることで得るものが自分の中で確信できるからやるんです。
それはお金など目に見えるものばかりだとは限りません。

例えば「寄付」などがいい例じゃないかと思います。
お金を困った人のために使う、というのは一つの使い方としてポジティブなことです。しかし何故か「名声を得たいだけ」「アピール」などネガティブな声が周りから生まれたり、クローズアップされることがあります。
「寄付した側」「寄付された側」当人同士は満足しているはずなのにです。

ではなぜこのような流れが生まれるのか?

単純に言えば「物の見方」によるものだと思います。
ネガティブ視点だと、「寄付をする人が現れる」→「お金を持っているマウントをしているのも関わらず、無償でお金をあげていい人だという名声も得ようとしている」→「偽善」

「何かしてあげる」というのは「何かしてもらう」当人にとってはプラスの事象ですが、関わりのない第3者からすると「自分が得をしていないけど、関わらない誰かが得をしている」=相対的に自分が損をしている気持ちになる→「批判」

こんなところでしょうか。


また自分でも何かやる際に「これは偽善だろうか」
と考える場合があります。
例えば人のために何かして感謝されるとします。
次に同じような事をやる時、どうしても「感謝されたい」という「欲」が働きます。
「人のために(主目的)」→「感謝される」が
「感謝されたい(主目的)」→「人のために」
順序が逆になってしまうんですね。

こうなると確かに同じことをしていても
どこかモヤモヤしてしまいますよね。
これが極端になると「人のために」が段々小さくなって
「感謝されたい(目的)」→「押しつけがましい」となり
その関係が破綻してしまいます。
だから心持ちというか注意は必要な気がします。

「自分と他人の区別がなくなる」
言ってしまえば「テリトリー」のコントロール。
「自分」「家族」「隣人」「町内」「日本」「地球」
どこまでを「生活」との「関連性」を持つか、
あるいは「排除」してしまうか。
意識一つで行動が変わる気がしました。

「偽善」という言葉は「戒め」くらいでちょうどいい。


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