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エッセイ~出会いが全て教えてくれた~

「いい人にも嫌な人にも出会ったね。言葉が足りずに悩んでばかりで、
魂の熱はそのたび上がる、歌は響き始める」
~イジュ オリジナル曲 待ってて未来より~

自分の歌詞が冒頭で恐縮ですが、
今回は出会いについて書いていきたいと思います。

私は昔から「運」がいいなぁと思ってきました。
なぜなら「出会い」は自分自身だけではどうにもならないからです。
例えば趣味のサッカーやギターを始めたのも
小学校からの親友からの誘いがきっかけでした。
また以前働いていたコーヒー専門店の仕事も
行きつけのカフェで親しい店長に紹介して頂いたもの。
そうやって人生のターニングポイントには
手を差し伸べてくれる人がいたのです。

最近思うのは確かに「出会い」は「運」の要素があります。
しかし出会う時は自分からそのポイントへの「行動」がありますし、
手を差し出してもいいと思える「何か」があるんだと思います。

「何か」とは何か。
逆に自分が手を差し伸べたいと思える人を想像してみると、
「心がオープンであることを示してくれる」
「敬意を感じる」
「繊細である」
個人的にはこのあたりですかね。

性格が明るいとかそういうことではないのです。
うまく言えませんが、
自分の人生を良い悪い含めて肯定する
=相手の人生に敬意を持って関与する余裕がある
のではないかと思います。
(自分だけを肯定=他人を否定という罠もありますが)。
自分自身の生き方=哲学の構築でもありますし、
私達はお互いの「哲学」を尊重したり、
分かち合うチャンスがあるのです。

「繊細である」と「オープンな心」は
一定の確率でイコールであるとも言えます。
なぜなら時として心を無防備にすることは
傷を負うリスクを伴うためです。
「繊細」さは過敏になれば自分自身を傷つけてしまうものの、
人生に対しての注意力を養います。
またそうした経験を鏡として、
誰かに優しくできる一面もあるのではないでしょうか。

さて、最近の私の「出会い」というと
早朝ラジオ体操の方々です。
まさか親より年配の方と友達になれるとは思いませんでしたが。
(ちなみに私は土井善晴先生、養老孟司先生が大好きです)
毎日散歩をして会話したり、
素敵なお庭を見せてもらったり、
私より「継続」の先輩達に
たくさんの知見を分けてもらっている気がします。
そして息子くらいの年齢の私と
同じ目線で接する懐の深さ、
レンジの広さは見習いたい。

出会いは偶然にして必然、
それによって血肉とした想いを
歌に、詩に、文章にできればなんて思っています。







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