エッセイ~気付きについて~
前回、自分の変化を楽しむ=生きる目的ということについて
書いていきましたが、きっとほとんどの人が
10代の頃の自分、20代の頃の自分、
30代、40代と思い返せば価値観や思考は
10年単位くらいで見ていくとかなり変化しているのではないでしょうか。
10代の頃は未体験が多く、
色々な発見に恵まれた時期とも言えるでしょう。
最近思うのはやったことがあるorなんとなく想像がつく
ことが増えて、期待を裏切られることが少なくなったと。
先が分かっていることにワクワクするのは難しい。
おいしいご飯を食べても「あの時食べた〇〇のほうがおいしかったな」
なんて頭をよぎっていてはせっかくの時間が味気なくなってしまう。
斜に構えるのではなく、自分はまだまだ未熟者だと心掛けてみる。
「それは分かっている」というベールを脱ぐだけで
小さな発見を見逃さなくなるかもしれません。
最近私は庭で畑を耕したりしていると
ふと手を止めて植物や虫、鳥を観察します。
それらの生活や動きを見ていると、
人間の常識に凝り固まった自分の価値観が
ほぐされていくような気になります。
言葉が通じないからこそ
それらの小さな変化を五感で感じ取ろうとするし、
自分の知らない世界がそこにはたくさんあります。
地球には人間以外の営みが存在すると気付けば
自分がその中のちっぽけな一つにすぎないと気付く。
自分の悩んでいることが頭の中を支配しても、
自分同様、その悩みだって世界から見たらちっぽけなものです。
逃げた先にも、留まった先にも
ちゃんと道は続く、それだけは確かでしょう。
そもそも「逃げる」とは何かと戦っているから発生する言葉です。
人は日々何と戦っているのでしょう。
また必ずしも戦う必要があるのでしょうか。
戦うにはきっと人それぞれ目的がある。
家族のため、自分のため、正義のため、
生活のため、欲のため…
そしてその目的、利益は人によって違うため、
必ず摩擦は起こるものです。
そのため人は味方を作り、群れを作り、国を作る。
しかし味方だった枠組みの中でさえも
そこかしこで争いは起こっています。
結局枠組みの最小が「自分」であることで
「自分さえよければいい」が発生してしまう。
幸せの椅子取りゲームをしていては
いつまで経っても足の引っ張り合いになります。
残念ながら全員分の幸せが用意されていないので
「分け合い」「助け合い」「譲り合い」が必要なのでしょう。
とりあえず私は育った野菜を
隣人にお裾分けするところから始めてみます。
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