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『縄文旋風』副読本  ヒョウタン 竹

ヒョウタン

ヒョウタンは、世界最古の栽培植物の一つだと言われています。にがくて食用には適しませんが(無理に食べると中毒症状が出ます)、実が容器使いに最適です。日本ではヒョウタンの野生種は見つかっていませんから、ヒトが栽培したと言っていいと思います。日本最古のヒョウタンは滋賀県の遺跡から出ていて、9600年前の物です。それ以前に、大陸から渡来したのでしょう。

ちなみにヒョウタンの種の寿命は意外に短く、三年たつと発芽しないと言われます。春に播種して秋に実が茶色に色づく一年草なのですが、毎年育てなければヒョウタンは維持できません。ヒョウタンは水の運搬には最適で、特に舟による渡航には欠かせなかったでしょう。カラになったら浮きにもなります。

ヒョウタンの原産地はアフリカですが、人類の移動と共に、ヒョウタンも移動したとも言われています。最近のDNA研究から、アメリカ大陸で出土した一万年前のヒョウタンが、アジア系だと分かっています。アジアのどこかから、舟で到達した人がいたのかも知れません。

それから、ヒョウタンで煮炊きすることも不可能ではありません。私は何度か実験しています。

ゆで卵を作っています。

上の写真は、乾燥前のヒョウタンです。乾燥前であれば、2時間程度、連続してあぶっても大丈夫ですね。わずかな亀裂が生じ、水漏れを起こしますが。
乾燥後のヒョウタンでも実験していますが、沸騰はさせられますが、亀裂が生じるのが早いですね。一度の使用が限界です。
少し火から離せば、沸騰まではいかないかもしれませんが、植物のもつベータでんぷんを、ヒトが消化可能なアルファでんぷんに変化させる程度の加熱は出来、その上で何度も使用できると思います。もちろん、焼き石を投入するストーンボイルであれば問題ありません。
ヒョウタンの他に樹皮鍋という手もありますし、土器発明の前から、ヒトは煮炊きをしていたのではないかと私は考えています。


縄文時代のヒョウタンで全形が出土した例は少なく、縄文前期の曽畑遺跡(熊本県)の物は、クビレの無い電球形。復元できる他地域のものも、同様の形だと言われています。

※『縄文旋風』の中のヒョウタン
ヒョウタンはよく登場します。酒器、シャクシなどに加工されたり、酒の醸造(ヒョウタン仕込み)に使われたり、油や調味料の保管に使われたり、楽器という線もあります。「村の人口の100倍、その村にはヒョウタンがある。」そんな気持ちで私は書いています。
電球形ですから、サッカーボールなどを入れるボールネット、そういうアミに入れて運ぶのですが、ウルシ村のいろり屋の一角は、天井が見えないほどヒョウタンが吊り下げられていることになっています。
一方、村に所属していない人は、ヒョウタン栽培はしていません。畠で行う栽培は、ある程度の人口が暮らす村で、分業の一つとして行われているという設定です。
そんな人は、食べきれない狩猟肉などを持って村に行き、ヒョウタンなどと交換してもらうわけですね。


縄文時代の日本本土に、竹は生息していたのか?実はこれが、よく分からないのです。分からないとは、私自身が判断をつけかねているという意味です。文献によって、さまざまですから。考古学界の主流は、竹は生息していなかったという立場のようですが、アンチ考古学を標榜する私としましては、そういうのは鵜呑みにしないように心掛けております。

縄文遺跡からタケ亜科のプラントオパールが出ていますから、笹か竹かその両方かが生息していたのは確かです。
笹類(篠竹など密集して生える細い竹。成長しても皮が落ちない)はあったが、竹(成長すると皮が落ちる)は無かったと言う人が多いようです。
ちなみに見出しの絵は、笹です。

真竹の化石は中新世(2300万~500万年前)に形成された地層から出ていますから、かつて日本に自生していたのは間違いなさそうです。
しかしその後、氷期の寒さで絶滅した可能性もある。
縄文遺跡からは竹の大型依存体(種や実、茎や葉など)は出ていないとされています。
(ところが、出ていると言う人もいますから、ややこしいのですが・・・)

静岡県の登呂遺跡(1世紀くらいの集落)から、真竹の稈(かん。中空構造の茎)が出ていますから、竹は無かったと言う人は、弥生時代になって、大陸から持ち込まれたという立場な訳です。
孟宗竹(節に環が一つ)が唐ないし明から持ち込まれたのはハッキリしていますが、問題は真竹(節に環が二つ)。

真竹


孟宗竹


真竹は120年に一度花が咲き、その時、竹やぶ中の竹が一斉に咲きます。
そしてその後、一斉に枯れる。地下茎でつながっているので、竹やぶ全体で一つの生物、そんな様相を呈するのです。
そしてその花の咲く年というのが、日本中の真竹の竹やぶで、数年の違いしかないそうです。つまり日本中の真竹は遺伝子的に非常に近しく、それも持ち込み説の裏付けになっています。

もちろん、自生し続けたという説もあり、たとえば九州では生き延びたと言うのです。それが最終氷期終了後に、おそらく1万6千年前くらいから徐々に北上した・・・
それにしても、開花・結実が120年に一度なので、人為的移植があったかも知れませんね。
真竹の移植は、地下茎の先端50㎝くらいを切って植え替えるそうです。地上に出ている、長い竹そのものを移し替える必要はありません。その移植を、縄文人が実行していたとしても不思議は無いと思います。彼らは1万年前からウルシを栽培していた(異説もあります)森の民です。

『縄文旋風』では、5000年前の中部高地に竹は存在した、ということになっています。
自生なのか移植なのか、移植ならばどこから持ち込まれたのか、それは分からないが、温暖化が進んだ7000年前くらいには中部高地に真竹の竹やぶがあってもおかしくは無い。

真竹は稈や枝や葉だけでなく、皮まで利用できます。(タケノコは苦いが食用となります)
特に稈の利用範囲は極めて広く、有用植物の筆頭格です。
金属器の無い時代、縦に裂けやすい竹の稈の横切りは、今と比べれば難儀な作業だったと思われますが、縄文人なら石器を使ってやすやすとやってのけたと思います。
そんな真竹の移植を彼らが試みなかったはずは無い。私にはそう思えてならないのです。


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