見出し画像

縄文土器 小考

縄文土器について考えてみたいのですが、縄文土器の何について考えるかと言えば、焼成方法です。

縄文土器が、具体的にどうやって焼かれたのかは分かっていません。
よく野焼きだと言われますが、野焼きではなかったと言う陶芸家もいます。

双葉社より2003年12月に第1刷発行
吉田明先生は、七輪陶芸の本も出されています。

私はこの本を、図書館で何度も借りました。縄文時代研究で一番参考になった本はどれだと聞かれたら、私は迷わずこの本だと答えます。やきものを通じて、縄文人の姿が見える思いがしました。
したがってこの文章も、この本によるところが大きいです。

まずは言葉の定義から。
この稿で使う「縄文土器」という言葉ですが、通常とは異なる使い方となります。
 砂を混ぜた粘土が使われていること。混ぜ合わせの比率は、アバウトです。
 低温焼成であること。800℃以下のイメージですが、600℃程度でも十分焼成できます。本来、高温焼成の物は「土器」とは言わず、須恵器、陶器、などと呼び名が変わります。
以上、この2点を満たせば縄文土器とみなします。制作年代や形、デザインなどは関係無しとします。
一般に、弥生土器の方が縄文土器よりも高温で焼かれています。

では、焼成の基本から。

瀬戸で買った、赤??号の土です。何号だったか忘れちゃいました。

上の四つは、全部同じ粘土です。
焼成には、炭と七輪を使いました。釉薬は使っていません。
あらかじめお断りしておきますが、この先にやきものの写真が何点か載せてありますが、すべて無釉ですし、電気窯やガス窯で焼いたものはありません。穴窯で薪を使って焼いた参考写真はあります。

では左から説明します。
一番左。なま粘土です。乾いているだけで、焼いてはいません。水に浸ければ崩れてしまいます。
二番目。推測ですが、焼成温度は550℃くらい。水に溶けない最低温度を目指しました。ですから七輪は使っていません。私から見ると、七輪は窯です。私は七輪で、ぐい呑みを200個くらいは焼いています。
これはコンクリート土間の上で、炭を近づけることによって焼きました。
三番目。推測ですが、焼成温度は900~1000℃。七輪の中で、送風して焼きました。赤と黄の二色が出ているのは、おそらく部分的に還元焼成されたためです。

同じ粘土で焼いた小皿。釉薬は使っていない。

無釉であっても窯変が激しいのが、七輪焼きの特徴です。これには砂が混ぜてありません。小皿を焼くのは難しく、縁(ふち)から中央に向かった亀裂が入りやすいですね。

一番右。強制還元焼成。実際はもっと銀色に見えます。割って内部を見ても、すべてがこの色になっています。最強度の強制還元です。

①このような状態にしておいて
②焼成中の七輪にフタをして、濡れた新聞紙で何重にも包む。そうやって、完全に外部から空気が入らないようにする。
①は説明のための写真です。①を②にしたのではありません。

燃焼とは、炭素1個と酸素2個が結びついて二酸化炭素になることだと乱暴に定義した場合、炭素は、炭にも薪にも売るほどあります。酸素は、普通なら空気中にあります。
ところが燃焼中に外部と遮断すると、酸素の供給がストップしてしまいます。高温状態でそうなった時に、炭素は釉薬からだろうが土からだろうが、とにかくそこにある酸素を奪って行くのです。
それが強制還元。
そうやって、徹底的に酸素を奪われた土が上の写真です。
ただこれをやると、七輪にとっても酸素が奪われます。
水浸しになって急冷させられて、七輪は大いに傷みます。

私が焼成の基本で言いたい点は、基本的に、粘土は焼成によって色が変わるということです。
それは粘土の種類によって様々で、変化に乏しい粘土もありますが、焼成前の粘土と焼成後の器の色が違うのが普通です。上の粘土の場合なら、左から二番目が野焼きした土器の色です。

ところがですね、YOUTUBEの野焼き動画を見ていると、野焼き前と野焼き後で、土器の色が同じという動画が結構あるんですね。さて、これは何を意味しているのでしょう?
ひとつ言っておきますと、電気窯でもガス窯でもいいですから、500℃くらいで一度焼いた器は、急に熱したとしても割れにくくなります。
野焼きって、じつはとっても難しいんですよね。

8:00 から野焼きに言及しています。


これは私が焼いた縄文土器です。上と同じ粘土に砂を混ぜて作りました。

このように、鍋使いができます。吉田明先生の見立てでは、縄文土器には相当量の砂が混ぜ込んであるそうです。砂を混ぜると焼成時に割れにくくなります。ちなみに私は、砂を混ぜていないぐい呑みや小皿を何十個と割っています。椅子に腰かけて作業していたのですが、パンと結構大きな音がしますから、びっくりして後ろにひっくり返りそうになります。
最初が難しいんですよ。焼き始めですね。色が変わるのを見極めながら、徐々に炭を近づけて行きます。コンクリート土間の上で、ぐい呑みを囲むように炭を置いた場合、あせって近づけると、割れます。
でも砂が混ざっていると、確かに割れにくいです。ただあまりに砂が多いと水漏れしますね。
さて、上の土器をどうやって焼いたのか。吉田明先生のやり方に近い方法で焼きました。

最初はフライパンの縁(ふち)にだけ、炭を置いていました。そして徐々に炭を増やしていったのです。
炭はかなりの量が、すでに熾(おこ)してありました。

20分後

上の写真から20分後の様子です。ここまで来ると、もう割れません。

この大きさの土器は、フライパンの中だけで十分焼けるのです。縄文時代に炭は無かったとしても、燠(おき)なら、うなるほどあったはずです。吉田明先生は、縄文土器は燠で焼かれたという自説を述べておられます。そして実際に沢山の縄文土器をご自身で焼いたのだと思われます。本の表紙で、先生の右手の前では、尖底土器が燠によって焼成されています。
ここで言う燠について説明しますと、薪の燃焼が進むと上の写真のような真っ赤な塊ができるでしょう。その部分を取り出して水に浸けて消します。それを乾かした物をここでは燠と言っています。再度着火すると上の写真のような状態となり、700℃くらいまで発熱するそうです。

縄文遺跡から炭焼き窯の跡は出ていません。ですから木炭は無かったとされています。しかし私は縄文時代に木炭はあったと思っています。それは炭焼き窯を使わずに作られた木炭です。伏せ焼きですね。木炭があったからこそ、小さな竪穴住居の中に炉があったと考えています。
小さな竪穴住居で薪など焚けません。煙たくて居られないからです。よく屋根に煙抜きの穴があって・・・などと言われますが、排煙できるかではなく、充満しないかどうかの問題でしょう。充満あるいは拡散してから排煙しても、煙たいのに変わりはありません。壁際に炉があるのなら、壁伝いに煙を誘導させることも可能でしょうが、中央に炉があるのです。煙道を作るのは難しいと思います。薪が消える間際に出る大量の煙。耐えられる人間はいないと思います。
小さな竪穴住居は、煙が少ない木炭を使用する前提で設計されたものだと考えるのが合理的でしょう。照明には、別に灯りが有ったのだと思いますよ。たとえばランプとか。あるいは明るくしたい時にだけ、苧殻(おがら)などの燃えやすい物をくべたのかもしれません。

伏せ焼き、木炭の伏焼法については、博物館の縄文担当学芸員でも知らない人が多いですね。私は数人に尋ねましたが、誰も知りませんでした。つまり、大学で教えていないのでしょう。考古学界が、炭には興味が薄いのかもしれません。しかし伏せ焼きは、1万年前からあったと言う人もいます。
炭はバクテリアが分解するものではないので分子としては安定していて残りやすいのですが、破砕されてしまって土などと混合しやすいので遺跡からは出にくいと思います。平安時代などの明らかに炭が存在していた時代の遺跡からも、燠は出ていますが炭はあまり出ていないようです。


それはともかく、土器を焼くのに炎を上げる必要はないのです。そして、一度で焼く必要もありません。何度かに分けて焼いてもかまいません。濡れた布などでこすってみて、粘土が付けばそこはまだ焼けていないのだから、その部分をまた焼けば済む話です。木炭は無くても燠さえあれば、こんな簡単な方法で土器は焼けます。土器を焼くのに、天を焦がす炎は必要ない。いやむしろ、そんな炎は邪魔でしかありません。

これも同じ粘土です。車で瀬戸市の道を流し、見つけた粘土工場で20㎏2000円で買った粘土ですから、ぐい呑みなら何百個も作れます。
この二つには砂が混ぜてあります。そして上と同じやり方で同時に焼きました。陶芸用語で右を炭化と言います。わざと炭素質を付着させるんです。洗ったくらいでは落ちません。ただしこれを火に掛けると、炭素質が焼き切れて、左のような色に戻ります。

上の黒い三つが炭化です。どうやったかと言うと、もみがらに埋めました。焼き上がったぐい呑みを、熱いうちに埋める必要があります。私の焼き方なら、そういう操作が出来ますよね。私はある程度の大きさの縄文土器を何個も焼いていますが、大きい物は一個一個焼いています。すぐ横に座って、何度も土器の向きを変えたり炭の位置を変えたり、とにかく操作しながら焼いていました。
そして、このようにムラ無く炭化された土器や土偶が、縄文後期くらいから作られ始めるのです。もみがらではなく、枯れ葉などを使ったのでしょう。
でも野焼きのような方法で焼いた土器を、いったいどうやって炭化させるのでしょうか?土器が熱いうちに、近づいて操作しなければ、ムラの無い炭化はできません。周りの地面を熱くしてしまっては、土器に近づけない。当然、炭化は出来ないのです。

これは今までとは違う粘土です。焼け始めた所の色が変わっているでしょう。この頃には私も慣れて来て(なんせ20㎏の粘土を使い切った後ですから)少量の炭で要領よく焼くコツをつかんでいます。

上下とも、自作の覆いフタ
駄温鉢(強制還元の写真の植木鉢)でこれをやったら、真っ二つに割れました。

上三つは同じ粘土です。どれも炭を使って同じ方法で焼きました。野焼きのような不安定なやり方ではなく、間近で操作しながら焼いています。
縄文人が、このやり方を知らなかったとは思えません。灰だまりでなら、もっと簡単に焼けると思います。私は、大量の灰があればなあ、と何度も思いました。灰で焼き始めたら、割れる心配も少なくて楽なんです。

このフライパン、何の金属で出来ているのか知りませんが、七輪の上で溶けてしまいました。
そんな高温でも、鍛えた縄文土器は耐えるのです。


私が思う縄文土器の焼成方法。

縄文時代、段々と土器には激しい加飾が施されるようになりますが、縁(へり)を焼くのが難しく、じつはこれはまだ焼き上がっていませんでした。雨に打たれて崩れたのです。以下、焼成過程を説明します。

この状態からの出発です。
プライパンの中に、自作の深皿が入っています。深皿を焼いた後に、焼き始めました。
30分後
1時間後
深皿は外に出ています。深皿は焼成完了。
4時間後
この状態からの放置で終了しました。

この3時間の間に焚き火に入れれば、縁まで綺麗に焼けたでしょうし、割れずに焼くことができたはずです。
つまり、私が思う縄文土器の焼成方法は・・・
すんなりした形状の物は、燠だけで簡単に焼けます。
複雑な形状の物は、燠で加熱しておいて、小さな焚き火も組み合わせたのではないかと思います。


最後に縄文土器の特徴について触れておきます。

焼き上がった土器を水に沈めると、非常に多くの気泡が出ます。低温焼成ですから、焼き締っていないのです。気泡の分の水が土器に入りますから、土器自身が多くの水を含みます。ですから土器を火に掛けても、中の水は沸騰しにくいですね。時間がかかります。
そして乾いた土器は、湿った手にくっ付きます。珪藻土のバスマットの上を歩くと、足の裏がくっ付くでしょう。あれと同じです。土器のぐい呑みで酒を飲むと、唇がぐい呑みにくっ付きます。
土器の表面に模様を入れた理由ですけど、手にくっ付くのが気持ち悪かったから、デコボコを作ってくっ付きにくくしたのではないかと、私は密かに思っているのです。夢の無い見方ですが。
あと、縄を転がすことによって粘土を締らせたと、何人もの考古学者が説明していますが、それは大ウソです。そんな事をやっても、粘土はズレるだけで締まりません。粘土を締らせる最善の方法は、磨くことです。乾ききる前に、スベスベの石やハマグリの貝殻で、ゴシゴシこすって磨くんです。縄目があっては、石で磨けないじゃないですか。そんな事、縄文人は知っていましたよ。内側は磨いていますから。磨いておいた方が水漏れはしません。でも彼らは、その磨きを犠牲にしてまでも加飾に走ったのです。

穴窯で薪を使って焼いた皿。
たぶん、1300℃くらいは行ってたんじゃないかな。無釉ですが、薪の灰がかぶりこうなっています。
これがウラ面。完全に焼き締っています。無釉であっても、これなら水をはじきます。

豊田市民芸館の穴窯で焼いた物です。この窯焚きにも立ち会ったのですが、1時間かけて100℃窯の中の温度を上げるような薪のくべ方をしました。ゆっくりと加熱していくのです。作品が割れないためには、そうする必要があるということです。
私は陶芸に興味があるというよりも、焼成に関心がありました。理科の実験の感覚ですね。一時期は、自宅で毎日七輪焼きをしていました。午前3時くらいからです。
ぐい呑みなどは私にとってはテストピースですから、夜に形作った物を電子レンジとスキレットで乾かし、すぐに焼く。嫁さんにはナイショですが、電子レンジの中で、2度、爆発させています。
そんな私に言わせれば、3週間かけて作品を乾かすなんて言うのは、ロクロをひいて真円を目指し器を形成する陶芸家の発想です。乾く時にこそユガミが生じるのですから、均等にゆっくりと乾かす必要がある。
でも縄文人は、作ったそばから焼いていたと思います。放置による自然乾燥ではなく、作業によって乾燥させていたという意味です。吉田先生も言っていますが、灰があれば簡単に乾かせるんです。それは私も釉薬用の木灰を買って来て実際にやっています。
七輪の上にフライパンを置き、そこに灰を入れる。その灰に埋めて、作りたてのなま粘土を焼き始めるのです。すぐに乾きますし、そのまま焼成に持ち込めます。
これはぐい呑みの大きさの物の例ですが、大量の灰があればもっと大きな物でも可能な気がします。

縄文人は食料だって灰焼きをしていたはずです。いや、食料の灰焼きの歴史はもっと古いでしょうね。土器の無い、旧石器時代から行われていたと思います。
現代人は縄文クッキーを再現するのにフライパンで焼きます。でも縄文人は、熱い灰の中に投げ込んでいたのではないでしょうか。焼き上がった物をフッと吹けば、灰は簡単に飛ばせます。現代人が失った灰焼きという行為は、彼らにとっては日常に溶け込んだ行いだったと思います。木灰は常に彼らの身近にあり、さまざまな用途に利用されていたはずです。

最後になりますが、縄文土器を見ていて私が一番思うのは、決して一度に大量には焼かれなかっただろうということです。あれだけの加飾を施し、情念を練り込んだような物を、手の届かない場所で焼くなんていうことを、はたして彼らはしたのでしょうか。一個一個、大事に焼いたのではないかと思えてならないのですね。
彼らの中には、窯という概念はありません。一度に数個を、焼き上がるまで遅滞なく焼くという発想は、窯を知っている現代人の発想です。集合体で焼くなんていう考えは、彼らの中には無かったと思います。
個性際立つ縄文土器に、一斉焼成は似合わないと思いませんか。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?