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縄文人と山岳信仰

『考古学推理帖』なる書籍があります。
著者は兼康保明(かねやすやすあき)さんという方で、1996年の発行ですから少し古い本なのですが、私は最近になって読む機会がありました。その中に「山上の石鏃」と題された考察文があり、大変興味深く拝読しましたので、それについて少し書いてみたいと思います。ちなみに石鏃はせきぞくと読み、石の矢じりを指します。縄文時代と弥生時代に使われました。

兼康さんについては、私はそれまで存じ上げていなかったのですが、現在は東海学センター理事というお立場で活躍されているようです。

「山上にのこされた石やじりの謎」
伊吹山をはじめ、全国の山容が美しい高い山から見つかる縄文時代の矢じり。狩猟できないような場所から見つかるこの石矢じりの意味するものは何だろう。

このような内容で、最近も講座を持たれているようです。私はこの講座を受講していませんし、最近の兼康さんの発言なども一切知りません。ですから以下の文章は、あくまでも1996年に発行された書籍に基づいたものとなります。

ちなみに三内丸山遺跡において、直径1メートルの栗の柱6本が見つかったのが1994年です。それにより縄文学に大きなうねりが生じました。その一つが、縄文時代に定住生活が送られていたことが確定的になったということです。

「山上の石鏃」の執筆はそれ以前であった可能性もあり、現在の縄文学の知見とは異なった部分もあるかと思います。この先の引用において『広い領域を生活空間として移動していた縄文時代』という文言が出て来ますが、これは当時の認識であったのだろうと思います。

ではまず出版当時の著者紹介文から見て行きます。著者は近畿各地の遺跡調査に携わり、石造美術から中世の石工の実態解明にも取り組み、各地の山岳信仰の遺跡を探訪されているとの事です。


前置きが長くなりましたが、さっそく内容の紹介に移ります。

①比叡山の山頂部での発掘調査で、地表下120cmの土中から、縄文時代の物と思われる石鏃1点と石くず2点が見つかった。石くずは石鏃作成時に出た破片である可能性がある。

②その近くでは他に縄文遺跡は無く、ふもと部分に遺跡群が散見するが、山頂との比高差は700メートル以上もある。

③伊吹山(標高1377m)の山頂付近でも数点の石鏃が見つかっており、先端が欠けた物もある。①と同様、石くずも出ている。こちらはふもと部分の遺跡群との比高差は900メートル以上。

④ほかの山の山頂付近でも似たケースがあり、見つかる矢じりは縄文期の物で、弥生時代の物は見つかっていない。山の特徴は、独立峰で平地から見た時の山容が美しい山が多い。

⑤比叡山でも伊吹山でも、ふもと部分に散見する遺跡群の標高は、縄文時代の方が高く弥生時代の方が低い。つまり縄文人はけっこう高地でも暮らしていた。

⑥山梨県三ッ峠山の標高1780メートルの山頂付近から、縄文土器や石器が出土することが大正時代から知られていた。ここからは富士山の眺めがいい。

⑦八ヶ岳南峰の編笠山(標高2524m)の標高2400メートル地点で、藤森栄一さんが黒曜石の石鏃を見つけている。

⑧その近くの蓼科山(たてしなやま、標高2350m)の山頂からも石鏃が採取されている。

⑨土器の破片が採取される山頂も多く、それは決まって再調査しても見つからないほど少量だ。

著者は、⑥⑦⑧に類する例を、他にいくつか挙げています。読んでいて私は改めて思ったのですが、縄文人は海洋の民の側面があるだけではなく、山岳の民の一面も持ち合わせていますよね。海に漕ぎ出してもいましたが、山にも登っている。それから、高地で暮らしていました。八ヶ岳の西麓や南麓の標高1000メートル付近では、おびただしい数の縄文遺跡が見つかっています。

そして著者は、①③のケース、石くずが出土した点に注目します。わざわざ山頂で石を加工して、真新しい矢を作ったのでしょう。それは狩猟が目的だったのか?以下、少し長文ですが、そのまま引用します。

 『私は稲作以前と以後とでは、人間の山に対する想いが異なっていたのではないかと、密かに思っている。そのことを説くには、さらに紙数を必要とするが、ひとことで言えば稲作以後の古代人にとって、生活空間としての山は、里から手が届く範囲の高さを指したのであろう。弥生時代、大阪湾を望む高地性集落をはじめ、琵琶湖でも西岸に点々とみられる高地性集落のあるところは、山全体からみればまだ生活空間としての里山の範疇である。そしてそれより標高が高く、平地からの比高差が500~600メートル以上のところともなれば、遺跡はほとんどなく、生活とは直接縁のない、まさに神の住む領域であったのだろう。遺跡の分布からみると、峠越えなど特定の道を別にすれば、おそらく山には垂直分布による、人と神との住み分けがあったのではなかろうか。

 周りの山々より高く、季節によっては雪をいただき、風の吹きすさぶ高山の山頂や、山麓や山腹をうっそうたる樹林に包まれた、あたかも入山を拒むように神秘的な山の姿は、生活空間としての里山とは異なった世界であったに違いない。ただ、稲作民のように土地に縛りつけられず、広い領域を生活空間として移動していた縄文時代にあっては、稲作文化とは異なった神観念があったはずである。こうした神観念の相違から、里山よりもさらに奥深い山の頂に挑む冒険の炎が燃え盛っていたのだろう。あるいは、日常の生活空間と比べ、風が強かったり、温度が低かったりする山の厳しい気象条件は、大自然の神と語る場所であったのかもしれない。後の時代に、山岳修行者が求めたのと同じ感覚があったと考えても、けっして不思議なことではない。

 一方、矢は単に武器であるだけでなく、神を祀る道具でもある。

 地面に矢を挿して神を祀った話は、各地の民間伝承にみられる。例えば・・・』

この後に、封内風土記にある坂上田村麻呂の例や、新編常陸国誌の中の源義家の例を提示しています。
さらにアイヌが熊送りの祭祀に用いる花矢を例示し、『山で真新しい石鏃をつくって矢をこしらえ、地上に矢を挿して神を祀った名残りなのかもしれない。』と続きます。

そして以下のように結びます。

 『こうした山上から出土する石鏃が私に与えた一番の感銘は、神秘的な威圧感すらある独特の山容をした山々の、しかもおそらくまだ道とは言いがたい道を登って山頂を目指した、縄文人の冒険心につきよう。その意味では、この石鏃ほど、遠い祖先の情熱のたぎりが、ひしひしと現代に伝わってくる遺物は他に例がないであろう。

 山頂の風雪に耐えたわずかな遺物こそ、道なき道を拓いて神の坐(ましま)す頂きへ挑んだ、縄文登山家(クライマー)達の夢の残り香と信じたい。』


以上、長々と引用しましたが、私は感銘を受けました。

山頂から矢じりが出ていたのも初めて知りましたし、なるほど比高差を考えれば、狩猟行為の一環とは思えない。そこでは特別な儀礼がおこなわれたのでしょう。土器も出ていますし(しかも少量)山頂とは、彼らにとって、ふもとから見て信仰するにとどまらず、そこに立つべきものだったにちがいありません。

『稲作文化とは異なった神観念』とか『垂直分布による、人と神との住み分け』とか、稲作文化発祥以前と以後とでは、山岳信仰のあり方にも異なった様相がある点が浮き彫りになりました。見方によっては、縄文人は神のそばに身を置いたと言えるのかもしれません。

私はこの著作に啓発もされましたし感銘も受けたのですが、実を言うと、もしかすると・・・ と思う部分が一点だけあるのです。ふと、こういうケースもありはしないか?と思ってしまった箇所があり、以下にそれを書き記します。

著者は地面に矢を挿したと推察していますが、確かにそうかもしれません。それは、その山での狩猟行為の成功を願ったのかもしれないし、山との同化を図かり、無事故を祈願したのかもしれない。その他の動機も有り得ますし、十分に可能性がある行為だと思います。

しかし矢とは本来、弓の弦につがえて放つ物です。それも普通は遠くに放ちます。ですから遠くに放たれた矢も中にはあったのでは?そう思ったのです。では、どこに向けて放たれたのか?彼らは何に向かって弓を引いたのか?

雨乞いという言葉がありますが、農耕の民にとって、天に対しては常に請う(乞う)のが正しい態度だったのかもしれません。日照を乞い、降雨を乞い、霜が降りないことを乞い、洪水の無いことを乞いました。天候不順は、場合によっては死に直結するからです。

対して縄文人は、狩猟(漁労)、採集、栽培の民です。そして栽培に関しては、携わらなかった人も多かったはずです。栽培は、種をまいてお世話をして収穫にたどり着くのですが、採集は、放っておいても勝手に生った物を、見つけてもぎ取るだけです。天候により生命をおびやかされる度合いは低かったと言えます。狩猟採集民に飢饉はありません。おそらく彼らには、干ばつという概念は無かったでしょう。田畑が干上がっても、山は緑です。

そしてこれは、もしかすると、なんですけど・・・
縄文人にとっての天は、時に、こらしめる存在だったのかもしれない。と言っても、太陽に対してではありませんよ。その逆で、こらしめる相手は雨雲であり黒雲です。

彼らは、もともと水場のそばで暮らしていました。ですから雨については、まったく降らなくてもよかったのかもしれない。晴天続きで何ら問題なかった気がします。いえ、長期の気象変動のお話ではなく、日々のお天気についてですが。

大雨や大雪を降らせ、強風を起こし、雷を落とす。そんな黒雲の勢力を弱めてやろうと計ったかもしれないでしょう? であるならば、矢は、どこに向けて放ったのか?

天に向けて放ったのです。天に近づくために山頂に登り、そこから放ったのです。おそらく、その山の神の力を借りて。
乞うのではなく、こらしめる。いえ、縄文人一般がそうだったとは言いません。中にはそんな跳ねっ返りもいたかもしれないし、逆に、選ばれた勇者の仕事だったのかもしれない。
と、まあ以上は、私の空想にすぎないのですが、実際のところは地に挿したのかもしれません。でもどっちも可能性があるとした場合、一般認識から遠い方を選んでみたいというのが、『縄文旋風』を書く上での私の立ち位置であったりします。

自然と共存する縄文人・・・ 現代人が思い描く縄文時代のイメージがそれでしょう。ですが私の描く縄文人は、時として天に立ち向かい、大自然に歯向かって行動したりもするのです。


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